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第1章

11話

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 全身の血液が凍りつくような声に、サクラの息が止まった。幸せな温かさに満ちていたはずの肌がぶるりと震え、身体中の汗腺から冷や汗が滲み出す。

 忘れるはずもないあの声。
 忘れたくても、耳にこびりついて離れない悍ましい声。

「おーい。なんで後ろ向かないんだよ、サクラぁ」

 ケラケラと耳障りな嗤い声が脳天を突く。ヴィクトールが駆け付けてくれるまでの旅の間、この声に罵倒された。揶揄された。虐げられた。

「おい、後ろ向けよ。

「っ、やっ……!」

 後ろから乱暴に肩を掴まれ、サクラは短い悲鳴をあげる。ぐらりと傾いた視線のすぐ先には、頭の中に描いた人物と同じ男が不気味な笑顔を浮かべて佇んでいた。

「ははは。王妃になっても変わらねえなぁ。その気持ち悪い挙動不審っぷり」

 毒矢より鋭く放たれる鋭い視線。大きく開いた口から覗かせる尖りのある歯。陽射しが反射してギラギラと光輝く黄金の髪。小さなサクラの身体をものの数秒でひれ伏してしまいそうな体格のよい身体。

 そこにいたのは、数年前の旅で別れたきりの勇者グレンだった。

「あ……や、なん……で、ここ、に」 

 衛兵が周辺に待機していたはずなのに。
 どうして王族でもない彼がここにいるのだろう。

「なんで? なんでだと思う?」

 アメジストの双眸を向けたまま、グレンは歪に口角を吊り上げる。
 甦る恐怖の日々。この世界の人間とは異なる風貌を愚弄され、白い肌が真っ赤に腫れ上がるまで撲られた、思い出したくもない惨たらしい記憶。サクラはベンチから立ち上がり、すぐに悪魔グレンから逃れようとした。

「おおっと! 逃げるなって!」

 手首を引っ張られ、サクラは勢い余り地面へ倒れる。その隙を逃さず、グレンは軽い身のこなしでベンチを乗り越え、サクラの身体をひれ伏すような体勢をとった。

「やっ、いやっ!」

「おおっ? あの時より抵抗すんねぇ。王妃になって態度もでかくなったか?」

 四阿に響き渡る高らかな笑い声。グレンはサクラの髪を根本から掴むと、見せつけるように舌舐めずりをした。

「あーあ。髪も伸びてきてんじゃねぇか。

 目の前のサクラが自分より身分の高い王妃であろうと関係がない。この男にとっては、サクラはただの玩具でしかないのだ。暴言を吐こうと、暴力を振るおうとも、誰にも告げ口をしたりしない。ただの都合の良い道具だ。

 歯をカチカチと小さく鳴らして震えるサクラを見下ろしながら、グレンは彼女の耳元に唇を近付けた。

「……お前さぁ。大人しい振りして、本当に図々しいよなぁ」

「っ、え……」

「異世界の人間の癖に、王妃の地位を手に入れてよぉ。子供も産めねぇのにまだその地位に縋り付くってか?」

 淡々と吐き捨てられる言葉に、サクラは言葉を失う。
 銅像のように身体が硬直し、視線のすぐ先にいるグレンの顔が酷く歪んで見えた。

「ただのお荷物でしかねーのに、いつまでそこにいるつもりだよ。さっさと消えろよ、この国から」

「あ……あぁ……」

「そうだ。ついでに耳寄りな情報を教えてやろう」

 はっ、と息を吐き出し、グレンはサクラの頬を鷲掴みにする。
 禍々しい色を放つ淀んだ瞳が、虚ろなサクラの瞳を捉えて。獲物を仕留めた狼のように口元を大きく歪ませた。


「……陛下の側室のクリスチアーヌ殿下、もう二人目を妊娠したらしいぞ?」

「……え?」

 想像すらしなかった言葉に、サクラは目を大きく見開く。グレンがなにを言っているのか分からず、同じ言葉をぐるぐると脳内で繰り返した。

 側室。クリスチアーヌ。二人目、妊娠。
 この国の後継者となるセドリックを産んで、また妊娠──

「そ、んな、うそ……」

「嘘じゃねぇぞ。疑わしいって言うんなら、直接聞いて確かめてみな」

 お前にそんな度胸があるならな。そう一言付け足して、グレンはサクラから手を粗暴な動きで離した。

 妊娠。妊娠妊娠妊娠。自分は七年経っても子を孕む気配すらなかったと言うのに。クリスチアーヌはもう二人目の子供を。

 ヴィクトールはあの出来事をきっかけに、この数ヶ月間ずっとそばにいてくれた。片時も離れずにそばにいてくれた。
 でも、自分が知らないところで密かにクリスチアーヌに会っていたということだろうか。子を成すほど深く愛しあっていたということだろうか。夫は、二人目の子を産ませてあげたいと思うほどにクリスチアーヌのことを好いていたのだろうか。

 自分とは、ただの同情で一緒にいてくれただけなのだろうか。

「いやいや、めでたい話だよ。側室サマはどこかの誰かと違って優秀だなぁ。それとも身体の相性が抜群に良いのか? まぁともかく、これで心残りもなくなっただろう。さっさとこの国からおさらば……うおっ!?」

 気付いたら、サクラはグレンの身体を突き飛ばしていた。
 いつの間にか薄暗い雲が覆い始めていた空の下、無我夢中で走る。ヴィクトールのいる正殿へ向かうために。

 (ヴィクトール、ヴィクトール……!)

 はっはっ、と息を切らしながら地面を踏み、礼拝堂の前を通り過ぎようとしたそのとき。黄色の薔薇に囲まれた門扉から、白銀の髪の男が姿を現した。

「あっ……」

 そこにいたのは、自分が探し求めていた夫だった。
 サクラは泣きたい気持ちを必死に堪えながら、震える足で彼のそばに駆け寄ろうとした。

「ヴィク……」

 淡い紅色の唇から紡がれた声が、ふと途切れる。

 視線の先にいる夫は、普段から肌身離さず身に付けていた胸元のを大事そうに手に取って。切なげに瞳を細めながらそれを額に宛がって。なにかに対して懺悔するように独り言を呟いている。

 サクラにはそれが──クリスチアーヌの名を呼んでいるように見えてしまった。

「……ヴィ……ク……ト……」

 サクラの声は風に溶けて消えていく。 

 すぐそこに愛する人はいるのに、涙で視界が霞んで見えなくなっていく。自分の手は、ヴィクトールには届かない。

 脳裏にじわじわと掠んだのは、ヴィクトールとクリスチアーヌ達が仲睦まじく過ごしていた記憶。幼き頃から恋い焦がれていた愛情あふれた家族のかたち。
 
 なにを。なにを自惚れていたのだろう。
 誰よりも愛されてるだなんて、どうして思ってしまったのだろう。

 自然と足が元来た道へと向く。サクラは溢れだす感情を隠すように両手で顔を覆い、外の世界へと繋がる城門に向けて走り出した。


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