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第十章 正義の敵
七十話 蜘蛛の謀略 2
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◆
書斎に入り、重厚な木の香りに包まれながら卓へと向かった。静かに椅子を引き、腰を下ろすと、傍らに立つ阿扇に柔らかく頷く。
「では、報告を聞きましょうか」
崔瑾の声が書斎に響くと、彼は一歩、さらに近くへと距離を詰める。
「は。まず、当時崔王后宮に運び込まれた香についてです。……入手経路を徹底的に調査しましたが、結果は『潔白』でした」
「潔白、ですか」
「はい。南海の交易商から正規の手続きで納入されています。最高級品です。毒性はおろか、不審な点は何一つございません。香炉は太后様が持ち込まれたものですが、香と同様に問題なしとした太医局の記録に改竄の跡は見られません」
崔瑾は、組んだ指に顎を乗せた。
「……なるほど。香も香炉も問題なし、ですか」
「は。ですが、北厳寺への寄進については、崔瑾様のご懸念の通りでした。寄進額は、もはや供養と呼べるものではありません。……そして、もう一つ。当時の人事に関する璽の印影、これに不可解な『傷』がございます」
阿扇が印影の拓を差し出す。崔瑾はそれを手に取り、灯りにかざす。そこに浮かび上がったのは、本当に微かに、しかし確かに存在する、歪な形。
「……確かに、欠けていますね」
「はい。現在の璽は、火災が起こる前年の春に生じた欠けがございます。ですが、火災前後に発布された辞令。その印影には『欠け』はございませんでした。つまり——」
「……複製の璽を使った、と。口封じの人事のために、そこまで周到に準備をしていたのか。確かに、そこから周礼の出世は始まっている——」
崔瑾は冷めた目で拓を見つめた。証拠としては十分だ。だが、何かが指先に引っかかる。
(——簡単すぎる)
太后が、これほど見つけやすい綻びを放置するだろうか。
(……いや、違う。これは、囮だ)
これは、追っ手の目を『手続き上の不正』に向けさせ、本丸の罪——『王后殺害』から目をそらせるための蜘蛛の糸ではないのか。
「阿扇。この印影の件は一旦預かります。……おそらく、本命は別にある」
「は、仰せの通りです。太医局の診簿、および火災の公式記録ですが、王宮の書庫にはございませんでした」
「失われたのですか」
「いえ、周礼殿の進言により、『王后宮の穢れを新王都に持ち込むべからず』と、旧王都の盛楽にとどめられております」
崔瑾は短く、鼻で笑った。
「穢れ、ですか。……実に便利な言い訳だ」
「その記録を、書き写してまいりました。こちらを」
崔瑾は差し出された写しに視線を落とした。
「公式には『焼死』とされています。ですが処刑された宦官が崔王后様を呪っていたとして、当時焼け死んだ者たちは全て『穢れ』として寺へ送っておりました」
崔瑾の目が、ある箇所に留まった。どう考えても数が合わないのだ。
「……阿扇、ここの人夫の数を見てください。運び出されたはずの遺体の数に対して、人夫が少なすぎる。これでは、亡骸を運ぶどころか、空の荷車を引くのが精一杯のはずだ」
崔瑾は唇を手で覆った。やはり太后が隠したいのは、偽造の印ではない。あの日、あの場所で、生きた人間がどう死んだか、その一点だ。
「埋葬せずに……す、捨てたというのですか。そんな、そんなことが……人として、そんな」
「それをするのが周礼と太后です。阿扇……蕭尚書を訪ねてください。周礼が当時、実際に遺体をどこへ運ばせたのか。その『荷車』を追う必要があります。戸部の奥底に眠る、二十年前の裏の記録を。彼ならば、見つけ出せるはずだ」
「……は。ですが崔瑾様、蕭尚書を動かせば、太后派にこちらの動きを悟られる恐れが」
「わかっています。ですが、今は一刻を争う。……彼に伝えてください。『王家の血を引く者として、真実を求める』と」
「……承知いたしました。すぐに動きます」
夜更け、廊の角に微かな伽羅の残り香が漂った。この香りは後宮の最奥でしか焚かれない——太后の手の者か。
