闇を抱く白菊 —天命の盤—

アリスの鏡

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第十一章 心の臓を撃つ石

七十九話 歳月と心 2

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 夜空を見ていたはずなのに、目は何も映していなかった。耳に残るのは、もう聞こえぬはずのあの声。だが、その奥底に潜む真実を、伝えられるはずもなく、口を閉ざす。

「玉蓮殿……復讐を、忘れられませんか?」

 優しい眼差し。でも告げられた言葉は、玉蓮を射抜く。

「……旦那様」

 玉蓮の胸の内で渦巻く感情は、言葉では表現しきれないほどに複雑なもの。復讐という名の鎖に繋がれた自分と、この男の優しさに触れて揺れ動く心。

貴女あなたに復讐を忘れて、幸せに暮らして欲しいと思っています。ですが、糸口を探す貴女を守りたいと思うのも、私の偽りなき本心です」

 やはり気づいていたのだ。崔瑾ほどの男が、気づかぬはずがない。だが、彼はそれを咎めることなく、ただ見守っていた。泳がされているわけでもなく、見張られているわけでもなく——玉蓮自身の選択を尊重するかのように。

「……止めないのですか?」

 玉蓮が固く結んだ拳を震わせながら見上げれば、そこには、どこまでも優しい瞳がある。吹き抜ける風が、玉蓮の黒髪を撫でていく。玉蓮を抱きしめる崔瑾の腕に、さらに力が込められた。

太后たいこうと周礼という要を、壊そうとしておいでですね? 確かに、この国を動かしているのは太后派と呼ばれる一派です。大王は傀儡にすぎません。私も一派を瓦解させる一手を探していますが、あと一歩足りない」

「……旦那様も、お探しに?」

 玉蓮は、信じられないものを見るかのように崔瑾を見つめた。彼が、深く頷く。

「様々な証跡しょうせきを辿り、書簡や帳簿などを手に入れていました。私の予想が正しければ、太后たいこうは、王の生母である崔王后さいおうこうを殺害しています」

 その言葉に、玉蓮は息を呑んだ。国の最高権力者である太后が、王の母を殺害したというのか。いや、違う。その権力を得るために、王の母を殺害したのか。

崔王后さいおうこうを」

「はい。私の叔母上です」

「大王は、それを……」

「大王は真実を知らぬまま、太后たいこうの手のひらで操られています。崔王后が崩御された際……宮にいたものも含めて全員の死因は焼死とされていますが、遺体を運ぶための人夫の数が、あまりに少なすぎるのです。崔王后の亡骸を丁重に葬るふりをして、実際には記録にも残らぬ場所へ捨て去った可能性が高い」

「お、王后様を……?」

「はい。今は網を破る機を待っています。……玉蓮殿。太后は、生母を殺害し王子を得たのです。あの方は、目的のためなら手段を選ばない。以前、蕭家しょうけに起こった全ては、調査を進めていたこちらへの牽制です」

「牽制で……あのような!」

(いや、後宮とはそういう場所だ)

 いつ、何が起こり命が狙われるかわからない。それがあの場所なのだ。玉蓮は息を呑んだ。

「はい。今は、ひたすらに待つときです。機が熟すのを」

 崔瑾の瞳には、燃えるような決意の炎が宿っている。その瞳が、再び玉蓮に戻ってきて、柔らかく細められた。

「ですから……玉蓮殿は、どうか危険な真似はせぬように。あなたが一人でその網に触れれば、今度はあなた自身が絡め取られてしまう。私は……それだけは、耐えられないのです」

 玉蓮の心に広がる、温かい波紋。本当に心から案じているのがわかるからだ。でも、その優しさが、玉蓮の胸を締め付けていく。言葉を返せない玉蓮の頭を、崔瑾が撫でた。

「今日は、冷えますから……貴女あなたの手を離したくないのです。寝所に戻りましょう」

 崔瑾は玉蓮の手を取り、微笑ほほえむ。手を引かれ、再び温かい寝所に戻る。柔らかな絹の寝具が肌に心地よくて、そこにすり寄るようにして、玉蓮は大きな腕の中で、ゆっくりと目を閉じた。
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