1 / 17
1巻
1-1
しおりを挟む第一章 鬼の乙女、家出する
――やって、しまった。
「グッ……」
どうする。どうしよう。どうすればいいのだ。
頭の中ではそんな言葉ばかりがぐるぐると回っているが、私の体は目の前に転がる――正確に言えば私が蹴倒した、ひとりの男の手を縛り上げていた。足も拘束し、ついでにそのあたりにあった布で口を塞ぐ。
男が完全に意識を失ったところで、私はようやく深い息をついた。
蝋燭の灯りのみで照らされた、私の部屋。畳の上には机と座布団くらいしかないそこは、元から殺風景だったが、この日のために整理をして綺麗に掃き清めておいたことで、いっそう静けさが際立つ空間になっている。母と相談しながら活けた花だけが、わずかに彩りを添えていた。
……その静けさをぶち壊したのが、この闖入者なのだが。
「どう、するか」
そう、本当にどうすればいいのかわからない。
我ながら鮮やかに撃退したものだと感心するが、それがただの現実逃避だということもわかっている。
わが里の常識的にも掟的にもあり得ないことを、私がしてしまったのは百も承知なのだ。
「ああ、こんなはずではなかったのだが……」
本来なら私、迦乃栄は、今夜花嫁になるかもしれなかったのだ。
今日はこの里――鬼人の一部族たる常磐の里で、成人した男女が夫婦になる『妻問いの儀』が行われる日なのである。
常磐では年に一度、その年十八歳を迎える男女を集めて成人の儀を執り行う。晴れて成人となった者は、同日の夜に開かれる妻問いの儀に参加することができるのだ。
妻問いの儀は、男が自身の妻にと望む女の家へ赴き、貢ぎ物を渡すことで相手を娶る儀式だ。もちろん、いきなり家に乗り込んで『妻になれ』と迫るわけではなく、その前にはきちんと段階を踏んだ流れが存在する。
しかし私はその時点から流れに乗り遅れていたので、誰もわが家に来ることはないと思っていた。強制的に結婚させられるようなこのしきたり自体に疑問を抱いていた身としては、それで構わないとすら考えていたのだ。
それなのに、こんなことになるなんて……
「あら、まぁまぁ~どうしたの、迦乃栄」
そっと襖が開かれ、ひとりの女性が顔を出した。
「そ、そっちこそ何をしているんだ、母よ」
間延びした声同様におっとりとした笑みを浮かべる彼女は、私の母だ。
母の話し方を聞くと、なぜ私の口調はこうも女性らしさに欠けた古めかしいものになってしまったのかと、首をひねりたくなる時がある。実際は父の影響であることが明らかだし、もう身に染みついてしまったものなので、今更直そうとも思わないが……
「ええと~……」
母は倒れた男と私の間で数度視線を往復させた後、なぜか大きく頷いた。
「まず、入らせてもらうわね~」
妻問いの儀の最中は、未婚の娘を持つ男親は家から出て里の寄合場へ行き、女親は家に籠もって娘の部屋には決して近づかない――のだが、その掟を軽々と破り、母は私の部屋へ足を踏み入れた。
「母よ、掟を破るのはまずいのではないか?」
「あらあら~そんなの、この無作法者に比べれば、全然まずくないわよ~」
言うや否や、足下に転がる男の背中を踏みつけて微笑む母。
普段は穏やかで優しいのだが、ひとたび怒りが爆発すると非常に怖いのだ。
「一体どういうことかしら~? 部屋に訪れたということは、夫候補よねぇ? 迦乃栄を娶りたいのに、『先の貢ぎ物』も贈ってこない輩がいるなんて……何事?」
「ああ……」
男が妻問いの儀に参加するためには、本来、前段階として行っておくべきことがある。成人の儀のひと月前までに、自ら狩った獲物の素材を『先の貢ぎ物』として女の家に贈る必要があるのだ。
