15 / 19
15話
しおりを挟む雪のように真っ白な肌から噴き出す血潮。
尖った牙はずぶずぶと胸に刺さり、ハルの身体を覆う花嫁衣装が血に染まっていく。
一瞬、リオンが何をしているのか分からなかった。ハルをただ捕らえようとしていると言うには、明らかに常軌を逸している。表情も変えずに骨を砕くような音を立てて、肉を嚼むその様は、まるで。
「やめろ! 殺したらすべてが無になる!」
背後から聞こえたローベルトの悲鳴に近い叫び声。銃で抑えつけられた首元が緩まった隙に、後ろ足で邪魔者の身体を蹴飛ばし、ハルの元まで走った。
「ハルに触んな!」
ハルに跨ったままのリオンを突き飛ばす。抵抗の一つでもされると思ったが、リオンは死んだような顔で地面にのさばったままだった。
「ハル! ハ……」
すぐにハルを抱き上げたものの、腕をどろりと伝う深紅に染まった血で腸が冷えた。肩を撃たれたことも忘れ、うつらうつらと瞼を閉じかけるハルに何度も呼び掛ける。
「ハル! しっかりしろ!」
「……っ、あ、ぁ……」
どんなに必死に名前を呼んでも、ハルは苦しそうに呻き声を上げるだけ。白い肌を染める赤い血に隠れた紋章が、わずかに歪んで見えたような気がした。
「ハ……」
『死ねば呪いは完全に消えるぞ』
緊迫した空気の中、リオンに似た声が真後ろから聞こえた。今にも意識を手放そうとしているハルを抱き寄せ、身を翻しながら踵を返す。
視線を上げた先には、いつの間にか人型に戻ったリオンが立っていた。瞳の色は淀み、かすかに開いた口からは黒い息が漏れている。見たままの姿はリオンだが、俺の知っているリオンじゃない。リオンの形をした何かだ。
『残された選択肢はその子をそのまま死なせるか、必要な対価を払うか』
「は……」
『犠牲を払うことになるのはお前だ。選べ、青年』
リオンの背後に狼獣人のような影が見えた──が、立ち込めた黒い煙に視界を覆われてしまった。リオンどころか腕の中にいるハルですら、姿をはっきりと捉えることができない。たった一つの温もりを失わないようにとハルをより一層強い力で抱き寄せた。
『失いたくないのか』
煩わしい声がまだ聞こえる。
気のせいか、しっかりと抱き締めているはずのハルの身体がふわふわと浮かんでいて。一瞬でも力を緩めれば、連れて行かれてしまう。そんな恐怖に襲われた。
『失いたくないなら、相応の犠牲を覚悟できるか』
「……っ」
『お前のすべてを捧げられるか、問うておる』
「……る、せ……」
『……お前に……いせ、つな、娘を守れる……』
「うるせぇんだよ!」
耳に纏わりつく声を振り払うように、大声で叫ぶ。ただただ必死だった。誰かも知らない人間に意味が分からないことを聞かれ、まともに答えられるわけがない。
はいそうです、守れますなんて安易に言えるわけねーだろ。
初めて、初めて自分以外のために尽くそうと思えたんだよ。簡単に言葉にしたら、全部消えてしまいそうで、怖くて堪らない。
「……ハルを、連れて行かないでください」
こんな時ですら、いや、こんな時だからこそ果敢ない言葉しか出なかった。
ハルがいなくなったら、俺は一人だ。
ハルに置いていかれて、一人生きることが怖い。
自分が死ぬことよりも遥かに恐ろしい。
『……憐れ。孤独な黒豹め』
長い時を経て、ほんの少しだけ柔らかくなった声が降りそそぐ。音色につられるようにハルの首元に埋めていた顔を上げると、そこには一匹の狼獣人がいた。
あのとき、幻影のような光景の中で目にした半獣の娘の母親と同じ姿だ。銃に撃たれ、腐ちていったあの──
