闇を抱く白菊 —天命の盤—

アリスの鏡

文字の大きさ
128 / 159
第十章 正義の敵

七十話 蜘蛛の謀略 2

しおりを挟む


 書斎に入り、重厚な木の香りに包まれながら卓へと向かった。静かに椅子を引き、腰を下ろすと、傍らに立つ阿扇に柔らかく頷く。

「では、報告を聞きましょうか」

 崔瑾の声が書斎に響くと、彼は一歩、さらに近くへと距離を詰める。

「は。まず、当時崔王后さいおうこう宮に運び込まれた香についてです。……入手経路を徹底的に調査しましたが、結果は『潔白』でした」

「潔白、ですか」

「はい。南海なんかいの交易商から正規の手続きで納入されています。最高級品です。毒性はおろか、不審な点は何一つございません。香炉は太后様が持ち込まれたものですが、香と同様に問題なしとした太医局の記録に改竄かいざんの跡は見られません」

 崔瑾は、組んだ指に顎を乗せた。

「……なるほど。香も香炉も問題なし、ですか」

「は。ですが、北厳寺ほくがんじへの寄進については、崔瑾様のご懸念の通りでした。寄進額は、もはや供養と呼べるものではありません。……そして、もう一つ。当時の人事に関するの印影、これに不可解な『傷』がございます」

 阿扇が印影のたくを差し出す。崔瑾はそれを手に取り、灯りにかざす。そこに浮かび上がったのは、本当に微かに、しかし確かに存在する、歪な形。

「……確かに、欠けていますね」

「はい。現在のは、火災が起こる前年の春に生じた欠けがございます。ですが、火災前後に発布された辞令。その印影には『欠け』はございませんでした。つまり——」

「……複製のを使った、と。口封じの人事のために、そこまで周到に準備をしていたのか。確かに、そこから周礼の出世は始まっている——」

 崔瑾は冷めた目で拓を見つめた。証拠としては十分だ。だが、何かが指先に引っかかる。

(——簡単すぎる)

 太后が、これほど見つけやすい綻びを放置するだろうか。

(……いや、違う。これは、おとりだ)

 これは、追っ手の目を『手続き上の不正』に向けさせ、本丸の罪——『王后殺害』から目をそらせるための蜘蛛の糸ではないのか。

「阿扇。この印影の件は一旦預かります。……おそらく、本命は別にある」

「は、仰せの通りです。太医たいい局の診簿しんぼ、および火災の公式記録ですが、王宮の書庫にはございませんでした」

「失われたのですか」

「いえ、周礼殿の進言により、『王后宮のけがれを新王都に持ち込むべからず』と、旧王都の盛楽にとどめられております」

 崔瑾は短く、鼻で笑った。

「穢れ、ですか。……実に便利な言い訳だ」

「その記録を、書き写してまいりました。こちらを」

 崔瑾は差し出された写しに視線を落とした。

「公式には『焼死』とされています。ですが処刑された宦官が崔王后様を呪っていたとして、当時焼け死んだ者たちは全て『穢れ』として寺へ送っておりました」

 崔瑾の目が、ある箇所に留まった。どう考えても数が合わないのだ。

「……阿扇、ここの人夫の数を見てください。運び出されたはずの遺体の数に対して、人夫が少なすぎる。これでは、亡骸を運ぶどころか、空の荷車を引くのが精一杯のはずだ」

 崔瑾は唇を手で覆った。やはり太后が隠したいのは、偽造の印ではない。あの日、あの場所で、生きた人間がどう死んだか、その一点だ。

「埋葬せずに……す、捨てたというのですか。そんな、そんなことが……人として、そんな」

「それをするのが周礼と太后です。阿扇……しょう尚書しょうしょを訪ねてください。周礼が当時、実際に遺体をどこへ運ばせたのか。その『荷車』を追う必要があります。戸部の奥底に眠る、二十年前の裏の記録を。彼ならば、見つけ出せるはずだ」

「……は。ですが崔瑾様、蕭尚書を動かせば、太后派にこちらの動きを悟られる恐れが」

「わかっています。ですが、今は一刻を争う。……彼に伝えてください。『王家の血を引く者として、真実を求める』と」

「……承知いたしました。すぐに動きます」

 夜更け、ろうの角に微かな伽羅の残り香が漂った。この香りは後宮の最奥でしか焚かれない——太后たいこうの手の者か。

(急がねば)

