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第五章 主従逆転、今日から召使
25話
しおりを挟む目の前に立ちはだかっていたのは、シエナ二人分の身長は優に超える雄牛の獣人だった。黒い体毛に全身を覆われ、その場の石像を簡単に粉砕できそうなほど両腕も両脚も厚い筋肉を纏っている。
雄牛獣人は鼻息を荒くさせながら、血走った双瞳でシエナを見下ろす。
一方のシエナは初めて目にする巨大な体躯の獣人に絶句し、助けを求めるようにアランを目で探した──が、当の元護衛はすでに橋の先を歩いていた。
(助けるって言ってくれたのに、どうして置いていくの!?)
シエナはあわあわとその場で慌てたが、その落ち着きのない様子が更に雄牛獣人の顔を険しくさせた。
「学生証、持っているだろう。早く出せ」
「あ、わわ、わ、わたし、ここの学生であるアラン様に仕えている身でして……」
「専属召使でも学園の人間なら通行証は持っているはずだ! ちんたらしてんじゃねぇ!」
「ひっ」
咆哮と共に、唾飛沫がシエナの顔面に降りかかる。どうしてこんな場所で雄牛に怒鳴られなければならないのか。周囲の人々の視線が突き刺さっていたたまれなくなる。
シエナは危うくずり落ちそうになった鬘を支え、遠くへ行ってしまったアランにもう一度視線を送ろうとしたが、突如として雄牛獣人の目がくるんと白目を剝いた。
「え? あ、あの」
「……アッチ、カ」
「はい?」
雄牛獣人は精力を失ったようにふらりと背を向け、蹌踉めく足取りで橋の上を歩いていく。すれ違うように向こう側から戻ってきたアランは雄牛獣人を一瞥し、シエナに手招きした。
「さっさと行くぞ」
「え、な、何したの……ですか?」
シエナの辿々しい問い掛けに、アランは指につまんだ黒く短い毛を目の前に掲げる。先ほどの雄牛獣人の毛だろうか。
「毛を使って、地面に描いた即席の魔法陣にあの門番を引き寄せた。時間が経てば問題なく解放される。それと、通行証はどうにか用意しておくから」
「も、門番さんにそんなことをして問題にならないの……ですか?」
「魔法陣も魔力効果を発揮できなくなれば自然と消える。証拠隠滅すれば問題ない」
「そうなん……ですか」
敬語で話す元主と、当たり前のように言葉を崩して話す元護衛騎士。これが本来のアランの話し方なのかもしれないが、違和感が拭えない。
というより、先ほどすぐに助けてくれなかったことに対する不満もあった。文句を言える立場ではないけれども。
「今日は始業式があるから、その前に他のことを片付け」
──ぐぅぅぎゅるるるぎゅる。
アランの声を遮るようにシエナの腹の虫が盛大に鳴った。あまりの音の大きさに橋を行き交う人々が一斉に振り返る。クスクスと女子生徒に嘲笑われ、シエナの頬は見る間に赤く染まっていった。
お腹が空いたなんて連呼したら品がないと思って耐えていたが、今の腹の音を聞かれる方が遥かに恥ずかしい。
シエナがお腹を抱えたまま俯く中、アランは肺の底から長い溜め息を吐いて目を伏せる。
「まずは食堂に行こう」
「……ごめんなさい」
再び前へと歩き出したアランの後を、シエナは申し訳なさそうに頭を低くしながら追いかける。そのまま帝国グレディアと王国ラストナスの旗が等間隔に並ぶ長い橋を抜け、学園へと続く銀のアーチを潜ろうとした刹那、噴水の影に黒い猫の姿が見えた。
「にゃあ」
黒猫は小さな声で鳴き、ゆったりと尻尾を揺らす。
吊り上がった目つきが誰かに似ているような気がして、シエナは思わず猫の顔を凝視しそうになったが、アランの咳払いによって制されてしまった。
「シエナ。早く」
「ご、ごめんなさい! 今行きます!」
シエナは小走りでアランを追い掛ける。
エントランスに差し掛かったところで黒猫の存在がふと気になり、シエナはさり気なく後ろを振り返ったが、すでにそこには誰もいなかった。
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