『……本来、番とは同じ種族同士を結び付けるもの。死以外に忌々しい契約を解く方法は存在しないが、対象を変えることならば可能だ』
「……は?」
『スザク。お前を呪ってやろう。ハルの番となる呪いを』
狼獣人の爪の尖った手がゆっくりと伸びる。
はっ、と息を吸い込んだのと同時に、長い指が抵抗なく胸元に押し込まれた。全身が強張るような痺れに見舞われ、血が糸を引くように流れていく。
真紅の糸はそのままハルの傷口へと結ばれ、見覚えのある証を刻み。ハルの胸元から溢れた赤い糸は俺の首元を纏い、焼け付くような痛みを落として一つの形となっていく。
ローベルトとハルの身体に刻まれた紋章よりも、濃く、深く、はっきりと目に残るように。
「は……ハ、ル……」
金属の糸で心臓を締め付けられたような痛みに耐えながら、腕の中のハルの顔を覗き込む。最初こそ苦しそうな顔をしていたハルだったが、呼吸はすでに落ち着いていた。リオンに噛まれた傷口も綺麗に消えている。
あるのは、新たに刻まれた番の証だけだった。
『……望月の夜までに番の契りを結べ。さもなくば印紋を移された番は呪いに蝕まれ、命を落とす。……だが最後はハルに選ばせろ』
狼獣人はそう呟き、ハルに一目向ける。穏やかな呼吸を繰り返す彼女の髪を丁寧に撫で、黄金色に煌めく睫毛を伏せる。厳かに感じられた表情からは一変、どこか穏やかで哀しそうな顔をして、睫毛を伝って色のない雫をこぼした。
──ハルは気がつかず、眠ったままだ。
「おい。あの、でかい化け物は」
『……彷徨っていただけだ。もう現れることはない』
どこかの誰かのせいでな、と狼獣人は浅く息を吐く。聞こえるか聞こえないか分からない程度で漏れたその声に反応するように、ハルの目蓋が些か開きかけたが、狼獣人の姿が塵となって消えた方が先だった。
「……んっ」
傷口も古い紋章もすっかり胸元から消えたハル。跡を確かめるように鎖骨を撫で、頬へ手を滑らすと、透明な雫が親指の付け根を伝い落ちた。
「すざ、く……?」
濡れた瞳を覗かせたハルが、上擦った声で尋ねる。
「んだよ」
「……泣いてるの?」
「泣いてねぇよ」
泣いているのはお前だろうが。
心の中でそう言葉を返し、涙を流し続ける窶れたハルの頬を片手で覆う。再び何かを問いかけようとした淡紅色の口を塞ぐように、ハルの下唇に甘く噛みついた。
ハルもそれに応えるように、長い睫毛を伏せる。
重なった頬を伝う雫が、温かい。
血の糸で紋章を結ばれた首元が、ずぐりと蠢くように震えた。
1
あなたにおすすめの小説
冷酷騎士様の「愛さない」は一分も持たなかった件
水月
恋愛
「君を愛するつもりはない」
結婚初夜、帝国最強の冷酷騎士ヴォルフラム・ツヴァルト公爵はそう言い放った。
出来損ないと蔑まれ、姉の代わりの生贄として政略結婚に差し出されたリーリア・ミラベルにとって、それはむしろ救いだった。
愛を期待されないのなら、失望させることもない。
契約妻として静かに役目を果たそうとしたリーリアは、緩んだ軍服のボタンを自らの銀髪と微弱な強化魔法で直す。
ただ「役に立ちたい」という一心だった。
――その瞬間。
冷酷騎士の情緒が崩壊した。
「君は、自分の価値を分かっていない」
開始一分で愛さない宣言は撤回。
無自覚に自己評価が低い妻に、激重独占欲を発症した最強騎士が爆誕する。
以後、
寝室は強制統合
常時抱っこ移動
一秒ごとに更新される溺愛
妻を傷つける者には容赦なし宣言
甘さ過多、独占欲過剰、愛情暴走中。
さらにはリーリアを取り戻そうとする実家の横槍まで入り――?
