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第3章
25話
しおりを挟むサクラの泣き声だけが反響していた地下牢に、懐かしい声が降りそそぐ。脆弱さを感じられる力ながらも、あの頃と変わらない髪の触れ方。温もりと優しさが伝わる指先。
吃逆を繰り返していたサクラの背中に、じゃらりと鎖を引き摺る音を立てて腕が回った。
「サク、ラ」
再び耳に落とされる低い声。
一度涙が途絶えたはずの瞳がじわりと潤み、サクラは愛しい声を辿るように顔を上げる。
──そこには。先ほどまで虚ろな目を向けていたはずのヴィクトールの顔があった。
光を宿した翡翠の瞳に、涙を滲ませるサクラの姿が映し出されている。薄い唇が、掠れた声で何度もサクラの名を呼ぶ。
途端に、堰を切ったようにサクラは涙を流し、なにかを尋ねようとしたヴィクトールの唇を性急に塞いだ。
「ヴィクトール、わっ、わた、し、ごめんなさ、いっ、わたしっ、わた、し」
「サクラ……」
唇を触れ合わせたまま、サクラは赤ん坊のように泣きじゃくる。
誰よりも愛していた人の温もり。どうして彼のことを忘れてしまったのかと、自責の念が込み上げる。もう決して忘れたりしない。二度と離れない。元の世界に帰りたいなんて──
「サクラ。離れろ」
低く諭すような声と共に、唇から温もりが消える。気付けば身体を引き剥がすように肩を掴まれていて。微睡んでいたようなヴィクトールの表情は嶮しいものへと変わっていた。
「ヴィクト……ル……?」
「なぜ城に戻ってきた。元の世界に態々帰してやったのは誰だと思っている。お前の居場所はここにはもうない。今すぐに帰れ」
「ヴィクト……」
指先に触れようとしたサクラの手は、無様に払われる。訳が分からずサクラはただただヴィクトールを見つめたものの、かつて夫婦として愛し合っていた夫は視線すら合わせようとしない。
どうしてサクラに対して拒否の意を示そうとするのか。サクラがヴィクトールのことを忘れていた間に、嫌われてしまったのだろうか。唇へと伝い落ちた涙がやたらと塩辛く感じられた。
そんなサクラに気付いていないのか、それとも気付かない振りをしているのか。ヴィクトールの双眸はすぐそばで二人を見守っていたリリーに向けられた。
「リリー。悪いが今すぐにサクラを元の世界に帰してやってくれ。西の森の神殿なら神官も滞在しているだろう。ここから離れた場所にはなるが、一刻も早く連れていってやってほしい」
「し、しかし、陛下」
「頼む。なるべく急いで──」
ヴィクトールが焦りに満ちた表情でリリーを説こうとしたそのとき、屈んでいた三人をぬっと大きな影が覆い尽くした。
凍てつく風が吹いたような寒さに見舞われ、サクラ達の身体が戦慄する。影の正体を見てもいないのに、身体の震えが止まらなくなる。
足音も聞こえなければ、気配すら感じられず。
この男はいつもそうだ。音もなく忍び寄り、邪悪に染まった手であらゆるものを壊そうとする。
「久し振りの再会なのにそんな冷たい態度取られたら傷付くよな? な、サークラ」
乾いた笑いを含ませた悪意に満ちた声。
どんなに時を隔てても、忘れるはずがない。
この世界で世界を救う旅の道中で甚振られた記憶が脳を犯し、元の世界で父親に虐げられた記憶が甦り。心と身体に刻まれた恐怖に蝕まれ、サクラはその場から動けなくなってしまった。
先にその正体を目にしたヴィクトールは、直ぐ様サクラを自分の腕の中に引き寄せようとしたが、時すでに遅く。
「っ、やっ……!」
華奢なサクラの身体は宙に浮かび、鎖に繋がれたヴィクトールから引き離される。無理やり顔を上げさせられた彼女の視界に、表情筋を歪ませて嗤う男の顔が映った。
──五年振りに目にする勇者グレンの姿が。
「戻ってくるって信じてたぜ、サクラぁ」
腕の中で怯えるサクラを視界に捉え、グレンは尖った八重歯を覗かせて嗤う。ただでさえ近くにあったグレンの顔の距離がぐっと詰められ、サクラは窄んだ喉に潜ませていた悲鳴を解き放った。
「やめてっ!」
パチンッ、と肌が鞭で打ち付けられたような音が鳴り響く。
片頬を赤く染めたグレンは、一瞬だけ吊り目を大きく見開いた──が、顔の前で片手を構えるサクラを前に、すぐに不気味な笑顔を取り戻した。
「おおおっ! いいねぇいいねぇ! なにをしても文句の言わなかったお前が! この俺を殴った!」
グレンは踵を返し、サクラを抱えたまま軽い足取りで檻を飛び出す。どうにか悪魔の手から逃れようとサクラは手足を必死に動かそうとするも、グレンはそれをものともしない。
聖女としての力を失った軟弱な少女の抵抗が、鍛え上げた軍人に通用するはずもなかった。
「サクラ……っ!」
今にも拐われようとしているサクラを救おうと、ヴィクトールは噛み付きかねない剣幕でグレンに飛び掛かった。
──が、首と手足を頑丈な鎖で縛られた身体では、触れることすら叶わない。
「グレン! サクラを離せ! さもなくばお前を殺す!」
「魔法を使った対価で死にかけたあんたに俺が殺せるはずがないでしょう? 一度自分から手を離したんだから、俺が貰っていきまーす」
「ぐっ……!」
ガシャンガシャンと、鎖が何度も強く引かれる。鎖が食い込んだヴィクトールの肌は赤く腫れ上がり、うっすらと血が滲み始めていた。
「ははは。惨めな国王サマ。さよーなら」
王位も大切な者も奪われ、なにもかも失った哀れな男。狂い果てた獣のように暴れ回るヴィクトールを愚弄し、グレンは颯爽とその場を後にする。
地上へと続く階段を上るにつれて遠ざかっていくヴィクトールの声。サクラの助けを求める声は、グレンの不愉快な高笑いによってかき消されていった。
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