里の年寄によって届けられる、贈り主の名を伏せた貢ぎ物。女はその品を気に入れば装身具として仕立て、成人の儀の際に身に着ける。
それが、贈り主の妻になるのを了承するという意味だ。成人の儀のひと月前から未婚の男女は言葉を交わすことを禁じられるので、そこが女性側が自らの考えを主張できる唯一の機会となる。
――母には伝えていなかったが、実のところ、先の貢ぎ物は届いていたのだ。
あれはちょうどひと月前。早朝の散歩をした帰り、家の前に置かれているのを発見した。話に聞いていたように朱塗りの木箱に入れられていたので、間違いないだろう。
美しい鳥の羽、大きな狼の爪、珍しい猪の牙……私と同じ年の娘達のもとには、狩りの腕を自慢するように男達の貢ぎ物が届けられていた。
一方私への貢ぎ物はというと……小鼠の死骸だったわけだが。
「そうだな。お、贈られてないな、うん。誰も、贈ってこなかった」
腐りかけの死骸なんて、貢ぎ物としてあり得ない。騒ぎ立てて事を大きくしたくなかった私は誰にも見られないよう、裏手の森に箱ごと埋めた。そのため両親は、先の貢ぎ物が届いていたことは知らないはずだ。
「……そうなの~?」
「ああ、ああ。オクラレテイナイ」
母は私をじっと見つめ、諦めたようにため息をつく。
我ながら棒読みになってしまった自覚はあるものの、とりあえず追及をかわせたことに安堵した。
実は、色々な理由が重なり、私を含めたわが家は里の中で爪弾き……とまではいかないが、遠巻きにされている。母もそれを気にしているから、私の怪しい態度に触れずにいてくれたようだ。
「ふぅ……そうね、先の貢ぎ物は絶対に必要な物ではないものねぇ……まあ、普通はあるものだけど~」
返事をするとまた棒読みになりそうだったので、ただ頷くことで同意しておく。
確かに、ある一定の条件下においては、先の貢ぎ物を身につけていない女相手であっても妻問いに臨めるのだ。
貢ぎ物を気に入らず、装身具に仕立てない女もいる。誰からも貢ぎ物をもらえなかった女もいる。独り身を選ぶため、あえて貢ぎ物を拒絶する女もいる。
結婚は里の女の夢なので、そういった者はあまりいないのだが……その場合、誰が妻問いをしても構わないとされているのだ。ちなみに、複数の男が妻問いに訪れた場合、その中で最も力ある男が女を娶ると決められている。
男側に有利過ぎるしきたりだと改めて思うが……それはひとまず置いておく。
つまり、先の貢ぎ物を身につけていない私のもとへこの男がやってくること自体は、掟破りではないのだ。母が無作法だというのは、これ以外の点である。
「五千歩譲って、先の貢ぎ物には目を瞑るとしても……他のことも、色々あり得ないわ~」
「ま、まぁ、それはそうなのだが」
先程より力を籠めて、母が男の背中を踏みにじる。男の意識は、未だ戻らなかった。
「まだ月が上がりきってないのよ? どころか、合図の鐘も鳴ってないわ。それにこの貢ぎ物! 私の娘を馬鹿にし過ぎじゃないかしらぁ~?」
里の女が夢見る妻問いは、こうだ。
月が一番高く上がり、妻問いの儀が開始される鐘の音が鳴り響く夜半。堂々と名乗りを上げた男が、自らの狩りの成果たる獲物の毛皮で仕立てた長羽織――『妻問いの貢ぎ物』を女に着せ、その手で花嫁衣装を完成させる。
だが、それは単なる理想である。現実は厳しい。
「……貢ぎ物は、男の想いの強さを表すものだ。彼が私に向ける情なぞ、ないに等しいだろう」
今夜私がされたことといえば……月が中天にかかるよりかなり前。窓から勝手に部屋に乗り込んできた男に、無言で薄汚れた羽織――何かの毛皮を申し訳程度に片袖につけた、雑なこと極まりない作りのそれを被せられそうになった、という具合だ。
