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第1章
12話
しおりを挟むなにもかも吸い込んでしまいそうな美しい蒼穹の下、一人の少女が黒い髪を風に揺らしながら佇んでいた。
彼女の足元を支える䙧んだ灰色の地面のその先には、遥か遠く地上の世界が広がっている。一歩踏み出せば、そこへ落ちてしまうだろう。
『……つぎは、どうか』
雪のように白い頬を伝って、一粒の涙が地上へ吸い込まれていく。少女は睫毛をゆっくり伏せると、身体を傾けて、そのまま。
「──サクラっ!」
少女に手を伸ばすや否や、暗転する視界。張り裂けそうな声でもう一度叫ぶと、閃光弾が落とされたように光が目の前を散らばった。
眼痛が走るほどの眩しさに瞼を閉じて、再び視界を広げると──元いた礼拝堂の景色が広がっていた。
(……祈りを捧げたまま、気を失っていたのか?)
ヴィクトールは逸る動悸を抑えるように胸を撫で、古びた木椅子から重たい腰を上げる。周囲を見渡してもそこに人の姿はなく、背中から滲み出した汗が体温を奪っていった。
「……はぁ」
流れるようにこぼれていく深い溜め息。
ここ最近、寝不足な状態が続いていた。というより、眠りたくても眠れないのだ。サクラと一緒に寝台で横になると、次に目覚めたら彼女が消えてしまうのではないかと、どうしようもない不安が胸中をかき乱してしまう。
自分が倒れてしまえば、サクラを守れる者は誰一人としていなくなってしまうと言うのに。
こんな状態だから、あの日の夢を見てしまうのだ。
「……早くサクラの元に行かなければ」
衣嚢にしまっておいた小さな箱に指先で触れ、ヴィクトールは颯と礼拝堂の出口へと向かう。
今日はサクラと一緒に過ごす約束をしている。前々から彼女にどうしても渡したかった贈り物も、予め準備しておいた。
(……サクラは喜んでくれるだろうか)
この頃はサクラも笑顔を見せてくれるようになった。ヴィクトールにとって、彼女の笑顔は掛け替えのない癒し。唯一無二の宝物。サクラを失うということは、彼にとって。
「っ、うっ……」
開いた扉の隙間から、凍えるような冷たい風が吹き付ける。ヴィクトールは身を守るようにコートを着直し、曇天の空を見上げた。
先ほどまでは陽が出ていたのに、急に冷え込んだ。こんな寒さでサクラは体調を崩していないだろうか。頭の中はサクラのことばかりだ。
「……サク、ラ」
鎖骨に当たる冷たい感触。二年前から身に付けている首飾りを手に取り、ヴィクトールは顔をわずかに歪める。
隣国エクリーガと同盟を交わしてから、一時も離したことのない誓約魔法が込められた首飾り。今だけは解除魔法が掛けられているが、これを手放すということは、即ち国への裏切りを意味する。
この国はまだ発展途上だ。前王の政策失敗や数十年に一度の大飢饉が重なったこともあり、あらゆる面で枯渇している。他国の力なしではいずれ滅びゆく運命と言っても過言ではない。
サクラを守るためには、まず国を守らなければ。
(──私は、サクラを守りたい)
しかし、寂しい想いもさせたくない。この数年間、国のために尽くしてきた一方で、サクラには苦しい想いをさせた。惨たらしい元の世界に返してと訴えるほどに。
今はそばにいてやれているが、いつ解除魔法が解かれるかも分からない。
また元通りの生活に戻ったら、あんな辛い表情をさせるのか。
泣きながら別れてと口にするのか。
この世界でも、彼女を孤独に追いやってしまうのか。
(サクラ。お前のために、私はどうすれば……)
「──陛下っ!」
遠くから聞こえた叫び声に、ヴィクトールははっと我に返ったように顔を上げる。視線を持ち上げた先には、血相を変えて駆け寄ってくるサクラ付き添いの侍女リリーの姿があった。
「なんだ、騒々しいぞ。一体なに……」
「も、申し訳ございませんっ!」
ヴィクトールが問いかける前に、勢いよく頭を下げるリリー。突然の謝罪に呆然とするや否や、リリーは今にも泣きそうな表情でヴィクトールの顔を見つめた。
「中庭に戻ったら、サクラ様が、サクラ様が……!」
✿ ❀ ✿ ❀ ✿ ❀ ✿ ❀ ✿✿✿✿
城から外へ出るのは久し振りだった。城の正門から王都を抜け出してきたにも関わらず、門番達にも通りゆく人々にも、サクラの存在は誰にも気づかれなかった。
自分はこの世界にとって、もう必要がないという暗示なのかもしれない。
「……ヴィクトール」
果てしなく広がる青柳色の草原を歩きながら、夫の名前を消え入りそうな声で呼ぶ。
サクラは、ヴィクトール以外に愛せる人がいない。心の中に自ずと思い浮かぶのはヴィクトールだけ。
「……ヴィ……クトール……」
誰よりも愛する人。サクラにとって唯一無二の存在。でも彼にとって、サクラはそうでない。
ヴィクトールには他に愛する人がいる。幼きセドリックと、美しい妻と、そのお腹の子と。ヴィクトールが自分のそばに戻ってきてくれたから、彼の心も戻ってきたのかと思ってしまった。セドリックとも、家族になれるんじゃないかと愚かにも淡い希望を抱いてしまった。
「っ、あ……」
自然と奪われていく身体の力。足が縺れ、サクラの小さな身体は草原へと落ちていく。
苦しかった呼吸もなぜだか、楽に感じられてきたような気がする。反転した視界に映し出された世界は、光が満ちて美しく白く霞んでいく。
「あっ……」
ぼんやりと、かすかに人影が見える。
小さな子供の手をとって、二人の男女が仲睦まじく歩く姿。
その後ろ姿が、自分と愛する人の未来を描いた光景のような気がして。サクラは震える手をゆっくりと伸ばした。
「……あっ、ぅ……」
届かない。自分にはもう、触れることすら叶わない。
昔からの夢だった。築きたかった。自分も、家族との幸せな時間を過ごしてみたかった。
「……ヴィク……ト……」
遠ざかっていく親子の姿に、サクラは濁りのない透明な雫を瞳からこぼしていく。
涙でぼやけた視界では、もうなにも見ることができない。鉛のように重くなった足では、近付くことすらできない。
──そしてそのまま。
幸せな家族を映した瞳を、サクラは瞼の裏に覆い隠してしまった。
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