 崔瑾は机を一度、叩いた。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

行き遅れ王女、重すぎる軍団長に肉で釣られる

春月もも
恋愛
25歳、独身、第四王女システィーナ。 夜会でも放置されがちな行き遅れ王女の前に、ある夜突然現れたのは、ローストビーフを差し出す重すぎる第三軍団長だった。 形のない愛は信じない。 でも、出来立ての肉は信じてしまう。 肉に釣られ、距離を詰められ、気づけば下賜され、そして初夜へ。 これは、行き遅れ王女が重たい愛で満たされるまでの、ちょっとおかしなお話。

ちょっと大人な物語はこちらです

神崎 未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない ちょっと大人な短編物語集です。 日常に突然訪れる刺激的な体験。 少し非日常を覗いてみませんか? あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ? ※本作品ではGemini PRO、Pixai.artで作成した生成AI画像ならびに  Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。 ※不定期更新です。 ※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。

小さくなった夫が可愛すぎて困ります

piyo
恋愛
夫が、ある日突然、幼児の姿になってしまった。 部下の開発中の魔法薬を浴びてしまい、そのとばっちりで若返ってしまったらしい。 いつも仏頂面な夫が、なんだかとっても可愛い――。 契約結婚で、一生愛とは無縁の生活を送ると思っていたノエルだったが、姿が変わってしまった夫を、つい猫可愛がりしてしまう。 「おい、撫でまわすな!」 「良いじゃありませんか。減るもんじゃないし」 これまで放置されていた妻と、不器用に愛を示す夫。 そんな二人が、じれじれ、じわじわとお互いの距離を詰めていく、甘くて切ない夫婦再生の物語 ※完結まで毎日更新 ※全26話+おまけ1話 ※一章ほのぼの、二章シリアスの二部構成です。 ※他サイトにも投稿

七日後に神罰が落ちる。上層部は「下を切り捨てろ」と言った——私は全員を逃がす

蒼月よる
ファンタジー
七日後、この港に神罰が落ちる。 追放された元観測士イオナだけが、その事実を知っていた。 しかも災害は自然現象ではない——誰かが、意図的に引き起こそうとしている。 港の上層部はすでに手を打っていた。「下層区画を緩衝被害区として切り捨てる」秘密契約。被害を最小限に見せかけ、体制を守る冷徹な計画だ。 イオナは元護送隊長ガルム、荷運び組合長メラとともに動き出す。 犯人を暴き、証拠を公開し、住民を逃がし、工廠を止める——すべてを七日で。 被害を「選ぶ」管理か、全員を「残す」運用か。 追放観測士の、七日間の港湾カウントダウン・サスペンス。 この作品は以下の箇所にAI(Claude Code)を利用しています。 ・世界観・設定の管理補助 ・プロット段階の壁打ち ・作者による執筆後の校正

屈辱と愛情

守 秀斗
恋愛
最近、夫の態度がおかしいと思っている妻の名和志穂。25才。仕事で疲れているのかとそっとしておいたのだが、一か月もベッドで抱いてくれない。思い切って、夫に聞いてみると意外な事を言われてしまうのだが……。

夫婦交換

山田森湖
恋愛
好奇心から始まった一週間の“夫婦交換”。そこで出会った新鮮なときめき

リトライさせていただきます!〜死に戻り令嬢はイケメン神様とタッグを組んで人生をやり直す事にした〜

ゆずき
恋愛
公爵家の御令嬢クレハは、18歳の誕生日に何者かに殺害されてしまう。そんなクレハを救ったのは、神を自称する青年(長身イケメン)だった。 イケメン神様の力で10年前の世界に戻されてしまったクレハ。そこから運命の軌道修正を図る。犯人を返り討ちにできるくらい、強くなればいいじゃないか!! そう思ったクレハは、神様からは魔法を、クレハに一目惚れした王太子からは武術の手ほどきを受ける。クレハの強化トレーニングが始まった。 8歳の子供の姿に戻ってしまった少女と、お人好しな神様。そんな2人が主人公の異世界恋愛ファンタジー小説です。 ※メインではありませんが、ストーリーにBL的要素が含まれます。少しでもそのような描写が苦手な方はご注意下さい。

ブラック企業で倒れた私を、ネトゲ仲間の社長が強制保護して溺愛しています

紅 与一
恋愛
過労で倒れた私を救ったのは、 ネトゲ仲間――そしてIT企業の若き社長。 「もう君は、僕の管理下だよ」 退院と同時に退職手続きは完了。 住む場所も、生活も、すべて彼に囲われた。 外出制限、健康管理、過保護な独占欲。 甘くて危険な“保護生活”の中で、 私は少しずつ彼に心を奪われていく――。 元社畜OL×執着気味の溺愛社長 囲い込み同棲ラブストーリー。

処理中です...