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第五章 主従逆転、今日から召使
27話
しおりを挟む「えっ」
聞き覚えしかない重々しい声に、シエナは両腕いっぱいに食べ物を抱えたまま振り返る。しかし、振り返ったが先に人間は誰もいない。
学園のエントランス前で見かけた黒い猫がにゃあと赤い舌を見せて鳴いているだけだった。
「……ここの学園の猫さんなの?」
最初は野良猫が迷い込んだとばかり思っていたが、黒猫の首には黄金の首輪がついている。黄金の鋭い双眸で自分を見つめるその姿に、シエナの胸の奥がかすかに弾んだ。
ここだけの話、シエナは動物が嫌いではない。
むしろ、撫で回したいと思うくらいには可愛いと思っている。
「おいで。猫さん……」
とは言っても、動物からは懐かれた記憶は悲しくなるほどないが、自分の前に二度も現れるということはきっと撫でてほしいということだろう。
そんなシエナの淡い予想はすぐに打ち砕かれた。
「あ゛っ」
手を差し伸べた瞬間、黒猫は間髪入れずにシエナの指に噛み付いたのだ。まるで魚の骨をしゃぶり尽くすように牙を剥かれ、シエナは男の振りをしていることも頭からすっぽ抜けてしまい、甲高い悲鳴を上げた。
「い、痛い痛い! 猫さん、離して!」
「フーッ!」
「どうして威嚇するの!」
シエナが悲痛な声を上げる中、騒ぎを察したアランがこちらへと道を引き返していた。
「一人で何を喚いているんだ」
「あ、アラン……さま、あっ」
アランがシエナに話しかけたと同時に、何事もなかったかのように颯爽と去っていく黒猫。懐いていると思っていた猫を可愛がろうとしたら、思いっ切り噛まれたなんて情けないにも程がある。
シエナは噛まれた手をさっと背中に隠そうとしたが、すぐに手首を掴まれてしまった。
「悪いが俺は回復魔法は一切使えない。薬を塗っておけ」
「あっ」
アランはポケットに忍ばせていた小さな瓶から塗り薬を人差し指に取り、うっすらと血の滲むシエナの指先に擦り込んだ。
「わっ、ありがとう。この薬もよく効くね」
「……そうだな」
清涼感に包まれた傷口が徐々に塞がっていく。
思えば、昔からくだらないことで怪我をしてばかりだったが、父も使用人も護衛だったアランもその度に薬を塗ってくれたものだ。
おそらく質のいい薬を常に用意してくれていたのだろう。シエナの傷は物心ついた頃から治りが異様に早かった。
「今日は式典がある。時間がないから直接大広間に行こう。怪我は大丈夫そうか」
「うん……じゃなくて、はい!」
はたまた敬語を忘れてしまったシエナに、アランの表情の険しさが増す。
「……喋り方が徹底するまでは、他人とあまり口は聞かないようにした方がいい。あとその食べ物、どうにかしてくれ」
「どうしよう。大広間行くまでに食べ終わるかな?」
「頼むからそれはやめてくれ。一度収納部屋に持っていくぞ」
「分かっ……あっ」
ふと突き刺さるような視線を感じ、シエナは周囲を見渡した。
廊下の中央に堂々と飾られた、芸術的な造形の花瓶。その後ろに隠れているつもりなのか、ブランディーヌお姉様とやらがじっとこちらを見つめて──いや、睨んでいた。顔が整っていることもあり、中々に迫力がある。
どうやら、今は取り巻きはいないらしい。
(何か気になることでもあるのかな)
シエナが遠慮がちに片手を振り動かすと、ブランディーヌは大袈裟に肩をびくっと震わせ、左右を確認していた。自分に向かって手を振られたと思っていないのだろうか。
「ねぇ、アラン。あの銀髪の……ってあれ?」
彼女が誰なのか尋ねようとしたが、シエナが振り返った時にはすぐ側にアランの姿はなかった。先を一人歩いていく彼の小さな後ろ姿が、遥か遠くに見える。
「お、置いていかないでください!」
迷宮のように広い学園内に置いてきぼりにされてしまったら、絶対に迷子になってしまう。
いつの間にか塞がっていた指先の傷のこともすっかり忘れ、シエナは一心不乱にアランを追いかけた。
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