自己評価ゼロの健気令嬢と愛が一分も我慢できなかった最強騎士。
溺愛が止まらない、契約結婚から始まる甘すぎる逆転ラブコメ
【完結】仰る通り、貴方の子ではありません
ユユ
恋愛
辛い悪阻と難産を経て産まれたのは
私に似た待望の男児だった。
なのに認められず、
不貞の濡れ衣を着せられ、
追い出されてしまった。
実家からも勘当され
息子と2人で生きていくことにした。
* 作り話です
* 暇つぶしにどうぞ
* 4万文字未満
* 完結保証付き
* 少し大人表現あり
夫と息子に邪険にされたので王太子妃の座を譲ります~死に戻ってから溺愛されても今更遅い
青の雀
恋愛
夫婦喧嘩の末に置き去りにされた妻は、旦那が若い愛人とイチャついている間に盗賊に襲われ、命を落とした。
神様の温情により、10日間だけこの世に戻った妻と護衛の騎士は、その10日間の間に心残りを処分する。それは、娘の行く末と……もし、来世があるならば、今度は政略といえども夫以外の人の妻になるということ。
もう二度と夫と出会いたくない彼女は、彼女を蔑ろにしてきた息子とも縁を切ることを決意する。
生まれかわった妻は、新しい人生を強く生きることを決意。
過去世と同じ轍を踏みたくない……
冷たい王妃の生活
柴田はつみ
恋愛
大国セイラン王国と公爵領ファルネーゼ家の同盟のため、21歳の令嬢リディアは冷徹と噂される若き国王アレクシスと政略結婚する。
三年間、王妃として宮廷に仕えるも、愛されている実感は一度もなかった。
王の傍らには、いつも美貌の女魔導師ミレーネの姿があり、宮廷中では「王の愛妾」と囁かれていた。
孤独と誤解に耐え切れなくなったリディアは、ついに離縁を願い出る。
「わかった」――王は一言だけ告げ、三年の婚姻生活はあっけなく幕を閉じた。
自由の身となったリディアは、旅先で騎士や魔導師と交流し、少しずつ自分の世界を広げていくが、心の奥底で忘れられないのは初恋の相手であるアレクシス。
やがて王都で再会した二人は、宮廷の陰謀と誤解に再び翻弄される。
嫉妬、すれ違い、噂――三年越しの愛は果たして誓いとなるのか。
冷徹団長の「ここにいろ」は、騎士団公認の“抱きしめ命令”です
星乃和花
恋愛
⭐︎完結済ー全16話+後日談5話⭐︎
王都最硬派、規律と責任の塊――騎士団長ヴァルド・アークライトは、夜の見回り中に路地で“落とし物”を拾った。
……いや、拾ったのは魔物の卵ではなく、道端で寝ていた少女だった。しかも目覚めた彼女は満面の笑みで「落とし物です!拾ってくださってありがとうございます!」と言い張り、団長の屋敷を“保護施設”だと勘違いして、掃除・料理・当番表作りに騎士の悩み相談まで勝手に開始。
追い出せば泣く、士気は落ちる、そして何より――ヴァルド自身の休息が、彼女の存在に依存し始めていく。
無表情のまま「危ないから、ここにいろ」と命令し続ける団長に、周囲はざわつく。「それ、溺愛ですよ」
騎士団内ではついに“団長語翻訳係”まで誕生し、命令が全部“愛の保護”に変換されていく甘々溺愛コメディ!
愛されないと吹っ切れたら騎士の旦那様が豹変しました
蜂蜜あやね
恋愛
隣国オデッセアから嫁いできたマリーは次期公爵レオンの妻となる。初夜は真っ暗闇の中で。
そしてその初夜以降レオンはマリーを1年半もの長い間抱くこともしなかった。
どんなに求めても無視され続ける日々についにマリーの糸はプツリと切れる。
離縁するならレオンの方から、私の方からは離縁は絶対にしない。負けたくない!
夫を諦めて吹っ切れた妻と妻のもう一つの姿に惹かれていく夫の遠回り恋愛(結婚)ストーリー
※本作には、性的行為やそれに準ずる描写、ならびに一部に性加害的・非合意的と受け取れる表現が含まれます。苦手な方はご注意ください。
※ムーンライトノベルズでも投稿している同一作品です。
村娘あがりの娼婦ですが、身請けされて幸せです
春月もも
恋愛
村を飛び出して王都に来たリリアは、いまは高級娼婦として生きている。
ここは通過点のはずだった。
誰かに選ばれて終わる物語なんて、わたしには関係ないと思っていたのに。
触れない客。
身体ではなく、わたしの話を聞きに来るだけの商人。
「君と話す時間を、金で買うのが嫌になった」
突然の身請け話。
値札のついた自分と向き合う三日間。
選ばれるのではなく選ぶと決めたとき、
通過点は終わりになる。
これは救いではなく対等な恋の話。
【完結】番(つがい)でした ~美しき竜人の王様の元を去った番の私が、再び彼に囚われるまでのお話~
tea
恋愛
かつて私を妻として番として乞い願ってくれたのは、宝石の様に美しい青い目をし冒険者に扮した、美しき竜人の王様でした。
番に選ばれたものの、一度は辛くて彼の元を去ったレーアが、番であるエーヴェルトラーシュと再び結ばれるまでのお話です。
ヒーローは普段穏やかですが、スイッチ入るとややドS。
そして安定のヤンデレさん☆
ちょっぴり切ない、でもちょっとした剣と魔法の冒険ありの(私とヒロイン的には)ハッピーエンド(執着心むき出しのヒーローに囚われてしまったので、見ようによってはメリバ?)のお話です。
別サイトに公開済の小説を編集し直して掲載しています。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる