闇を抱く白菊 —天命の盤—

アリスの鏡

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第十一章 心の臓を撃つ石

八十三話 白菊の逢瀬 4

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 遠くからでもわかる崔瑾の鋭い眼差しに、玉蓮は喉の奥で、ひきつったような音が鳴るのを聞いた。しかし、その瞳は玉蓮ではなく、氷のような冷たさで、ずっと赫燕だけを捉えている。砂利じゃりを踏み鳴らすように歩いてきた崔瑾が、お手本のように微笑ほほえみを浮かべて、手を合わせた。

「これは、赫燕大将軍」

大都督だいととく、崔瑾殿」

 赫燕もまた、低い声で応じる。二人が礼を交わす。それまで聞こえていたはずの、風の音がぴたりと止んだ。崔瑾は、赫燕の隣に立つ玉蓮をちらりと見やり、すぐに視線を赫燕に戻す。

「妻に、何かご用でしたか?」

「……軍の皆の話を。大都督だいととくが気にされるほどのことでもない、身内話です」

 赫燕は、表情も、声も、何もよどむことなく、一息でそう返す。

「赫燕大将軍の軍の話など、興味しかありませぬが」

 崔瑾は、そう言いながら、翠花スイファの手から桃色の絹の外套がいとうを優雅に取ると、一歩、玉蓮に身体を寄せるようにして立った。

「玉蓮殿、風が冷たくなってきました。外套がいとうを」

 崔瑾の手は、玉蓮を包み込むように動いた。その手つきは優しく、そして慣れている。玉蓮の肩に外套がいとうがふわりと羽織らされる。

 襟元を引き寄せたその手を、崔瑾はそのままそっと包み込んだ。

 彼の指の温かさが、玉蓮の指先にじんわりと染み渡るのに、熱が引く。そこには確かに温もりがあるのに、心の奥が追いつかない。

「手が冷たくなっているではありませんか。……庭園に、長くいすぎたのですかね」

 崔瑾の声色に、玉蓮は顔を伏せ、首を横に振る。

「わたくしは、大丈夫です。これくらい、なんということも」

「大丈夫なわけがないでしょう」

 微笑ほほえんだ音が頭上から耳に届く。顔を上げない玉蓮の頭に、唇が落とされる。

「赫燕殿、妻は風邪を引きやすいもので、そろそろおいとまいたします」

 崔瑾はきっぱりと言い放ち、玉蓮の肩を抱き寄せる。引き寄せられた反動で、玉蓮の外套がいとうの裾が白菊に触れたのか、二枚の花弁がはらりと舞い、玉蓮と赫燕の間に落ちた。

 その花びらの儚さに見入っている間にも、崔瑾の腕は玉蓮をさらに深く抱き寄せ、玉蓮の髪をそっと撫でた。そして、一切の躊躇なく、玉蓮を連れて歩き出す。

「——崔瑾殿」

 後ろから、赫燕の、芯の通った声が届いた。

「夫人は、白楊はくよう国の公主でもあり、我ら赫燕軍の大切な家族です。どうか、玉蓮を大切に慈しんでいただきたい」

 崔瑾の腕の中で振り返った玉蓮と、赫燕の瞳が交差する。しかし、その視線はすぐに、玉蓮の肩を抱く崔瑾の腕によって遮られてしまった。腕に力が込められ、玉蓮はその痛みに思わず顔をひそめる。

「将軍……玉蓮殿は、私の妻です」

「承知しております」

「なれば、名を呼ぶのは、今日を限りにしていただきたい」

「……これは、お許しを。呼び慣れていたもので」

 見たこともないような穏やかな赫燕の微笑ほほえみが、玉蓮の目の前で闇に溶けるように花開いてそのまま溶けていく。

「崔夫人、瞳にはきっと砂が入ったのでしょう。宿に戻られたら、ゆすぐことをお勧めいたします」

 手を合わせて、深く一礼をした赫燕が、玉蓮たちとは反対の方へ消えていき、冷たい風だけが、彼の残した言葉の余韻を運んでいく。

 玉蓮は、促されるままに、崔瑾の隣で歩みを進めた。その腕に包まれながらも、あの男の声が、頭の中で何度も木霊する。玉蓮の唇が音もなく動く。名を呼ばれたときの響きが耳の奥に残り、心の湖面に波紋を作り広げていた。
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