闇を抱く白菊 —天命の盤—

アリスの鏡

文字の大きさ
88 / 159
第七章 臨万城の嵐

四十六話 紫水晶の記憶

しおりを挟む
◇◇◇ 赫燕かくえん ◇◇◇

 戦闘開始から三日後。月は厚い雲に隠され、星々もその輝きを抑えていた。遠くで狼の遠吠えが聞こえ、戦場の熱がこの夜のひとときだけ遠ざかる。時折、風が運んでくるのは、兵士たちのうめき声。

 望楼ぼうろうの最上、卓に広げられた地図を前に、赫燕かくえんは一人、手にした杯の縁を指でもてあそんでいた。音もなく、背後に人の気配が現れる。振り返るまでもない。なぜなら、この気配は、ずっと昔から知っているからだ。

「なんだ」

「……この戦、どこか見覚えがありますね」

 闇の中から届いた朱飛しゅひの声が、耳に静かに落ち、赫燕の指がぴたりと止まる。過去の記憶が、薄い膜のように己を覆い始める。

「またあいつらの相手か」

 望楼ぼうろうの端で揺らめく炎を見ながら、呟く。

「俺は、今でも……間違っていたとは思いません」

 何度となく聞いてきた言葉が、空気を震わせる。赫燕は、初めて地図から顔を上げた。卓上の灯火が、パチリと音を立ててぜた。その音と焦げた匂いが、脳裏の扉をこじ開ける。

 視線の先で、朱飛の頬が、わずかに引きる。その表情を見た瞬間、灯りがぐらりと揺らめいた。朱飛の輪郭が滲み、その向こうに燃え盛る王宮の炎が見える。

 そこに立っているのは、朱飛ではない。業火ごうかの中に立つ、父の、あの心優しい、しかし、あまりにも無力だった面影。

「父が民を信じ、隣国を信じ、助けた結果、どうなった」

「それは——」

飢饉ききんに見舞われた俺たちは、ただ奪われた。前年、我らが助けたはずの隣国によってな」

 赫燕は、そこまで言うと、一度言葉を切り、杯の酒を無感情にあおった。

「あいつらは領土と民と、紫水晶を奪いに来た。そして……あの女が……父を裏切り、国そのものを売り渡した」

 無意識だった。だが、己の指は首元の紫水晶に触れている。氷のように冷たいその感触。それはまるで、無念のうちに死んでいった父の、国の凍りついた涙の結晶のようだ。

「弱い奴も、お人好しすぎる奴も、いいように利用されて、すべてを奪われる。信じた民にすら、手のひらを返される。それがこの世のことわりだ」

 赫燕は、再び視線をぼんやりと地図に戻す。喉を焼く酒の熱さが、あの日の熱風を呼び覚ます。奥歯がギリ、と音を立てた。

 赫燕を止める、幼き朱飛の小さな手。紅蓮の炎に包まれなが‬ら、赫燕を突き飛ばし、睨み、叫ぶ、蘇月そげつの姿。‬


『——戻ってはなりませぬ! 生きろ!』


 その絶叫は、いつまでも耳に残り、今もなお鮮明に響く。紫水晶を握りしめる手に、力が入る。

蘇月そげつは、えん様を守ったことを誇りに思っていますよ」‬

 朱飛の声が遠くで反響するように、耳の奥で微かに震えた。

「死んだ奴の気持ちがわかるかよ」‬

 赫燕は、深く息を吐き出すように呟いた。

「わかるんです。……姉ですから」

「生きろなんて、押し付けやがって」‬

 杯に残っていた酒を干した。そしてその指で、地図の上に描かれた、玄済げんさい国の王都・呂北ろほくの名を、強く、ゆっくりとなぞる。一瞬だけ、その指先が震える。

 胸奥をよぎる、あの女の声。刺すように冷たいその響きが、なぜか耳に残って離れない。まるで棘のように内側からじわりと疼き、殺意を呼び覚ます。

「……今度は、灰も残さねえかもな」

 朱飛は深く一礼すると、再び音もなく闇に溶けるように去っていった。

 一人残された赫燕は、しばし地図の上の呂北ろほくを睨みつけると、卓に置かれた灯火に、ふ、と息を吹きかけた。揺らめき、抵抗し、そして消えていく最後の火を暗がりに慣れた瞳が見届ける。

 闇がより一層濃くなる中、空になった杯を指で弾くと、からん、という乾いた音だけが響いた。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