おそらく里の中で誰よりも妻問いに期待を寄せていなかった私だが、これはあんまりだと思う。男が視界に入ってきた瞬間、思わず側頭部を蹴り上げて昏倒させてしまったくらい、ひどい。
何の感情も持たない相手から、こんな仕打ちを受けるなんて……
「そもそも、この方はどなたなの~? こんな情けない姿じゃ、誰なのかわからないわ」
「私もよく顔を見ていないのだが……おそらく、いつも麗李亜の周りにいる男衆の誰かだと思う」
「ああ、あの子の取り巻きね」
心底軽蔑したようにそう吐き捨てる。母がここまで嫌悪感を表すのは滅多にないことなので、少し驚いた。
麗李亜は里長の孫娘だ。鬼人として誇れる六本の角を有し、その美しさも相まって、同世代の中では常に輪の中心にいるような存在である。
鬼人の格は、頭上に持つ角の本数で決まる。鬼人の祖となったとされる鬼神が大小合わせて十の角を有していたとの伝承があることから、角の数が多い者はそれだけ始祖の血が濃く高い能力が備わっていると言われているのだ。
常磐は鬼人の中でも特に鬼神の血を濃く受け継ぐとされる部族で、ほとんどの者が三角以上を有している。里の外では一角から三角が普通で、四角以上は上位鬼人とみなされるらしいから、おそらくその話は事実なのだろう。
しかし、六角の鬼人は、常磐でも三人しかいない。里長と、麗李亜。それから……私だ。
本当は私の父も六角だったのだが、母を娶る際に色々あり――(それを母は『ラブロマンス』だと称しているが)今はひとつ角を折って、五角になっている。
母は里では脆弱だと言われる二角の鬼人。父は鬼人の誇りである角を自ら折った傷物の鬼人。加えて里長の娘が昔、わが父に横恋慕していたなどという話も小耳に挟んでいる。そんなふたりから六角の子どもが生まれたのが、里長の一家にとっては到底許容できないことらしい。
特に矜持が高い麗李亜からすると、同じ六角持ちの私の存在はとても目障りなようで、幼い頃から色々と嫌味を言われたものだ。
一方、私の幼なじみで、里の歴史上最高位である八角の男に対しては、非常に友好的に接している。つまり麗李亜は、私が同性であることが癇に障るのだと思う。
それに、私の性格も気に入らないらしい。
――何を言われてもさして気にせず、ひとりでいることも苦ではなく、ぼうっとしていることを好む。
幼なじみの男は、私をそう称する。加えて、群れるのを好み、姦しい麗李亜とでは絶望的に相性が悪いだろうとも言われた。麗李亜に合わせて性格を変えようとは思えないので、考えても詮ないことだが。
「……手に入らない女のいいなりになって、一生を棒に振るなんて。この男も馬鹿ねぇ」
母の言葉から妙に重みを感じる。やはり両親の妻問いの時も、何かあったのかもしれない。
「馬鹿、だな……」
この男も、この妻問いを仕組んだであろう麗李亜も、黙って今日まで耐えてきた私も。
みんな、みんな馬鹿だ。
「――母よ。私はもう怒った」
麗李亜が私を嫌っている。だからその取り巻き達も私を嫌う。
里長の一家が両親を遠ざける。だから里の大人も私達一家とよそよそしく接する。
物心ついた頃から、ずっとそういう環境の中で生きてきた。それでも私はあまり他者を気にしない性格だし、両親が私を目一杯愛してくれたから、里で浮くことにも、多少の嫌味や嫌がらせにも我慢できた。幼なじみも、たまに私の様子を見に来てくれるので、それ以上は望まなかった。
だというのに、いくらなんでもこれは非道過ぎないだろうか。
私は里の者達に人生を滅茶苦茶にされる程恨まれるようなことを、本当にしたのか?