(急がねば)
崔瑾は机を一度、叩いた。
書斎に入り、重厚な木の香りに包まれながら卓へと向かった。静かに椅子を引き、腰を下ろすと、傍らに立つ阿扇に柔らかく頷く。
「では、報告を聞きましょうか」
崔瑾の声が書斎に響くと、彼は一歩、さらに近くへと距離を詰める。
「は。まず、当時崔王后宮に運び込まれた香についてです。……入手経路を徹底的に調査しましたが、結果は『潔白』でした」
「潔白、ですか」
「はい。南海の交易商から正規の手続きで納入されています。最高級品です。毒性はおろか、不審な点は何一つございません。香炉は太后様が持ち込まれたものですが、香と同様に問題なしとした太医局の記録に改竄の跡は見られません」
崔瑾は、組んだ指に顎を乗せた。
「……なるほど。香も香炉も問題なし、ですか」
「は。ですが、北厳寺への寄進については、崔瑾様のご懸念の通りでした。寄進額は、もはや供養と呼べるものではありません。……そして、もう一つ。当時の人事に関する璽の印影、これに不可解な『傷』がございます」
阿扇が印影の拓を差し出す。崔瑾はそれを手に取り、灯りにかざす。そこに浮かび上がったのは、本当に微かに、しかし確かに存在する、歪な形。
「……確かに、欠けていますね」
「はい。現在の璽は、火災が起こる前年の春に生じた欠けがございます。ですが、火災前後に発布された辞令。その印影には『欠け』はございませんでした。つまり——」
「……複製の璽を使った、と。口封じの人事のために、そこまで周到に準備をしていたのか。確かに、そこから周礼の出世は始まっている——」
崔瑾は冷めた目で拓を見つめた。証拠としては十分だ。だが、何かが指先に引っかかる。
(——簡単すぎる)
太后が、これほど見つけやすい綻びを放置するだろうか。
(……いや、違う。これは、囮だ)
これは、追っ手の目を『手続き上の不正』に向けさせ、本丸の罪——『王后殺害』から目をそらせるための蜘蛛の糸ではないのか。
「阿扇。この印影の件は一旦預かります。……おそらく、本命は別にある」
「は、仰せの通りです。太医局の診簿、および火災の公式記録ですが、王宮の書庫にはございませんでした」
「失われたのですか」
「いえ、周礼殿の進言により、『王后宮の穢れを新王都に持ち込むべからず』と、旧王都の盛楽にとどめられております」
崔瑾は短く、鼻で笑った。
「穢れ、ですか。……実に便利な言い訳だ」
「その記録を、書き写してまいりました。こちらを」
崔瑾は差し出された写しに視線を落とした。
「公式には『焼死』とされています。ですが処刑された宦官が崔王后様を呪っていたとして、当時焼け死んだ者たちは全て『穢れ』として寺へ送っておりました」
崔瑾の目が、ある箇所に留まった。どう考えても数が合わないのだ。
「……阿扇、ここの人夫の数を見てください。運び出されたはずの遺体の数に対して、人夫が少なすぎる。これでは、亡骸を運ぶどころか、空の荷車を引くのが精一杯のはずだ」
崔瑾は唇を手で覆った。やはり太后が隠したいのは、偽造の印ではない。あの日、あの場所で、生きた人間がどう死んだか、その一点だ。
「埋葬せずに……す、捨てたというのですか。そんな、そんなことが……人として、そんな」
「それをするのが周礼と太后です。阿扇……蕭尚書を訪ねてください。周礼が当時、実際に遺体をどこへ運ばせたのか。その『荷車』を追う必要があります。戸部の奥底に眠る、二十年前の裏の記録を。彼ならば、見つけ出せるはずだ」
「……は。ですが崔瑾様、蕭尚書を動かせば、太后派にこちらの動きを悟られる恐れが」
「わかっています。ですが、今は一刻を争う。……彼に伝えてください。『王家の血を引く者として、真実を求める』と」
「……承知いたしました。すぐに動きます」
夜更け、廊の角に微かな伽羅の残り香が漂った。この香りは後宮の最奥でしか焚かれない——太后の手の者か。
(急がねば)
崔瑾は机を一度、叩いた。
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