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17 気がついたら逆鱗に触れてた
しおりを挟む婚約者さん――桐生さんの黒い瞳がじっと私を見ている。
穏やかになったように見えたのは表面上だけのことで、その奥に煮えたぎるような何かがある。熱くて、ドロドロとした、どす黒いなにか。
「なぁ」
細部まで美しい男が、その美しい口を動かす。一瞬たりとも私から目をそらさないまま。
「いくら払ったら、俺のもんになるの」
「え?」
「金。払うなら自分に払えって言ってただろ」
「あー……」
ちょっと前の自分を殴りたい。なんでそんな意味のわからないことを言ったんだ、私。
いや、ちょっと頭おかしくなっていた自覚はあるんだけど。
「平均的な生涯年収って二億ぐらいだっけ。でも、あんた、ブサイクに普通に対応できそうだし、ブサイクからうまく金を巻き上げそうだよな」
「いや、そんなことしないですよ」
風評被害がひどい。美人局じゃないんだから。前世では生涯年収二億なんて到底届かない底辺社畜だったけれど、真面目さには定評があったんだぞ。犯罪例もありません。
「そうやって考えると、十億ぐらい? じゃあ、二十億払うから、俺のものになれ。衣食住も保証する。なんだって買ってやる。――その代わり、俺だけを見て、俺だけのために生きろ」
じぃっと見つめてくる、黒い瞳。
イエス以外は許さない圧を込めた、命令。
いや、それたぶん、かなりの束縛ですよね。二十億もらっても使う自由がないやつ。
もう私はこの狂った世界でちょっと頭がパーンってなった私は、それなりに自由に生きると決めたので、常に抑圧された生活は避けたいところだ。
そう伝えたいけれど、間近から向けられる黒い瞳の圧に、言葉がうまく出ない。
彼の瞳が発する熱量も、執着も、そして暴力的なまでの圧も、すべてが「ダメなら、実力行使」と言っている。
「えっと……」
なんとか口を開いたあと、乾ききった唇を舐める。
彼の視線が、私の口元に向かい、私の濡れた唇を見て、なぜか蕩けるような甘い何かをにじませる。
え、なに、怖い。
「えっと……その、お金を私に払えと言ったのは、その言葉の綾でして……お金を払えば、あなたのものになるというわけでは」
「あ“あ”?」
甘やかな何かをにじませていた瞳はその一瞬でそれを消し、苛立ちにぎらつく。
「いや、本当にすみません。まことに申し訳ありません。なんというか……すみません」
桐生さんが私の右手首をつかんでくる。そしてギリギリと締め上げ、低い声で言った。
「――無理やり俺のものにしてもいいんだぞ」
痛みに顔をしかめつつ、彼の顔を見つめる。
たぶん、彼はそうすることができるのだろう。それができるだけの暴力も、財力も、権力ももっている。
「――でも、桐生さんはそういうのが欲しいんじゃないんですよね」
桐生さんが眉をピクリと動かした。
「顔がいい女性も、スタイルがいい女性も、気が利く女性も、いくらでもいるでしょう? どんな女性だって、桐生さんはきっと無理やり自分のものにすることができるんでしょう? ――でも、無理やり自分のものにしたら、みんな女なんて一緒でしょ。私もそうです。無理やり桐生さんのものにされたら、私だって怯えてあなたの顔なんか見られなくなっちゃいますよ」
あなたに怯えて、泣き叫ぶ女なんて、お望みじゃないでしょう? と暗に伝える。
「――友達ってやつ、やってみませんか。私、人間の外見にあまり興味がないので、普通に桐生さんの顔、見られますよ。普通に手も触れるし、普通に話せますよ」
あなたの暴力性には怯える可能性大ですが、とは口に出さないようにしておく。
「――だから、友達ってやつ、やってみませんか」
「やらねえよ」
自分と桐生さんとの妥協点を探って出した申し入れは、かぶせ気味に拒絶された。
男の瞳が、いつのまにか怒りに染まっていた。
「この俺が、その他大勢なんて地位に甘んじると思ってんのか」
そして悪辣に、そして嗜虐的に嗤った。
息を呑むほど、美しい笑みだった。
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