「私はこんなことをするような輩の妻には、なりたくない。それにこの里にいても、他に夫などできない」
掟だのしきたりだのと言われても、やはり私はこの妻問いという仕組みそのものに承服しかねるのだ。
女側は、先の貢ぎ物こそ拒否できても、妻問いの貢ぎ物はほぼ拒否できない。結局は男だけが相手を選ぶことができ、女は好いた男に選ばれる幸運を祈るしかない。
掟に従うのなら、私はこの屈辱極まりない求婚を受け入れなければならないのだ。
おかしなしきたり。女をモノ扱いするかのような伝統。それでも真摯に想ってくれる相手がいて、その男から妻問いを受ければ、今日という日も素敵な日だと思えたのかもしれない。
だが実際は、わけのわからない男から、こちらを馬鹿にしきった妻問いをされてしまった。いい加減、怒りの感情も湧くだろう。
「私を娶りたい者が誰もおらず、独りで生きていくことになるのなら、それも仕方ないと思っていた。そうなるだろうと覚悟もしていた。だが、これは受け入れられない」
いつか両親に迷惑をかけずに単身で大陸へ渡る方法を見つけようと、そんなことさえ考えていた私の覚悟を嘲笑うかのごとく、適当な夫をあてがおうとするなんて。
これが私の人生だと諦めてしまうのは、あまりにも空しくないか。
「あら? おかしいわね、燈王さんはどうしたの~?」
先程の暗い声が嘘のように、おっとりとした調子で母がひとりの男の名を口にする。
何がおかしいのか、と疑問に思いながら、私は頭の中に彼を思い浮かべた。
――燈王。八角の鬼人。五つ年上の、私の唯一の幼なじみ。
何の法則もなく、世界に生まれてくるという稀有な存在、鬼神の血をそのまま受け継いだかのごとく優れた力を持つ、鬼神の神祖返り――『鬼神の御子』と呼ばれる人である。
彼は驚く程整った華やかな容姿に、柔らかな物腰の麗人だ。そして誰よりも強く、その圧倒的な存在感だけで他者を従える力を持つ。
里の男は彼に畏敬の念を抱き、女は娶ってほしいと懇願する。そんな燈王は……なぜか私の前でだけ、口も態度もあまりよくなかった。麗しい顔立ちを皮肉げに歪めて笑うことばかりだったけれど、なんだかんだ言って、私に普通に接してくれた。ふらりと現れては、色んな話をしてくれる彼と過ごす時間は、いつだって楽しかった。
彼が本当は優しい人だと知っている。それくらい、私と燈王の付き合いは長い。だけど、彼は……
「燈王は麗李亜に先の貢ぎ物を贈っていた。だからどうもこうもない」
「……あら?」
成人の儀までの期間中、男女が言葉を交わすことは禁じられているが、同性同士は問題ない。
儀式が行われる里外れの祭壇に辿り着いた直後、麗李亜は嬉々として何の装身具も身につけていない私に嫌味を言ってきた。そしてひとしきり言い終えて満足したらしい彼女は、女衆全員に聞こえるよう、『燈王様から頂戴したのよ』と自らの装身具を見せつけてきたのだ。
先の貢ぎ物の贈り主は、女側には知らされないことになっている。それなのに麗李亜が知っていたのは、里長に頼んで聞き出したからに違いない。
麗李亜はずっと、燈王のことが好きだったのだ。常に燈王の傍にいようとしていたし、私にも何度も宣言していた。『燈王様は私を娶るの』と。
その夢が叶って嬉しくて仕方がなくて、皆に自慢したかったのだろう。
麗李亜が身につけていたのは、とても豪奢な花簪だった。絹で作られた大ぶりな白い牡丹の花弁から金と銀の雫が連なり落ち、花の中心には鮮やかな猩々緋の珠が留められている。
彼女の髪は薔薇色なので、珠の色と被らないようにと飾りに気を遣ったのだろう。あんなに目を惹く簪は見たことがなかった。
麗李亜の自慢はまだ続いていたが、私の耳にはもう入ってこなかった――その装身具に使われている貢ぎ物が、五年前、燈王が成人を迎えた際に見せてくれた珠だと気づいてしまったからだ。
