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第九章 鮮やかなる桃花
六十九話 桃の木の下で
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◇◇◇ 崔瑾 ◇◇◇
大きな池を臨む亭は、穏やかな春風がそよぎ、桃の花びらがはらはらと舞っていた。崔瑾が玉蓮を碁盤の前へと誘った。ぱちりと石を打つ、硬質な心地よい音が響く。
いつも通りに盤石なその盤面。だが、彼女が一手置くたびに、その秩序は少しずつ崩れ、気づけば、石の全てが——彼女の意図に吸い寄せられていくようだった。まるで、秩序で塗り固められた崔瑾の世界に、玉蓮という、一つの混沌が投じられたように。そして、その崩壊の様を美しいと、そう思ってしまった。
「……お見事です、玉蓮殿。その一手は、常道からは外れている。ですが、確かに私の弱点を突いている。地を囲うのではなく、私の石を殺すことだけを考えているかのようです」
思わず、ほう、と感嘆の息が漏れる。
「……崔瑾殿の、そのあまりに美しい布陣を見ていると、つい意地悪をしたくなります」
玉蓮の口元に、ほんの微か、しかし確かな笑みが浮かぶ。それは、少なくとも崔瑾がこれまで見たことのない、彼女の、心からの微笑みのように思えた。異国の地で、常に警戒と孤独の中に身を置いていた彼女が、初めて見せた無防備な表情。
それは、月の光のように静かでありながら、次の瞬間には、まるで淡雪のように、はかなく消えてしまいそうだった。
それを見た瞬間に、胸の奥で、硬く閉ざされていた何かが、音を立てて開いた。手にした碁石が、じんわりと体温を帯びる。名前など、つけたくなかった。つけてしまえば、きっと、戻れなくなる気がしたから。
白と黒の石が織りなす宇宙が広がる。一つひとつの石が、互いに連携し、盤上に一つの揺るぎない秩序を築き上げていく崔瑾の手に対し、玉蓮が打つ手は、従来の定石にとらわれない。時に風のように自由奔放に、時に激しく攻め立てる嵐のように盤面を破壊する。
ふと、自身の唇から柔らかい音が溢れる。
「碁は不思議なものです。語らずとも、相手の人となりや思いがわかる」
「わたくしの打ち筋はいかがです?」
崔瑾は、一瞬言葉を選んだ。彼女の碁は、確かに独特だった。
「その美しさと裏腹に、時に無謀でありながら、奇策に富み、それでいて真っ直ぐです。苛烈なまでに」
その予測不可能な展開は、まるで静寂を破る雷鳴、あるいは静かな湖面に突如として現れる波紋のようだった。常識を覆すような奇抜な手筋で相手を翻弄し、最終的には勝利への最短の道を真っ直ぐに突き進む。
「ふふ、崔瑾殿は、本当によく見ていらっしゃいますね」
その涼やかな笑い声は、空気をさらに和らげる。胸に温かい波が広がる。この静かで満ち足りた時間。この平穏が永遠に続けば良い、と。この時、彼は確かにそう願ってしまったのだ。
だが、その願いは、次の瞬間に儚く揺らぐ。玉蓮の視線が、ふと、盤上から窓の外へ——遠い、西の空へと向けられたからだ。
その美しい横顔には、これまで一度も見たことのない、深く物憂げな色が差す。まるで、魂だけがここではないどこかへ飛んで行ってしまったかのような、そんな表情。
その瞳が、自分ではない何かを映している。それだけで、胸の内が、ひりつくように焼けた。
(——憐憫だ。故郷を思う、か弱き姫への)
そう、言い聞かせなければ、己の中で、名も知らぬ獣が暴れ出しそうだった。崔瑾は、その獣を檻に押し込めるように、玉蓮から視線を逸らし、同じように西の空を見上げた。
大きな池を臨む亭は、穏やかな春風がそよぎ、桃の花びらがはらはらと舞っていた。崔瑾が玉蓮を碁盤の前へと誘った。ぱちりと石を打つ、硬質な心地よい音が響く。
いつも通りに盤石なその盤面。だが、彼女が一手置くたびに、その秩序は少しずつ崩れ、気づけば、石の全てが——彼女の意図に吸い寄せられていくようだった。まるで、秩序で塗り固められた崔瑾の世界に、玉蓮という、一つの混沌が投じられたように。そして、その崩壊の様を美しいと、そう思ってしまった。
「……お見事です、玉蓮殿。その一手は、常道からは外れている。ですが、確かに私の弱点を突いている。地を囲うのではなく、私の石を殺すことだけを考えているかのようです」
思わず、ほう、と感嘆の息が漏れる。
「……崔瑾殿の、そのあまりに美しい布陣を見ていると、つい意地悪をしたくなります」
玉蓮の口元に、ほんの微か、しかし確かな笑みが浮かぶ。それは、少なくとも崔瑾がこれまで見たことのない、彼女の、心からの微笑みのように思えた。異国の地で、常に警戒と孤独の中に身を置いていた彼女が、初めて見せた無防備な表情。
それは、月の光のように静かでありながら、次の瞬間には、まるで淡雪のように、はかなく消えてしまいそうだった。
それを見た瞬間に、胸の奥で、硬く閉ざされていた何かが、音を立てて開いた。手にした碁石が、じんわりと体温を帯びる。名前など、つけたくなかった。つけてしまえば、きっと、戻れなくなる気がしたから。
白と黒の石が織りなす宇宙が広がる。一つひとつの石が、互いに連携し、盤上に一つの揺るぎない秩序を築き上げていく崔瑾の手に対し、玉蓮が打つ手は、従来の定石にとらわれない。時に風のように自由奔放に、時に激しく攻め立てる嵐のように盤面を破壊する。
ふと、自身の唇から柔らかい音が溢れる。
「碁は不思議なものです。語らずとも、相手の人となりや思いがわかる」
「わたくしの打ち筋はいかがです?」
崔瑾は、一瞬言葉を選んだ。彼女の碁は、確かに独特だった。
「その美しさと裏腹に、時に無謀でありながら、奇策に富み、それでいて真っ直ぐです。苛烈なまでに」
その予測不可能な展開は、まるで静寂を破る雷鳴、あるいは静かな湖面に突如として現れる波紋のようだった。常識を覆すような奇抜な手筋で相手を翻弄し、最終的には勝利への最短の道を真っ直ぐに突き進む。
「ふふ、崔瑾殿は、本当によく見ていらっしゃいますね」
その涼やかな笑い声は、空気をさらに和らげる。胸に温かい波が広がる。この静かで満ち足りた時間。この平穏が永遠に続けば良い、と。この時、彼は確かにそう願ってしまったのだ。
だが、その願いは、次の瞬間に儚く揺らぐ。玉蓮の視線が、ふと、盤上から窓の外へ——遠い、西の空へと向けられたからだ。
その美しい横顔には、これまで一度も見たことのない、深く物憂げな色が差す。まるで、魂だけがここではないどこかへ飛んで行ってしまったかのような、そんな表情。
その瞳が、自分ではない何かを映している。それだけで、胸の内が、ひりつくように焼けた。
(——憐憫だ。故郷を思う、か弱き姫への)
そう、言い聞かせなければ、己の中で、名も知らぬ獣が暴れ出しそうだった。崔瑾は、その獣を檻に押し込めるように、玉蓮から視線を逸らし、同じように西の空を見上げた。
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