闇を抱く白菊 —天命の盤—

アリスの鏡

文字の大きさ
158 / 159
第十一章 心の臓を撃つ石

八十五話 変化の兆し

しおりを挟む
◇◇◇ 馬斗琉ばとる ◇◇◇

 翌朝、馬斗琉ばとるは、重い足取りで崔瑾さいきんの部屋を訪れた。

 昨夜、部屋から聞こえたあの不穏な物音と、主らしからぬ声。それを思い出すだけで、胃の腑が、冷たい石になったかのように重くなる。

 馬斗琉は、黙って扉の前に立った。心の臓の音が耳元で大きく鳴り響き、全身に冷たい汗が滲む。一度、大きく息を吐き、乱れた呼吸を整える。そして、顔を上げて告げた。

「馬斗琉です」

「……入りなさい」

 一拍遅れて返ってきた言葉に、再び戸惑いを覚えながらも部屋に足を踏み入れる。不気味なほどに、すでに部屋は整えられており、昨夜の争いを思わせるような痕跡はどこにも見当たらない。散乱した書類も、割れた器の破片も、まるで最初から存在しなかったかのように完璧に片付けられている。

 部屋の中央には、書簡に目を通している崔瑾の姿があった。一見、冷静なその表情の裏側、目の奥に潜む何かに——馬斗琉は、息を呑んだ。

「崔瑾様」

 主の私事に口を挟むなど、臣下にあるまじきこと。ましてや閨事ねやごととなれば尚更だ。しかし、機会をいっすれば、このまま何かが崩れていく。

 馬斗琉は、一瞬、言葉を選び、深く頭を下げる。

「昨夜の、ことではございませぬが……」

 一度、固く目を閉じて深く息を吸うと、絞り出すように、言葉を紡ぎ始める。

白楊はくよう国の姫君を娶られた時、我ら側近は、いささか驚きはいたしましたものの、それも崔瑾様の深い誠意、何より姫君を思われてのことと、深く納得しておりました」

 馬斗琉は、重い石を置くように、一言一言を慎重に紡ぐ。

「しかし、近頃の崔瑾様は、いささか……いえ、崔瑾様らしくありません。あの姫君へのご執心は、あまりに目に余ります。一つの情に囚われ、大局を見失うこと。それこそが、国を滅ぼす、最も恐ろしい病にございます。朝廷での風当たりを強くする原因は、崔瑾様ご自身であることを、ご承知おきください」

 崔瑾は、書簡に視線を落としたまま、馬斗琉の言葉を聞いていた。そして、そのままの姿勢で、唇が動く。

「……忠告、痛み入る」

 その声があまりに平坦で、空気が一瞬にして張り詰める。

 崔瑾は、ゆっくりと顔を上げ、馬斗琉の瞳を真っ直ぐに見据えた。その目に宿る光は、氷のように冷たく、かつてないほどの強い意志を秘めている。

「しかし、玉蓮殿は私の妻だ。そのことについて、口を挟むことは許さぬ」

 馬斗琉は、息を呑んだ。目の前のあるじの瞳は、もはや、あの、全てを静かに映し出す森の湖ではなかった。そこにあるのは、ただ一つのものだけを映し、それ以外の一切を拒絶する、冷たく、そして、硬質な暗い輝き。

「……御意」

 馬斗琉は、それ以上何も言えず、深く頭を下げた。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

行き遅れ王女、重すぎる軍団長に肉で釣られる

春月もも
恋愛
25歳、独身、第四王女システィーナ。 夜会でも放置されがちな行き遅れ王女の前に、ある夜突然現れたのは、ローストビーフを差し出す重すぎる第三軍団長だった。 形のない愛は信じない。 でも、出来立ての肉は信じてしまう。 肉に釣られ、距離を詰められ、気づけば下賜され、そして初夜へ。 これは、行き遅れ王女が重たい愛で満たされるまでの、ちょっとおかしなお話。

