21 / 159
第三章 闇の洗礼
十二話 束の間の自由 1
しおりを挟む
◆
獣の巣のような天幕の中。男たちの汗と酒、そして獣めいた昂ぶりの残りかすが混じった空気に、玉蓮の肺が押し潰されそうになる。都の外に出たのはこれが初めてだというのに、こんなにも小さな天幕の布に囲まれると、自分の輪郭までも縮んでしまうようだ。
目蓋の裏に浮かぶ赫燕の瞳に、赫燕の指の感触に、腹の底の炎がじわりと陰に呑まれ、揺らぐ。風のせいでもないのに、その勢いが頼りなくなった気がして、玉蓮は思わず顔をしかめた。
(——玄済国王を必ずこの手で。決して、怯むな)
玉蓮は、顔を上げると天幕の入り口に目をやった。少しだけざわめきが遠のいた外の空気を感じて、音を立てずに入り口へと近づく。
布をそっと持ち上げて様子を見れば、外はすでに闇に包まれていて、遠くで揺らめく篝火の微かな光が、ぼんやりと周囲を照らしているのがわかる。兵士たちの姿もまばらなようだ。
ほんの少し、外の空気を吸うだけ。都の外の夜の空気を、肌で感じるだけ。幼い頃から鍛え抜かれたこの身一つあれば、並の男に遅れをとることはない。獣の巣に飲み込まれて、息を潜めて怯えるなど、復讐を誓った己がすることではない。
ここは、玉蓮が公主である白楊の軍営。その肩書きに、ほんの少しでも意味があるなら、恐れるものなどあるはずがないのだ。朱飛の忠告が脳裏をよぎるが、玉蓮はそれを頭の中から振り払うように、一歩、外へと踏み出した。
布を一枚めくった先は、絹が擦れ、香が焚かれる後宮とは何もかもが違う、剥き出しの世界。草木の匂い、土の感触、遠くで響く獣の鳴き声。穏やかな風も、澄んだ夜空も、そして篝火の焦げた匂いも。
肌に降り注ぐ全てが、後宮の床の上では、決して感じることのできないものだった。
「……すごい」
自然と足が前に進む。兵士たちのわずかな物音や、馬の嘶きが聞こえるが、それらもまた、この世界の一部として溶け込んでいく。
やがて、少しひらけた小高い丘を見つけると、玉蓮は枯れ草の上に腰を下ろした。都では決して手に入らなかった静けさが、まるで霧のように玉蓮の周囲を包んでいる。
見上げた先には、夜空を埋め尽くすように瞬く星々。姉と見上げていた、あの日の夜が今もなお、鮮やかに蘇る。声も、匂いも、その温もりも。
姉の温かな腕を思い出して、懐にしまった鳥ごと抱きしめるようにして、自分の膝を抱えて頬を擦り付ければ、「玉蓮」と微笑む声が頭の中に響いた。
「姉上……」
ぽつりと呟いた声が、闇にふわりと溶けて消えていく。どんなに求めても、どんなに焦がれたとしても、その温もりが戻ってくることはない。だから、恋しさを掻き消すように、玄済国の王都・呂北を心のうちで焼き尽くした。
獣の巣のような天幕の中。男たちの汗と酒、そして獣めいた昂ぶりの残りかすが混じった空気に、玉蓮の肺が押し潰されそうになる。都の外に出たのはこれが初めてだというのに、こんなにも小さな天幕の布に囲まれると、自分の輪郭までも縮んでしまうようだ。
目蓋の裏に浮かぶ赫燕の瞳に、赫燕の指の感触に、腹の底の炎がじわりと陰に呑まれ、揺らぐ。風のせいでもないのに、その勢いが頼りなくなった気がして、玉蓮は思わず顔をしかめた。
(——玄済国王を必ずこの手で。決して、怯むな)
玉蓮は、顔を上げると天幕の入り口に目をやった。少しだけざわめきが遠のいた外の空気を感じて、音を立てずに入り口へと近づく。
布をそっと持ち上げて様子を見れば、外はすでに闇に包まれていて、遠くで揺らめく篝火の微かな光が、ぼんやりと周囲を照らしているのがわかる。兵士たちの姿もまばらなようだ。
ほんの少し、外の空気を吸うだけ。都の外の夜の空気を、肌で感じるだけ。幼い頃から鍛え抜かれたこの身一つあれば、並の男に遅れをとることはない。獣の巣に飲み込まれて、息を潜めて怯えるなど、復讐を誓った己がすることではない。
ここは、玉蓮が公主である白楊の軍営。その肩書きに、ほんの少しでも意味があるなら、恐れるものなどあるはずがないのだ。朱飛の忠告が脳裏をよぎるが、玉蓮はそれを頭の中から振り払うように、一歩、外へと踏み出した。
布を一枚めくった先は、絹が擦れ、香が焚かれる後宮とは何もかもが違う、剥き出しの世界。草木の匂い、土の感触、遠くで響く獣の鳴き声。穏やかな風も、澄んだ夜空も、そして篝火の焦げた匂いも。
肌に降り注ぐ全てが、後宮の床の上では、決して感じることのできないものだった。
「……すごい」
自然と足が前に進む。兵士たちのわずかな物音や、馬の嘶きが聞こえるが、それらもまた、この世界の一部として溶け込んでいく。
やがて、少しひらけた小高い丘を見つけると、玉蓮は枯れ草の上に腰を下ろした。都では決して手に入らなかった静けさが、まるで霧のように玉蓮の周囲を包んでいる。
見上げた先には、夜空を埋め尽くすように瞬く星々。姉と見上げていた、あの日の夜が今もなお、鮮やかに蘇る。声も、匂いも、その温もりも。
姉の温かな腕を思い出して、懐にしまった鳥ごと抱きしめるようにして、自分の膝を抱えて頬を擦り付ければ、「玉蓮」と微笑む声が頭の中に響いた。
「姉上……」
