闇を抱く白菊 —天命の盤—

アリスの鏡

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第五章 傷痕に触れる指

二十八話 触れる指 2

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 目の前の男にあるのは、酒と汗と、そして微かな鉄の香り。鍛え上げられた肉体から発せられる圧倒的な熱量。つやめかしい顔立ちに宿る色気と、ならず者のような粗野な気配。そしてその全てを支配する、孤高の品格。

 その危うい均衡の上に立つ存在から、目が離せない。この男に近づけば、身も心も焼き尽くされると本能が警鐘けいしょうを鳴らしているのに、体は引き寄せられるかのように、彼の放つ熱に惹きつけられていく。

 玉蓮は、本能のままに、彼の胸に顔をうずめた。その男の胸の熱さが頬にじわりと広がり、それと共にあの伽羅きゃらの香りが玉蓮を包む。汗と血の匂いと混じり合った、この男だけの香り。

 そのあまりにも甘い香りに、思考が溶かされていく。意識の中で彼の熱だけが濃く、強く残った。



 赫燕の腕が、玉蓮の体を、今にも砕けそうなほど力強く抱き寄せる。衣擦れの微かな音が、布を叩きつける嵐のたけり狂う音に溶け込んでいく。

 外では雷鳴がとどろき、稲妻が空間を一瞬だけ白く染め上げる。激しい雨が天幕の布を打ちつけ、世界から隔絶かくぜつされたかのような密室の中で、息遣いだけが響き渡る。

 彼の熱い汗が一滴、玉蓮の鎖骨の上へと落ちた。そのけるような熱さに、玉蓮の肌がぞわりと粟立つ。抗いがたい快楽が、甘い痺れとなって背筋を駆け上る。

 玉蓮は、その腕の中で微かに震えながらも、その温もりに身を委ねた。赫燕の鼓動が、彼女の耳元で力強く響き、その一つ一つが、玉蓮の心を深く、深く沈み込ませていく。

 その刹那、彼の首元で、二つの紫水晶が、微かに揺らめいた。それはまるで生き物のように、彼の激しい動きに合わせ、玉蓮の柔らかな肌に、ひんやりと、そして執拗しつように触れてくる。彼の魂のてついた欠片そのものが、じかに肌へと押し付けられているかのように。

 内側から込み上げてくる熱い吐息と、外側から容赦なく襲いかかる冷たい感触。その甘美な混淆こんこうが、玉蓮の意識をさらに深く、抗いがたい混沌こんとんの淵へと引きずり込む。

 肌に触れるたびに、紫水晶は妖しく光を放ち、その冷たさは、やがて麻痺するような甘さへと変わり、彼女の感覚を研ぎ澄ませていく。

 見上げれば、息がかかるほどの距離に、赫燕の瞳があった。深い孤独と、渇き。それは、鏡を見るように玉蓮自身の心を映し出している。

(ああ、この熱を——)

 この痛みを、塞がなければ。二度と戻れなくなると知りながら、もう抗えない。玉蓮は、吸い寄せられるように顔を上げた。触れ合った瞬間、嵐の音が遠のく。唇から伝わる熱が、身体の中の炎をあおる。

 それは口づけというよりも、互いの命をすするような、あまりにも切実な接触。

 玉蓮の指がそのたくましい背中に食い込んだ。


 ——この男の闇に、孤独に、そして、その傷に、もっと深く触れたい。


 傷ついた獣たちが互いの傷を舐めあうような時間が過ぎていく。その肌の熱だけを頼りに、闇に包まれた一夜を乗り越えようとしていた。
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