闇を抱く白菊 —天命の盤—

アリスの鏡

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第六章 首輪の在り処

三十二話 囚われ人の吐息 1

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 その夜、焚き火の炎がパチパチと音を立て、あたりを暖かな夕焼け色に染めていた。

 玉蓮は、せつからもらった剣をその明かりにかざしながら、入念に手入れしていた。鋭く光る刃を見つめるうちに、胸の奥で固く張り詰めていた糸が、するりと緩み、玉蓮はふっと小さく息をこぼす。

「……良い剣だな」

 静かな声に顔を上げると、いつの間にか、朱飛しゅひが隣に立っていた。相変わらず、音もなく現れるこの男の瞳は、いつものように凪いでいる。

「お前に似合っている」

 朱飛の言葉が、焚き火のぜる音に混じって、すとんと胸に落ちる。玉蓮は、磨いていた剣の輝きから視線を炎に移した。朱飛は何も言わずに腰掛けると、薪を一本、火の中にそっとくべた。ぱちり、と火の粉が舞い上がる。

「……朱飛」

「ん」

 静かな声。自分の心の中とは全く違う。刹がくれた剣も美しい。牙門の心配も嬉しい。じんも子睿も、仲間として受け入れてくれている。それなのに、この心はいつもあの男だけを見ている。

 あの男の言葉で、行動で、心の炎が揺らいでいく。

「……あの人は、なぜ、わたくしを傍に置くのでしょう」

「玉蓮」

 聞いたところで、意味はない。常に事実を返してくれる朱飛でさえも、今の自分に告げられるものがあるだろうか。だが、言葉が止まらない。

「わたくしを鍛え、戦のすべを教え、そして……夜には、わたくしを抱く」

 玉蓮は膝を抱え、剣の柄を強く握りしめた。

「でも、一番近くにいるはずの瞬間……あの人の瞳は、わたくしを通り越して、どこか遠くを見ている……」

 言葉の終わりは、自分でも気づかぬうちに、か細く震えて、泡沫うたかたのように消えていく。朱飛の長い睫毛が影を落とし、その瞳の色を隠している。彼の手の中で、硬く乾いた薪が、ミシリと悲鳴を上げて砕けた。

「お頭の心をわかる者など、いない」

 血管が浮き出た手指とは裏腹に、彼の声は静かだ。

「だが、お頭が女を留め置いたことなど、一度もなかった。それだけは確かだ」

 慰められているのか、それとも、突き放されているのか。その言葉の真意を測りかねて、玉蓮が口を開きかけたその時。

「朱——」

「——玉蓮」

 背後から届いた、全てを凍らせるような声。

 虫の音も、風の音も、一瞬にして止んだ。焚き火の明かりが届かない闇の境界線。そこに、その男は立っている。輪郭すら闇に溶け込み、獣のように光る双眸そうぼうだけが、こちらを射抜いている。

「来い」

 玉蓮の心の臓が、氷の手に掴まれたかのように一度強く収縮し、次の瞬間、熱い炎にあおられるように激しく脈打った。

 朱飛に別れを告げる間もなく、立ち上がる。振り返らずとも、朱飛が燃え盛る焚き火を見つめているであろうことはわかった。赫燕かくえんの元へ玉蓮が一歩踏み出した瞬間、一際大きく火の粉が舞い上がり、そして彼の足元に落ちて消えていった。


 赫燕の歩幅は広く、迷いなく進むから、玉蓮は小走りでその後を追う。目の前の大きな背中を見れば、それに触れたいという衝動が込み上がるから、少しだけ怖い。

(わからないのに、何も……)

 説明できない感覚が、感情が、その全てが、玉蓮の中にある戸惑いをさらに深めていく。
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