闇を抱く白菊 —天命の盤—

アリスの鏡

文字の大きさ
62 / 159
第六章 首輪の在り処

三十三話 喉笛の教え 1

しおりを挟む


 濃厚な伽羅きゃらの香りと、つい先ほどまでの情事の熱気が未だに籠る天幕の中。乱れた寝台の上に、一枚の地図が無造作に広げられた。赫燕かくえんは、自身の汗ばんだ逞しい肌を隠そうともせず、寝台の縁に腰掛けている。

 その隣で、体の火照りが収まらない玉蓮が、乱れた息を整えようと努めている。赫燕は、玉蓮ぎょくれんが整然とした装いを取り戻すのを待つことなく、冷ややかな声を落とした。

「お前なら、この城を、この都をどう攻める?」

 何度目かわからない、その問いかけ。玉蓮は、散らばっていた衣を手にして急いで羽織ると、すぐに体勢を正し、深く息を吸い込む。思考を研ぎ澄まし、脳裏に刻まれた兵法書の知識を、現実の地図の上に重ね合わせる。

「……三重の包囲網を敷き、土塁《どるい》と物見やぐらを築きます。そして、兵器での城壁攻めで、門が開くのを待って——」

 ——トン。

 玉蓮の言葉を遮るように響いた音。それは、赫燕が地図に描かれた城を叩く音だった。赫燕は、玉蓮の瞳を捉えることなく、その力強い指を、城の中心から外へ向かって、ゆっくりと、まるで何かの軌跡を描くようになぞる。

「待つ、か。お前が三重の包囲網なんてものを悠長に築いてる間に、敵の援軍が俺たちの背中に集まってくる。お前のはな、敵に『どうぞ俺たちを包囲してください』と教えてやるようなもんだ」

「では——」

「待つな。待たせろ」

 地図に描かれた城ではなく、その周辺に広がる村々や水源に兵の駒が置かれていく。

「城の周りの村を焼く」

「なっ……」

「畑を潰し、井戸に塩を撒く。敵の領地を、城の外から腐らせていく。そうすれば、城の中の者たちはどうする?」

「……領地を腐らせれば、我々が手に入れた時の益も損なわれます。それは、覇者の道ではありません」

「覇者? 笑わせるな」

 赫燕は鼻で笑うと、地図の上に置かれた玉蓮の「兵」の駒を、指先でピンと弾き飛ばす。駒がコロコロと乾いた音を立てて転がっていく。

「勝たなきゃ、益もクソもねえ。死人に口なし、敗者に領地なしだ」

「ですが——」

「お前が城壁の前で律儀に陣を張り、攻城こうじょうやぐらを組み立てている間に、敵の援軍に背後を突かれ、食い物がなくなり、兵が倒れ、士気が落ちる。そのくだらん道とやらに従って、お前の兵が無駄に死ぬ」

 地図上の玉蓮の兵の駒が次々と薙ぎ倒されていく。

「いいか、玉蓮。城壁を殴り続けるだけの鈍重どんじゅうな戦など、俺はやらねえ。真の戦場はこのだだっ広い平原と国そのものだ」

「……国、そのもの?」

 彼の指が、地図の上を滑るように、動く。

「決まった形を持つな。敵が前方を守れば、その後ろを。敵が後方を守れば、その前を食い破る。あの城を、あの都を堕とすなら、敵が疲弊し、飢え、内側から腐り落ちていく機をつくる……」

 冷たく昏い瞳が、玉蓮を捉えた。そこに宿るのは、どこまでも深い闇。

かなめを壊せ」

 赫燕の言葉は、どろりとした毒のように、玉蓮の耳から入り込み、腹の底へと落ちていく。吐き気がするほど残虐な論理。なのに、どうしてだろう。指先が痺れるように熱い。

「要を……壊す」

 復唱する自分の声が、歓喜に震えているように聞こえた。身を乗り出している自分がいる。地図を指す赫燕の次の言葉を、乾いた喉で待っている自分がいる。

 その事実に、玉蓮は己の唇を噛み切らんばかりに強く結んだ——だが、地図の上を滑る赫燕の指先から、視線を離すことができなかった。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

行き遅れ王女、重すぎる軍団長に肉で釣られる

春月もも
恋愛
25歳、独身、第四王女システィーナ。 夜会でも放置されがちな行き遅れ王女の前に、ある夜突然現れたのは、ローストビーフを差し出す重すぎる第三軍団長だった。 形のない愛は信じない。 でも、出来立ての肉は信じてしまう。 肉に釣られ、距離を詰められ、気づけば下賜され、そして初夜へ。 これは、行き遅れ王女が重たい愛で満たされるまでの、ちょっとおかしなお話。