ちょっと大人な物語はこちらです

神崎 未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない ちょっと大人な短編物語集です。 日常に突然訪れる刺激的な体験。 少し非日常を覗いてみませんか? あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ? ※本作品ではGemini PRO、Pixai.artで作成した生成AI画像ならびに  Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。 ※不定期更新です。 ※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。

小さくなった夫が可愛すぎて困ります

piyo
恋愛
夫が、ある日突然、幼児の姿になってしまった。 部下の開発中の魔法薬を浴びてしまい、そのとばっちりで若返ってしまったらしい。 いつも仏頂面な夫が、なんだかとっても可愛い――。 契約結婚で、一生愛とは無縁の生活を送ると思っていたノエルだったが、姿が変わってしまった夫を、つい猫可愛がりしてしまう。 「おい、撫でまわすな!」 「良いじゃありませんか。減るもんじゃないし」 これまで放置されていた妻と、不器用に愛を示す夫。 そんな二人が、じれじれ、じわじわとお互いの距離を詰めていく、甘くて切ない夫婦再生の物語 ※完結まで毎日更新 ※全26話+おまけ1話 ※一章ほのぼの、二章シリアスの二部構成です。 ※他サイトにも投稿

七日後に神罰が落ちる。上層部は「下を切り捨てろ」と言った——私は全員を逃がす

蒼月よる
ファンタジー
七日後、この港に神罰が落ちる。 追放された元観測士イオナだけが、その事実を知っていた。 しかも災害は自然現象ではない——誰かが、意図的に引き起こそうとしている。 港の上層部はすでに手を打っていた。「下層区画を緩衝被害区として切り捨てる」秘密契約。被害を最小限に見せかけ、体制を守る冷徹な計画だ。 イオナは元護送隊長ガルム、荷運び組合長メラとともに動き出す。 犯人を暴き、証拠を公開し、住民を逃がし、工廠を止める——すべてを七日で。 被害を「選ぶ」管理か、全員を「残す」運用か。 追放観測士の、七日間の港湾カウントダウン・サスペンス。 この作品は以下の箇所にAI(Claude Code)を利用しています。 ・世界観・設定の管理補助 ・プロット段階の壁打ち ・作者による執筆後の校正

屈辱と愛情

守 秀斗
恋愛
最近、夫の態度がおかしいと思っている妻の名和志穂。25才。仕事で疲れているのかとそっとしておいたのだが、一か月もベッドで抱いてくれない。思い切って、夫に聞いてみると意外な事を言われてしまうのだが……。

夫婦交換

山田森湖
恋愛
好奇心から始まった一週間の“夫婦交換”。そこで出会った新鮮なときめき

リトライさせていただきます!〜死に戻り令嬢はイケメン神様とタッグを組んで人生をやり直す事にした〜

ゆずき
恋愛
公爵家の御令嬢クレハは、18歳の誕生日に何者かに殺害されてしまう。そんなクレハを救ったのは、神を自称する青年(長身イケメン)だった。 イケメン神様の力で10年前の世界に戻されてしまったクレハ。そこから運命の軌道修正を図る。犯人を返り討ちにできるくらい、強くなればいいじゃないか!! そう思ったクレハは、神様からは魔法を、クレハに一目惚れした王太子からは武術の手ほどきを受ける。クレハの強化トレーニングが始まった。 8歳の子供の姿に戻ってしまった少女と、お人好しな神様。そんな2人が主人公の異世界恋愛ファンタジー小説です。 ※メインではありませんが、ストーリーにBL的要素が含まれます。少しでもそのような描写が苦手な方はご注意下さい。

ブラック企業で倒れた私を、ネトゲ仲間の社長が強制保護して溺愛しています

紅 与一
恋愛
過労で倒れた私を救ったのは、 ネトゲ仲間――そしてIT企業の若き社長。 「もう君は、僕の管理下だよ」 退院と同時に退職手続きは完了。 住む場所も、生活も、すべて彼に囲われた。 外出制限、健康管理、過保護な独占欲。 甘くて危険な“保護生活”の中で、 私は少しずつ彼に心を奪われていく――。 元社畜OL×執着気味の溺愛社長 囲い込み同棲ラブストーリー。

処理中です...