闇を抱く白菊 —天命の盤—

アリスの鏡

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第十章 正義の敵

七十六話 炎を見守る 1

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◇◇◇ 阿扇あせん ◇◇◇

 胸の奥で煮えたぎるものを抑えきれず、阿扇あせんは書斎の扉を強く叩いた。促されるままに崔瑾さいきんの書斎に踏み入れると、書物に没頭していたであろう崔瑾が、少しだけ驚いたようにこちらに視線を向けた。

「阿扇……どうしたのですか」

「奥様が……玉蓮様が、しょう将軍と密談なさったようです。記録のようなものを持ち帰っておられました」

 言葉は震え、抑えきれない感情が滲み出ていた。崔瑾はその報告を黙って聞いていた。変わらない表情が、返されない言葉が、阿扇の心をさらにあおる。

「あの姫は……崔瑾様の思いを、少しも理解していない! 崔瑾様がお立場を危うくするのも構わずに、助けてくださったというのに!」

「阿扇」

 崔瑾の穏やかな声が届いても、感情は容易には収まらない。

「あのまま後宮に入っていれば、すぐに王に殺されたはずです! どれだけ感謝しても足りぬというのに……崔瑾様をさらに追い詰めるような真似を」

 王が欲していた敵国の公主。白楊はくよう国でさえ、殺されても仕方がないと思って贈ってきたのが容易にわかる、政治の黒さが溢れでた婚姻。あの王からそれを奪うということが、どういうことなのかは、考えずともわかる。

 少しも気にかけていない玉蓮に、苛立ちがおさまらない。

 握りしめた拳が、その力の反動で震える。灯りがぼんやりと書斎を照らす中、崔瑾がゆっくりと口を開いた。

「……阿扇。玉蓮殿を見守ってもらえませんか」

 小さく微笑ほほえんでいる崔瑾を見て、阿扇の頭の中には、疑問が浮かんでいく。

 己の命を救ったあるじの言葉は絶対、そう誓った。それでも、今の主の言葉にはどうしても頷けない。忠誠心と、主を守りたいという強い願い。その二つの思いが激しくぶつかり合う。

「私は……崔瑾様を害す者を許せません」

「玉蓮殿が、私を害すと?」

「崔瑾様が、我が国のため、周礼しゅうれい太后たいこうを追い詰める策を講じているというのに。太后派は、我らを都合よく使いながら、崔瑾様のお命を狙っているのです。あの姫の動きによっては、全ての計画が水泡すいほうに帰すどころか、こちらが危うくなるやもしれません」

 言葉が熱を帯びていく。脳裏に浮かぶ、一つのおぞましい絵図を打ち消したくて。復讐に燃えるあの姫が、ほんの僅かな情報を、敵に漏らす。あるいは、その無謀な単独行動が、太后たいこう派に、崔瑾を断罪する絶好の「口実」を与える。

 あの姫は、自覚なき最高の「餌」になり得る可能性を秘めている。崔瑾を、破滅へと誘うための。

「阿扇……」

 ぽつりと、崔瑾が名前を呼んだ。静かなその声に、はっと我に返る。

 崔瑾の椅子の硬質な木材が床と擦れる音が耳に届く。ゆっくりと立ち上がった崔瑾が、阿扇の目の前に立ち、こちらを真っ直ぐに捉えた。

「玉蓮殿は、今なお復讐という炎の中で、己の身を燃やしながら生きています。私は、その炎の中から、いつか彼女を助け出したいのです」

 阿扇は、主の瞳を見た瞬間、それ以上言葉を続けることができなかった。かつて燃え盛る村で、絶望の淵にいた幼い自分を救い出してくれた時と同じ光。それが宿っていたからだ。

 あの日の記憶が鮮やかに蘇る。炎に包まれた家々、煙にむせる空気、そして、自分を抱きしめ、安全な場所へと導いてくれた崔瑾の力強い腕。その瞳は、あの時と寸分違わず、希望を映している。

「あなたは……手を、差し伸べるばかりではありませんか」

 声が消え入りそうなほどに小さくなっていく阿扇の頭を、大きな手が撫でていく。その手の温もりが、頭のてっぺんから、強張っていた肩へと、ゆっくりと染み渡っていく。気づけば、握りしめていた拳から、力が抜けていた。

「子供扱い、しないでください」

「阿扇は、私にとっては、いつになっても可愛い弟なのですよ」

 見上げた阿扇に、崔瑾はふわりと微笑ほほえむ。

「兄の頼みを聞いてくれますか?」

「……まだ、わかりません」

 阿扇は視線を逸らし、曖昧に答えた。小さな何かが、胸の中で渦巻いている。

「阿扇は、頑固ですからね」

 片眉を上げながら、崔瑾が頬を緩める。
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