闇を抱く白菊 —天命の盤—

アリスの鏡

文字の大きさ
99 / 159
第七章 臨万城の嵐

五十三話 紫水晶の誓い

しおりを挟む


 赫燕かくえん軍・本陣。最奥の天幕。そこは、血と汗と薬草のむせ返るような匂いが満ちていた。

 玉蓮は震える手で汗を拭いながら、軍医が赫燕の深い傷口を縫合する様を、息を詰めて見守る。鋼のように鍛えられた背中の筋肉が、針が通るたびに引きるのが見て取れた。

 治療が終わり、軍医が去った後も玉蓮は動けずにいた。やがて、彼女はそっと赫燕の額に触れ、汗で濡れた肌を拭う。彼の唇から荒い息が何度も漏れる。

「どうして、ですか……見捨てる、と」

 自分の声が、か細く、そしてすがるように響く。その声に反応するように、赫燕の顔がゆっくりとこちらに向けられた。仄暗い天幕の中、瞳だけが爛々らんらんと輝き、玉蓮を射抜く。

「……お前は、俺のものだ。勝手に死ぬのを、許すとでも思ったか」

 低い声が玉蓮の耳に届く。

「お前が言ったんだろうが。必ず戻る、と」

 赫燕は傷のない左手で、ゆっくりと自身の首元を探った。そして、常に身につけていた革紐を力任せに引きちぎると、そこから二つ連なった紫水晶のうちの一つを、指先で外した。

 一瞬、彼は手のひらの上のその証を握りしめる。そして、それを、迷うことなく玉蓮の手に握らせた。ずしり、と。小さな石とは思えないほどの重みが、彼女の手の中に沈み込む。赫燕の肌から移ったばかりの熱を帯び、まるでそれ自体が鼓動しているかのような、微かな振動さえ感じる。

「持ってろ。俺の魂の半分だ。お前が死ねば、俺も半分死ぬ」

 彼の声は、いつもの全てを嘲るような響きを失い、どこか穏やかで、どこか苦しそうだった。まるで、自分の内側にある最も脆いものを、無理に喉から押し出すかのように。

 玉蓮が、その石を震える手で天幕の灯りにかざした、その瞬間。石の中に何かが揺らめいた。

「……龍?」

 紫水晶の、その深い闇の奥。光がある角度で差し込んだ時だけ、玉を掴んで天に昇る四本角の龍の姿が、妖しく浮かび上がる。玉蓮の声に、赫燕が一瞬だけ目を伏せ、そして、ふ、と笑う。

「……ただの、印だ。いにしえの国のな」

 吐き捨てるように、彼は、ひどく掠れた声でそう呟いた。

 赫燕の血と汗が染み込んだ、あまりにも生々しい魂の欠片。玉蓮は、その滑らかで、硬質な石の重みを肌で感じながら、視界が滲む中で、なお目の前の男を見つめ返した。その呼吸は荒く、縫合されたばかりの傷口からは、滲み出す血が布に赤い染みを作っていく。

 ——違う。この男は、駒のためになど、決して傷を負う男ではない。命すらも、勝利のための道具として、弄ぶ男のはずだ。

 なのに、なぜ。手のひらの上の石の重み。背中の傷。その事実に、涙が溢れていく。

「泣くな」

 どこか面倒くさそうに、呆れたような響きで告げるその声が、胸の奥を締め付けて苦しい。赫燕が常に肌身離さず身につけていた紫水晶。その片方が、今、玉蓮の手に握られている。玉蓮は、それを己の命そのものであるかのように、強く、強く握りしめた。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

行き遅れ王女、重すぎる軍団長に肉で釣られる

春月もも
恋愛
25歳、独身、第四王女システィーナ。 夜会でも放置されがちな行き遅れ王女の前に、ある夜突然現れたのは、ローストビーフを差し出す重すぎる第三軍団長だった。 形のない愛は信じない。 でも、出来立ての肉は信じてしまう。 肉に釣られ、距離を詰められ、気づけば下賜され、そして初夜へ。 これは、行き遅れ王女が重たい愛で満たされるまでの、ちょっとおかしなお話。

