闇を抱く白菊 —天命の盤—

アリスの鏡

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第十章 正義の敵

七十一話 孤独な正義

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◇◇◇ 玉蓮ぎょくれん ◇◇◇

 屋敷の外では、空を裂くような雷鳴と、地を叩く雨が荒れ狂っていた。崔瑾さいきんの屋敷に、一人の若い将軍が、血相を変えて駆け込んできた。崔瑾の側近の一人である、しょう将軍だった。

 書を読んでいた玉蓮は、そのただならぬ気配に、思わず崔瑾に問いかける。

「わたくしは下がりましょうか」

「いえ、貴女もこちらにいてください」

 静かな声に、玉蓮は小さく頷く。しょう将軍は、崔瑾の前に崩れるように膝をついた。

「崔瑾様! 妹が……私の妹が……!」

 しょう将軍の妹は、一年ほど前に後宮に入ったばかりの新しい妃嬪ひひんだと聞いている。

「大王が、些細なことでご機嫌を損ねられ、側にいた周礼しゅうれい様がそれをあおり立て、妹は……しょう様は拷問を受けたと……」

 しょう将軍の声が雨音に混じって、玉蓮の鼓膜を打つ。玉蓮の目の前がゆっくりと真っ赤に染まっていく。聞こえるはずのない、姉の悲鳴。後宮の、あの冷たい石の床の感触。

 後宮では、妃嬪ひひんや宮女の命は、王の気まぐれ一つで、虫けらのように消し飛ぶ。そして、その裏に、周礼のような悪意が渦巻いていたに違いない、と玉蓮は確信した。

「……太医たいいは?」

「それが、周礼様が『太后たいこう様の、お言葉である』と……『王の怒りに触れた者を、治療するなどとは何事か』と、太医を全て追い返してしまったのです!」

 玉蓮の思考が一瞬、凍り付く。周礼、そして太后たいこうへびと蜘蛛《くも》。その二つのおぞましい影が、脳裏で一つに重なる。

「崔瑾様、お願いでございます! 妹をこのまま後宮で犬死にさせるのだけは!」

 その言葉を最後に、しょう将軍は、嗚咽を漏らすばかりとなった。書斎を支配するのは、重い沈黙だけ。だが、崔瑾の指先が、一度、二度、こつ、こつと神経質に卓を叩く。

「私がなんとかする。しょう将軍、今は下がり、知らせを待て。決して早まるな」

 崔瑾は、鋼のような強い声で告げた。

 姉を殺した男が君臨するこの国は、その心臓部から腐っている。玉蓮の胸に鈍い鉛の塊が落ちたようだった。呼吸がひっかかる。

 しょう将軍の苦しみを前にしても、なお冷静であろうとする崔瑾——その背負う役目と孤独が、まるで自分のことのように重くのしかかった。

 この、どうしようもない現実の中で、彼は戦っているのだ。血を吐くように、もがきながら。守るべきもののために、たった一人で。あまりに孤独で、あまりに愚直な姿。玉蓮は前を見据える崔瑾を、真っ直ぐに見つめていた。





 夜更けの書斎では、蝋燭ろうそくの灯りだけが、壁に落ちる影を揺らしている。玉蓮はそっと扉を開け、茶の香りをかすかに漂わせながら、書斎を進む。

 難しい顔で書状を読んでいた崔瑾は、ふ、と顔を上げ、わずかに目を見開いた。

「玉蓮殿……どうかなさいましたか」

 玉蓮は、音もなく彼の前に茶器を置く。

「……旦那様、あまりご無理をなさいませんように」

 崔瑾の唇がわずかに震え、喉が動く。それと同時に、玉蓮の胸に小さな鈍痛が走る。崔瑾が何かを言いかけて、しかし、言葉を見つけられないかのように、黙ってこちらを見つめている。

 その、いつもは静かな湖面のようだった瞳が、今、激しく揺らいでいた。
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