行き遅れ王女、重すぎる軍団長に肉で釣られる

春月もも
恋愛
25歳、独身、第四王女システィーナ。 夜会でも放置されがちな行き遅れ王女の前に、ある夜突然現れたのは、ローストビーフを差し出す重すぎる第三軍団長だった。 形のない愛は信じない。 でも、出来立ての肉は信じてしまう。 肉に釣られ、距離を詰められ、気づけば下賜され、そして初夜へ。 これは、行き遅れ王女が重たい愛で満たされるまでの、ちょっとおかしなお話。

ちょっと大人な物語はこちらです

神崎 未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない ちょっと大人な短編物語集です。 日常に突然訪れる刺激的な体験。 少し非日常を覗いてみませんか? あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ? ※本作品ではGemini PRO、Pixai.artで作成した生成AI画像ならびに  Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。 ※不定期更新です。 ※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。

小さくなった夫が可愛すぎて困ります

piyo
恋愛
夫が、ある日突然、幼児の姿になってしまった。 部下の開発中の魔法薬を浴びてしまい、そのとばっちりで若返ってしまったらしい。 いつも仏頂面な夫が、なんだかとっても可愛い――。 契約結婚で、一生愛とは無縁の生活を送ると思っていたノエルだったが、姿が変わってしまった夫を、つい猫可愛がりしてしまう。 「おい、撫でまわすな!」 「良いじゃありませんか。減るもんじゃないし」 これまで放置されていた妻と、不器用に愛を示す夫。 そんな二人が、じれじれ、じわじわとお互いの距離を詰めていく、甘くて切ない夫婦再生の物語 ※完結まで毎日更新 ※全26話+おまけ1話 ※一章ほのぼの、二章シリアスの二部構成です。 ※他サイトにも投稿

七日後に神罰が落ちる。上層部は「下を切り捨てろ」と言った——私は全員を逃がす

蒼月よる
ファンタジー
七日後、この港に神罰が落ちる。 追放された元観測士イオナだけが、その事実を知っていた。 しかも災害は自然現象ではない——誰かが、意図的に引き起こそうとしている。 港の上層部はすでに手を打っていた。「下層区画を緩衝被害区として切り捨てる」秘密契約。被害を最小限に見せかけ、体制を守る冷徹な計画だ。 イオナは元護送隊長ガルム、荷運び組合長メラとともに動き出す。 犯人を暴き、証拠を公開し、住民を逃がし、工廠を止める——すべてを七日で。 被害を「選ぶ」管理か、全員を「残す」運用か。 追放観測士の、七日間の港湾カウントダウン・サスペンス。 この作品は以下の箇所にAI(Claude Code)を利用しています。 ・世界観・設定の管理補助 ・プロット段階の壁打ち ・作者による執筆後の校正

屈辱と愛情

守 秀斗
恋愛
最近、夫の態度がおかしいと思っている妻の名和志穂。25才。仕事で疲れているのかとそっとしておいたのだが、一か月もベッドで抱いてくれない。思い切って、夫に聞いてみると意外な事を言われてしまうのだが……。

夫婦交換

山田森湖
恋愛
好奇心から始まった一週間の“夫婦交換”。そこで出会った新鮮なときめき

リトライさせていただきます!〜死に戻り令嬢はイケメン神様とタッグを組んで人生をやり直す事にした〜

ゆずき
恋愛
公爵家の御令嬢クレハは、18歳の誕生日に何者かに殺害されてしまう。そんなクレハを救ったのは、神を自称する青年(長身イケメン)だった。 イケメン神様の力で10年前の世界に戻されてしまったクレハ。そこから運命の軌道修正を図る。犯人を返り討ちにできるくらい、強くなればいいじゃないか!! そう思ったクレハは、神様からは魔法を、クレハに一目惚れした王太子からは武術の手ほどきを受ける。クレハの強化トレーニングが始まった。 8歳の子供の姿に戻ってしまった少女と、お人好しな神様。そんな2人が主人公の異世界恋愛ファンタジー小説です。 ※メインではありませんが、ストーリーにBL的要素が含まれます。少しでもそのような描写が苦手な方はご注意下さい。

ブラック企業で倒れた私を、ネトゲ仲間の社長が強制保護して溺愛しています

紅 与一
恋愛
過労で倒れた私を救ったのは、 ネトゲ仲間――そしてIT企業の若き社長。 「もう君は、僕の管理下だよ」 退院と同時に退職手続きは完了。 住む場所も、生活も、すべて彼に囲われた。 外出制限、健康管理、過保護な独占欲。 甘くて危険な“保護生活”の中で、 私は少しずつ彼に心を奪われていく――。 元社畜OL×執着気味の溺愛社長 囲い込み同棲ラブストーリー。

処理中です...