彼は時々、里から姿を消す癖がある。あの時も、しばらく顔を見ない日が続いたと思ったら、森の木の下でまどろんでいた私の前に彼はふらりと現れた。
『暇つぶしに大陸に出てみたが、それなりにおもしろかったぜ』
彼はいつも土産話がてら、私に色々なものを見せてくれた。その中のひとつが、あの珠だ。
私の瞳より大きな真円で、わずかに青と黒を混ぜたような色味の、深い赤の珠。それが猩々緋という色だと知っていたのは、父にもらった世界の色を集めた図鑑で見たことがあったからだ。
猩々緋は、燈王が纏う色である。
彼の髪はとても不思議で、根本から毛先に行くにつれて稲穂のような黄金色から艶やかな猩々緋へと色が変わっていくのだ。当人に告げたことはないが……私はその髪を、彼以外持たないその色の移り変わりを、とてもとても気に入っている。
その色が好きな理由を知られるのは、なんだか恥ずかしかった。だから珠を見せられた私は『すごく綺麗だし、きっと貴重なものだろう。大事にしまっておいた方がいい』とだけ言った。
彼は『そうする』と返して、そのままさっさと隠してしまった。それから今日まで、二度と目にすることはなかったのだ。彼は時たま、狩りの成果を土産として私にくれることがあったのに、その珠だけはなぜか『物欲しそうにしてるからやるよ』とは言わなかった。
――あの綺麗な珠は、この日のために大事にしまわれていたのだ。
そう思った時、なんだか胸がざわりとした。彼が見せてくれた品の中で最も心惹かれたあの珠が、麗李亜に贈られたのだと見せつけられるのは、どうしてか嫌だった。
そうして儀の間、私は白い花簪から目を逸らし続けた。
「……おそらく燈王はずっと、麗李亜のことを好いていたのだろう。あれ程女衆から秋波を送られていた彼が今年になるまで妻問いに参加しなかったのも、麗李亜の成人を待っていたからに違いない」
「あらら、そうかしら~?」
「そうだ」
なぜだか吐き捨てるような言い方になってしまった。母はもちろん、誰も悪くない。あの珠がほしいと、そう少しでも思ってしまった自分の心が幼いだけなのだ。
と、そこで、ガラァン、ガラァンと大きな鐘の音が鳴り響く。
これが妻問い開始の合図だ。女が家に籠もると同時に、里の中心にある広場に集まっていた男達が、ようやく目当ての相手のもとへ向かい始める。
……ちょうどいい。これを区切りにしようではないか。
「だから私は家を出るぞ」
「えっ?」
この機会を逃してはいけない。母には悪いが、私は今家を出た方がいいと直感したのだ。
私の家は里の端に位置している。これ以上私に妻問いに来る者などいないと思うが、すぐに出なければ見つかってしまうかもしれない。
「母よ、父にも伝えてくれないか。育ててもらった大恩は忘れない。私は必ず夫を見つけ、いつか父と母を私達の家に呼ぶ。そこで共に暮らそう」
「ちょ、ちょっと待って、迦乃栄~……本気?」
「本気だ。私は、やる」
常磐では里の者同士で結婚するのが常識だ。それでも、私はここを出る。里を出たい。
私だって行動する時はするのだ。こうなったら、絶対しあわせな結婚をしてみせる。
両親みたいに、『ラブロマンス』に溢れたものでなくてもいい。父が買ってきてくれた絵本のような、王子様のお妃様になりたいわけでもない。
恋さえ未経験である。両親がたくさん与えてくれた本を読んで、想像するのみ。そうやって私は、自分の理想の結婚像を描いてきた。
――真剣に愛し愛される関係になった人と、共に穏やかな日々を過ごす。
ただそれだけが、私の望む結婚である。
× × ×
『迦乃栄はここぞという時、すごぉく頑固だものね~、やっぱりお父さんに似たのかしら』