ぽつりと呟いた声が、闇にふわりと溶けて消えていく。どんなに求めても、どんなに焦がれたとしても、その温もりが戻ってくることはない。だから、恋しさを掻き消すように、玄済国の王都・呂北を心のうちで焼き尽くした。
0
あなたにおすすめの小説
行き遅れ王女、重すぎる軍団長に肉で釣られる
春月もも
恋愛
25歳、独身、第四王女システィーナ。
夜会でも放置されがちな行き遅れ王女の前に、ある夜突然現れたのは、ローストビーフを差し出す重すぎる第三軍団長だった。
形のない愛は信じない。
でも、出来立ての肉は信じてしまう。
肉に釣られ、距離を詰められ、気づけば下賜され、そして初夜へ。
これは、行き遅れ王女が重たい愛で満たされるまでの、ちょっとおかしなお話。
小さくなった夫が可愛すぎて困ります
piyo
恋愛
夫が、ある日突然、幼児の姿になってしまった。
部下の開発中の魔法薬を浴びてしまい、そのとばっちりで若返ってしまったらしい。
いつも仏頂面な夫が、なんだかとっても可愛い――。
契約結婚で、一生愛とは無縁の生活を送ると思っていたノエルだったが、姿が変わってしまった夫を、つい猫可愛がりしてしまう。
「おい、撫でまわすな!」
「良いじゃありませんか。減るもんじゃないし」
これまで放置されていた妻と、不器用に愛を示す夫。
そんな二人が、じれじれ、じわじわとお互いの距離を詰めていく、甘くて切ない夫婦再生の物語
※完結まで毎日更新
※全26話+おまけ1話
※一章ほのぼの、二章シリアスの二部構成です。
※他サイトにも投稿
ちょっと大人な物語はこちらです
神崎 未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない
ちょっと大人な短編物語集です。
日常に突然訪れる刺激的な体験。
少し非日常を覗いてみませんか?
あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ?
※本作品ではGemini PRO、Pixai.artで作成した生成AI画像ならびに
Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。
※不定期更新です。
※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。
七日後に神罰が落ちる。上層部は「下を切り捨てろ」と言った——私は全員を逃がす
蒼月よる
ファンタジー
七日後、この港に神罰が落ちる。
追放された元観測士イオナだけが、その事実を知っていた。
しかも災害は自然現象ではない——誰かが、意図的に引き起こそうとしている。
港の上層部はすでに手を打っていた。「下層区画を緩衝被害区として切り捨てる」秘密契約。被害を最小限に見せかけ、体制を守る冷徹な計画だ。
イオナは元護送隊長ガルム、荷運び組合長メラとともに動き出す。
犯人を暴き、証拠を公開し、住民を逃がし、工廠を止める——すべてを七日で。
被害を「選ぶ」管理か、全員を「残す」運用か。
追放観測士の、七日間の港湾カウントダウン・サスペンス。
この作品は以下の箇所にAI(Claude Code)を利用しています。
・世界観・設定の管理補助
・プロット段階の壁打ち
・作者による執筆後の校正
リトライさせていただきます!〜死に戻り令嬢はイケメン神様とタッグを組んで人生をやり直す事にした〜
ゆずき
恋愛
公爵家の御令嬢クレハは、18歳の誕生日に何者かに殺害されてしまう。そんなクレハを救ったのは、神を自称する青年(長身イケメン)だった。
イケメン神様の力で10年前の世界に戻されてしまったクレハ。そこから運命の軌道修正を図る。犯人を返り討ちにできるくらい、強くなればいいじゃないか!! そう思ったクレハは、神様からは魔法を、クレハに一目惚れした王太子からは武術の手ほどきを受ける。クレハの強化トレーニングが始まった。
8歳の子供の姿に戻ってしまった少女と、お人好しな神様。そんな2人が主人公の異世界恋愛ファンタジー小説です。
※メインではありませんが、ストーリーにBL的要素が含まれます。少しでもそのような描写が苦手な方はご注意下さい。
屈辱と愛情
守 秀斗
恋愛
最近、夫の態度がおかしいと思っている妻の名和志穂。25才。仕事で疲れているのかとそっとしておいたのだが、一か月もベッドで抱いてくれない。思い切って、夫に聞いてみると意外な事を言われてしまうのだが……。
ブラック企業で倒れた私を、ネトゲ仲間の社長が強制保護して溺愛しています
紅 与一
恋愛
過労で倒れた私を救ったのは、
ネトゲ仲間――そしてIT企業の若き社長。
「もう君は、僕の管理下だよ」
退院と同時に退職手続きは完了。
住む場所も、生活も、すべて彼に囲われた。
外出制限、健康管理、過保護な独占欲。
甘くて危険な“保護生活”の中で、
私は少しずつ彼に心を奪われていく――。
元社畜OL×執着気味の溺愛社長
囲い込み同棲ラブストーリー。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる