引きニート令息とご側近さま

ちえ。

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出立前に(sideジョエル)

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「一緒に入ろう、アンドリュー」
 僕が汚したシャツをさっと着替えただけの姿で、アンドリューは朝から浴室の準備をしようとしていた。明日には会えなくなる。寂しくて甘えた声で強請ると、冷たい声音が返ってくる。
「私はジョエル様の入浴の準備をさせていただいているのです」
 その声は、少し険を含んでいて不機嫌そうだ。彼には少し潔癖なところがあるから、こんな姿で、ルーティンから外れた乱れた生活をしている事が不服なのかもしれない。
 ここは押してはいけないところだと心得ている。少し寂しいけれど。

 浴室に消えていったアンドリューを見送って、大きく溜息を吐く。
 本当に、本当に、不本意だけど。
 僕にはやらなければならない事がある。

「カエデ、明日王都に発つ」
 声をひそめるでも、張るでもなく。普通に空中へと話しかけると、何処からともなく返事が響いた。
「承りました。道順と手筈は、いつもの通りでよろしいでしょうか」
「ああ、それで。服装はいつものアレと、他にも多めに積んどいて。今回はちょっと面倒くさい遣り取りありそうだし」
「御意に」
「以上」
 用件だけの遣り取り。こういう裏の分野には、アンドリューは絡ませていない。
 公爵家には優秀な影がたくさんいるって事は知っているだろう。執事長なるハリソンはある程度それを扱える。その孫たるアンドリューが知らない訳はないが、今のところ接点は持っていない。
 僕は裏の世界を牛耳ったり丸め込んだりするのは嫌いじゃなかったけど、アンディには関わらないで欲しいと思っている。誰かから恨まれたり狙われたり。もしそんなことになったなら、生きた心地がしない。
 まあ、栄えある公爵家の次男のやる仕事でもなければ、仕事として認められるものでもないけど。
 裏の社交場での情報操作。兄さんと、需要と供給が一致したお仕事はこんなもんだ。

「お湯の準備が整いました」
 程なく部屋に戻ってきたアンドリューが恭しく一礼する。
 少し乱れたままの髪が、この手の内に彼がいたことを示しているようでひどく愛おしい。
「ねぇ、アンディ。一緒に入りたい」
「駄目だと言ったでしょう」
 とりつくしまもないが、さっきまでの不機嫌は消え失せているようだ。
「僕ね、明日からちょっと出かけるんだけど」
 初めて伝えたその計画に、彼は少しだけ目を見開いた。アンドリューの袖を摘まんでくいくいと引く。半歩身を寄せてからの上目使い。アンディは存外これが好きなのだと知っている。
「その前に、アンディを補充したい」
 深い溜息が耳に届いた。でも柔らかいその唇の端には、不快そうな様子はない。
「補充も何も、常にお側に侍っているではないですか」
 呆れたような声音には、親しみが満ちている。当たり前だと、そう言ってくれているようだった。嬉しくて頬が緩む。
「僕には足りないよ、アンドリュー。君といつも、ずっと、一緒にいたい。だから、僕のお嫁さんになって」
 困ったように彼の眉根が寄って、苦笑じみた笑いが頭の上から降ってきた。
「我々は代々公爵家にお仕えする事を喜びと致している、主様のしもべ。そのような大それたものにはなれないと申し上げているはずです」
 つれない返事には嫌悪はない。それは、本心からで。きっと、アンドリューはその信条と使命の元に生きている。
 だから、無理なのかもしれない。本当の意味で、彼を手に入れるのは。
 でも、一生側にいられたら。唯一無二でいられたら。それは、添い遂げたとも言えるのではないだろうか。
 そう思うから、憂鬱な一仕事だって、まあやってやるかって気持ちになるのだ。


 それから、ほんの少しの準備と多大なる怠惰で一日を終えて。
 まだ人の出入りの少ない早朝に、僕は公爵邸を発つことにしていた。
 こういった事は、数か月に一度はある。だから、決して目新しくはない。
 だけど、アンドリューは心配そうに眉間に力を込めて、白い顔で僕を見下ろした。
「どうか、ご無理をなさいませんよう。ご無事を切にお祈りいたしております」
 真面目な声で言葉を綴る。その真剣な表情が、また可愛いだなんて。僕がそんな事思ってるなど考えたこともないんだろうな。

 健気なアンディ。僕を案じてくれるの?
 だったら僕は、それに付け込むまでだけど。
「ねぇ、しばらく会えないから。お呪いにキスして」
 寂しげに微笑んで強請ると、アンドリューは溜息をついた。彼の溜息には、色々な意味がある。感情や言葉を飲み込むときの癖みたいなもので、それ故に人に恐れられがちなのだけど。そこに秘められているのは、否定的な意味だけではない。
 それを示すように、アンドリューの指が僕の頬に添えられて。
 そっと僕の額へと唇を落とした。

 柔らかく温かい、唇の感触。
 そんな遠くにいないで、もっと近くに触れて欲しい。
 僕は伸び上がって、その唇に唇を重ねる。
 掠める程度の触れ合いだったけど、恍惚とした思いに占められた。
 欲しくて欲しくてたまらないものに、ほんの少しだけ触れられた。到底満足なんてできないけれど、唇に残った感触に胸中が高揚する。
 ああ、嬉しいな。
 してやったりと笑う僕から、アンドリューは一瞬目を逸らした。
 本当に、どうしようもないくらい可愛い。
 彼は、冷静なふりを続けながら、ほんのりと耳を赤く染めていた。

「必ずご無事にお戻りください、主様。七日後、隣町までお迎えに参ります。お戻りをお待ちしています」
 重々しく礼をして、馬車に乗る僕を見送る瞳には少し陰りがあって。
 彼が僕を待っていてくれることが良くわかった。

 ああ、だからアンドリューとここでのんびりと添い遂げるために。
 僕は今回もそこそこ、この国の役にたってやろうじゃないか。
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