『すまない。私が里を抜けることで、もしかしたら迷惑をかけてしまうかもしれない』
『いいのよ~迷惑なんて考えなくて。迦乃栄こそ、私達のせいでずっと里に居づらかったでしょう。ごめんね』
『いや、それは母のせいではない。謝らないでくれ』
そう言った私に、母は少しだけ苦笑した。
『そうすると決めたなら、行ってらっしゃい。お父さんには私からちゃあんと話しておくから、大丈夫よ。でも……ああ、ちょっと待っててね~。荷造りが不要になる、とっておきのものがあるから』
どこかしんみりとした雰囲気を消し去り、部屋を出て行く母。
待つ間にしきたりとして着用していた花嫁衣装から普段着ている服に着替えていると、母はなぜか印籠を持って戻ってきた。丸くて小ぶりなそれは、腰に提げる根付部分も花の形をしていてかわいい。
だがなぜ印籠? 荷造りと何か関係あるのか? 傷薬ぐらいしか入らないだろう。しかし私を含め、鬼人の体は頑丈で滅多に怪我をしないから、そんなものは必要ないし……
『母よ、それは何だ?』
『うふふ~。昔お父さんがくれた、魔法の印籠よ。見た目よりずうっと、色んなものが入るの。かわいいでしょう? 迦乃栄が成人したらあげる予定だったのよ~』
『そう、なのか』
『水に濡れてもちょっと焦げても大丈夫。私からの餞別みたいなものだと思ってちょうだいね~、旅行することがあるかもって思って、色々なものを詰めておいたのが役に立つ日が来たわ』
『なぜ旅行? ――まぁ、ありがたくいただくが』
そうして母は、おっとり笑いながら私を送り出してくれた。
おおらかな母でよかったと、本当に思う。あの場にいたのが父だったら、こうもうまくはいかなかっただろう。父は無骨で頑固な性格だが、意外に心配性で過保護なのだ。
私が父に似ていると母は言うが、実際似ているのは口調くらいだ。私は自分に子どもができても、遊びに行く子どもの後をこっそり尾行したりはしない……父がそのようなことをしたのは、私が幼い頃の話だが。
「さっそく昔のことを思い出すなんて……これが『ホームシック』というやつか」
本で読んだ知識を思い出す。私が常磐を出てから、まださほど経っていないのに、いくらなんでも早過ぎやしないか。
「まぁ、こんな場所を歩いていたら仕方がないか」
独り言でも言っていないとやっていられないくらい、森の中が静かなのだ。
いや、こっそり里を出るのだから静かな方がいいとはわかっている。しかしそれにしても静か過ぎる。
家の裏手にある森からずっと、生き物の音がほとんどしない。私は夜目が利くため、周りに何かしらいることはわかるのだが、そのどれもが息を潜めているようだった。一体何だろうかと思いつつも、夜行性の生き物に邪魔されず進みやすいので、途中で気にするのをやめた。
「そろそろ海が見えるはずだが……」
常磐の里は、大陸から少し離れた島にある。ここから一番近い島までは船で半日、大陸までは丸二日程。大人の鬼人は時たま大陸へ渡り、島の物と大陸の物を売買してくるのだ。
成人前までは船の利用が許されていないので、私は大陸に行ったことがない。
……そう思うと、燈王は一体どうやって大陸に渡っていたのだろう。彼の話を聞く限り、どう考えても成人前から行き来をしていたはずなのだが。
まぁ、今考えてもわからない。いつか本人に聞いてみよう。
「……ここに帰ってくることがあるのか、帰ってきたところでまた話しかけられるのかすら、わからないが」
燈王が私と話すのを、彼の妻となった麗李亜が許すとは思えない。
それに燈王自身も里人の目があるところでは、決して私に話しかけなかった。私と彼が会うのはいつも、人が滅多に来ない、わが家の裏手の森だったのだ。
幼い頃に理由を聞いた時は、彼は『その方がいいから』と答えた気がする。