小さくなった夫が可愛すぎて困ります

piyo
恋愛
夫が、ある日突然、幼児の姿になってしまった。 部下の開発中の魔法薬を浴びてしまい、そのとばっちりで若返ってしまったらしい。 いつも仏頂面な夫が、なんだかとっても可愛い――。 契約結婚で、一生愛とは無縁の生活を送ると思っていたノエルだったが、姿が変わってしまった夫を、つい猫可愛がりしてしまう。 「おい、撫でまわすな!」 「良いじゃありませんか。減るもんじゃないし」 これまで放置されていた妻と、不器用に愛を示す夫。 そんな二人が、じれじれ、じわじわとお互いの距離を詰めていく、甘くて切ない夫婦再生の物語 ※完結まで毎日更新 ※全26話+おまけ1話 ※一章ほのぼの、二章シリアスの二部構成です。 ※他サイトにも投稿

夫婦交換

山田森湖
恋愛
好奇心から始まった一週間の“夫婦交換”。そこで出会った新鮮なときめき

ブラック企業で倒れた私を、ネトゲ仲間の社長が強制保護して溺愛しています

紅 与一
恋愛
過労で倒れた私を救ったのは、 ネトゲ仲間――そしてIT企業の若き社長。 「もう君は、僕の管理下だよ」 退院と同時に退職手続きは完了。 住む場所も、生活も、すべて彼に囲われた。 外出制限、健康管理、過保護な独占欲。 甘くて危険な“保護生活”の中で、 私は少しずつ彼に心を奪われていく――。 元社畜OL×執着気味の溺愛社長 囲い込み同棲ラブストーリー。

七日後に神罰が落ちる。上層部は「下を切り捨てろ」と言った——私は全員を逃がす

蒼月よる
ファンタジー
七日後、この港に神罰が落ちる。 追放された元観測士イオナだけが、その事実を知っていた。 しかも災害は自然現象ではない——誰かが、意図的に引き起こそうとしている。 港の上層部はすでに手を打っていた。「下層区画を緩衝被害区として切り捨てる」秘密契約。被害を最小限に見せかけ、体制を守る冷徹な計画だ。 イオナは元護送隊長ガルム、荷運び組合長メラとともに動き出す。 犯人を暴き、証拠を公開し、住民を逃がし、工廠を止める——すべてを七日で。 被害を「選ぶ」管理か、全員を「残す」運用か。 追放観測士の、七日間の港湾カウントダウン・サスペンス。 この作品は以下の箇所にAI(Claude Code)を利用しています。 ・世界観・設定の管理補助 ・プロット段階の壁打ち ・作者による執筆後の校正

復讐のための五つの方法

炭田おと
恋愛
 皇后として皇帝カエキリウスのもとに嫁いだイネスは、カエキリウスに愛人ルジェナがいることを知った。皇宮ではルジェナが権威を誇示していて、イネスは肩身が狭い思いをすることになる。  それでも耐えていたイネスだったが、父親に反逆の罪を着せられ、家族も、彼女自身も、処断されることが決まった。  グレゴリウス卿の手を借りて、一人生き残ったイネスは復讐を誓う。  72話で完結です。

ちょっと大人な物語はこちらです

神崎 未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない ちょっと大人な短編物語集です。 日常に突然訪れる刺激的な体験。 少し非日常を覗いてみませんか? あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ? ※本作品ではGemini PRO、Pixai.artで作成した生成AI画像ならびに  Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。 ※不定期更新です。 ※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。

私が王子との結婚式の日に、妹に毒を盛られ、公衆の面前で辱められた。でも今、私は時を戻し、運命を変えに来た。

MayonakaTsuki
恋愛
王子との結婚式の日、私は最も信頼していた人物――自分の妹――に裏切られた。毒を盛られ、公開の場で辱められ、未来の王に拒絶され、私の人生は血と侮辱の中でそこで終わったかのように思えた。しかし、死が私を迎えたとき、不可能なことが起きた――私は同じ回廊で、祭壇の前で目を覚まし、あらゆる涙、嘘、そして一撃の記憶をそのまま覚えていた。今、二度目のチャンスを得た私は、ただ一つの使命を持つ――真実を突き止め、奪われたものを取り戻し、私を破滅させた者たちにその代償を払わせる。もはや、何も以前のままではない。何も許されない。

処理中です...