ちょっと大人な物語はこちらです

神崎 未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない ちょっと大人な短編物語集です。 日常に突然訪れる刺激的な体験。 少し非日常を覗いてみませんか? あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ? ※本作品ではGemini PRO、Pixai.artで作成した生成AI画像ならびに  Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。 ※不定期更新です。 ※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。

小さくなった夫が可愛すぎて困ります

piyo
恋愛
夫が、ある日突然、幼児の姿になってしまった。 部下の開発中の魔法薬を浴びてしまい、そのとばっちりで若返ってしまったらしい。 いつも仏頂面な夫が、なんだかとっても可愛い――。 契約結婚で、一生愛とは無縁の生活を送ると思っていたノエルだったが、姿が変わってしまった夫を、つい猫可愛がりしてしまう。 「おい、撫でまわすな!」 「良いじゃありませんか。減るもんじゃないし」 これまで放置されていた妻と、不器用に愛を示す夫。 そんな二人が、じれじれ、じわじわとお互いの距離を詰めていく、甘くて切ない夫婦再生の物語 ※完結まで毎日更新 ※全26話+おまけ1話 ※一章ほのぼの、二章シリアスの二部構成です。 ※他サイトにも投稿

七日後に神罰が落ちる。上層部は「下を切り捨てろ」と言った——私は全員を逃がす

蒼月よる
ファンタジー
七日後、この港に神罰が落ちる。 追放された元観測士イオナだけが、その事実を知っていた。 しかも災害は自然現象ではない——誰かが、意図的に引き起こそうとしている。 港の上層部はすでに手を打っていた。「下層区画を緩衝被害区として切り捨てる」秘密契約。被害を最小限に見せかけ、体制を守る冷徹な計画だ。 イオナは元護送隊長ガルム、荷運び組合長メラとともに動き出す。 犯人を暴き、証拠を公開し、住民を逃がし、工廠を止める——すべてを七日で。 被害を「選ぶ」管理か、全員を「残す」運用か。 追放観測士の、七日間の港湾カウントダウン・サスペンス。 この作品は以下の箇所にAI(Claude Code)を利用しています。 ・世界観・設定の管理補助 ・プロット段階の壁打ち ・作者による執筆後の校正

屈辱と愛情

守 秀斗
恋愛
最近、夫の態度がおかしいと思っている妻の名和志穂。25才。仕事で疲れているのかとそっとしておいたのだが、一か月もベッドで抱いてくれない。思い切って、夫に聞いてみると意外な事を言われてしまうのだが……。

夫婦交換

山田森湖
恋愛
好奇心から始まった一週間の“夫婦交換”。そこで出会った新鮮なときめき

リトライさせていただきます!〜死に戻り令嬢はイケメン神様とタッグを組んで人生をやり直す事にした〜

ゆずき
恋愛
公爵家の御令嬢クレハは、18歳の誕生日に何者かに殺害されてしまう。そんなクレハを救ったのは、神を自称する青年(長身イケメン)だった。 イケメン神様の力で10年前の世界に戻されてしまったクレハ。そこから運命の軌道修正を図る。犯人を返り討ちにできるくらい、強くなればいいじゃないか!! そう思ったクレハは、神様からは魔法を、クレハに一目惚れした王太子からは武術の手ほどきを受ける。クレハの強化トレーニングが始まった。 8歳の子供の姿に戻ってしまった少女と、お人好しな神様。そんな2人が主人公の異世界恋愛ファンタジー小説です。 ※メインではありませんが、ストーリーにBL的要素が含まれます。少しでもそのような描写が苦手な方はご注意下さい。

ブラック企業で倒れた私を、ネトゲ仲間の社長が強制保護して溺愛しています

紅 与一
恋愛
過労で倒れた私を救ったのは、 ネトゲ仲間――そしてIT企業の若き社長。 「もう君は、僕の管理下だよ」 退院と同時に退職手続きは完了。 住む場所も、生活も、すべて彼に囲われた。 外出制限、健康管理、過保護な独占欲。 甘くて危険な“保護生活”の中で、 私は少しずつ彼に心を奪われていく――。 元社畜OL×執着気味の溺愛社長 囲い込み同棲ラブストーリー。

処理中です...