当時はそんなものかと深く考えずに頷いたが、今思えば私が燈王と親しい様子を見せたら、麗李亜からの風当たりがもっと強くなっていたのではないかと思う。
燈王にはずいぶん助けてもらった。これからは、自分ひとりで頑張っていかなくてはいけない。
幸い、私を毛嫌いして会うたび色々言ってくるような人は、もう現れないだろう。私はただの迦乃栄として、夫探しの旅に出るのだから。
草をかき分ける音さえ立てないよう、慎重に森を走る。潮のにおいと波音が近い。もう海に出る――
「…………うん?」
確かに、海に出た。
出たのだが。
「……道を間違えたか?」
船に乗った経験はなくとも、つないである浜までは行ったことがある。
確か白砂の広がる普通の浜だったはずだが……ここはどう見ても、崖だ。
「むぅ、どうするか」
かなり下の方で、崖に当たる波の飛沫が見えた。生まれ育った島のことだ、この崖ももちろん記憶にある。方角は間違っていないようだが、浜とはずいぶんずれてしまったらしい。
非常に残念なことだが、私はあまり方向感覚に優れていない。更に言うなら、道を覚えるのもさほど得意ではなかった。正直、この島内でも最短距離で目的地へ辿り着けないことがあるのだ。
今から正規の道である浜を探すのは難しい……というより面倒だ。
時間も惜しい。私は今すぐ里を出たいのである。
「仕方がない」
今着ているのは、いつも通りの着物だ。両袖を落とし、裾を膝より上で切って動きやすい形に仕上げてある。それに母いわく魔法の印籠を帯に提げ、歩きやすいよう足元に脚絆を巻いているだけの、いわゆる軽装。
印籠は水に濡れても大丈夫と言っていたから、問題ないだろう。着物は駄目になってしまうかもしれないが、背に腹は替えられない。
夏が終わり秋へと向かう今の季節。海水は温かくはないだろうが、ことさら冷えるわけでもないはずだ。
軽く体をほぐして、ひとつ息をつき。
「よし」
私は勢いよく、崖から夜の海へ飛び込んだ。
0
あなたにおすすめの小説
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
愛された側妃と、愛されなかった正妃
編端みどり
恋愛
隣国から嫁いだ正妃は、夫に全く相手にされない。
夫が愛しているのは、美人で妖艶な側妃だけ。
連れて来た使用人はいつの間にか入れ替えられ、味方がいなくなり、全てを諦めていた正妃は、ある日側妃に子が産まれたと知った。自分の子として育てろと無茶振りをした国王と違い、産まれたばかりの赤ん坊は可愛らしかった。
正妃は、子育てを通じて強く逞しくなり、夫を切り捨てると決めた。
※カクヨムさんにも掲載中
※ 『※』があるところは、血の流れるシーンがあります
※センシティブな表現があります。血縁を重視している世界観のためです。このような考え方を肯定するものではありません。不快な表現があればご指摘下さい。
私が王子との結婚式の日に、妹に毒を盛られ、公衆の面前で辱められた。でも今、私は時を戻し、運命を変えに来た。
MayonakaTsuki
恋愛
王子との結婚式の日、私は最も信頼していた人物――自分の妹――に裏切られた。毒を盛られ、公開の場で辱められ、未来の王に拒絶され、私の人生は血と侮辱の中でそこで終わったかのように思えた。しかし、死が私を迎えたとき、不可能なことが起きた――私は同じ回廊で、祭壇の前で目を覚まし、あらゆる涙、嘘、そして一撃の記憶をそのまま覚えていた。今、二度目のチャンスを得た私は、ただ一つの使命を持つ――真実を突き止め、奪われたものを取り戻し、私を破滅させた者たちにその代償を払わせる。もはや、何も以前のままではない。何も許されない。
もう無理して私に笑いかけなくてもいいですよ?
冬馬亮
恋愛
公爵令嬢のエリーゼは、遅れて出席した夜会で、婚約者のオズワルドがエリーゼへの不満を口にするのを偶然耳にする。
オズワルドを愛していたエリーゼはひどくショックを受けるが、悩んだ末に婚約解消を決意する。
だが、喜んで受け入れると思っていたオズワルドが、なぜか婚約解消を拒否。関係の再構築を提案する。
その後、プレゼント攻撃や突撃訪問の日々が始まるが、オズワルドは別の令嬢をそばに置くようになり・・・
「彼女は友人の妹で、なんとも思ってない。オレが好きなのはエリーゼだ」
「私みたいな女に無理して笑いかけるのも限界だって夜会で愚痴をこぼしてたじゃないですか。よかったですね、これでもう、無理して私に笑いかけなくてよくなりましたよ」
私が死んで満足ですか?
マチバリ
恋愛
王太子に婚約破棄を告げられた伯爵令嬢ロロナが死んだ。
ある者は面倒な婚約破棄の手続きをせずに済んだと安堵し、ある者はずっと欲しかった物が手に入ると喜んだ。
全てが上手くおさまると思っていた彼らだったが、ロロナの死が与えた影響はあまりに大きかった。
書籍化にともない本編を引き下げいたしました
離婚する両親のどちらと暮らすか……娘が選んだのは夫の方だった。
しゃーりん
恋愛
夫の愛人に子供ができた。夫は私と離婚して愛人と再婚したいという。
私たち夫婦には娘が1人。
愛人との再婚に娘は邪魔になるかもしれないと思い、自分と一緒に連れ出すつもりだった。
だけど娘が選んだのは夫の方だった。
失意のまま実家に戻り、再婚した私が数年後に耳にしたのは、娘が冷遇されているのではないかという話。
事実ならば娘を引き取りたいと思い、元夫の家を訪れた。
再び娘が選ぶのは父か母か?というお話です。
夫が妹を第二夫人に迎えたので、英雄の妻の座を捨てます。
Nao*
恋愛
夫が英雄の称号を授かり、私は英雄の妻となった。
そして英雄は、何でも一つ願いを叶える事が出来る。
そんな夫が願ったのは、私の妹を第二夫人に迎えると言う信じられないものだった。
これまで夫の為に祈りを捧げて来たと言うのに、私は彼に手酷く裏切られたのだ──。
(1万字以上と少し長いので、短編集とは別にしてあります。)
娼館で元夫と再会しました
無味無臭(不定期更新)
恋愛
公爵家に嫁いですぐ、寡黙な夫と厳格な義父母との関係に悩みホームシックにもなった私は、ついに耐えきれず離縁状を机に置いて嫁ぎ先から逃げ出した。
しかし実家に帰っても、そこに私の居場所はない。
連れ戻されてしまうと危惧した私は、自らの体を売って生計を立てることにした。
「シーク様…」
どうして貴方がここに?
元夫と娼館で再会してしまうなんて、なんという不運なの!
過去1ヶ月以内にレジーナの小説・漫画を1話以上レンタルしている
と、レジーナのすべての番外編を読むことができます。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる
本作については削除予定があるため、新規のレンタルはできません。
番外編を閲覧することが出来ません。
過去1ヶ月以内にレジーナの小説・漫画を1話以上レンタルしている
と、レジーナのすべての番外編を読むことができます。
このユーザをミュートしますか?
※ミュートすると該当ユーザの「小説・投稿漫画・感想・コメント」が非表示になります。ミュートしたことは相手にはわかりません。またいつでもミュート解除できます。
※一部ミュート対象外の箇所がございます。ミュートの対象範囲についての詳細はヘルプにてご確認ください。
※ミュートしてもお気に入りやしおりは解除されません。既にお気に入りやしおりを使用している場合はすべて解除してからミュートを行うようにしてください。
