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15話
しおりを挟む雪のように真っ白な肌から噴き出す血潮。
尖った牙はずぶずぶと胸に刺さり、ハルの身体を覆う花嫁衣装が血に染まっていく。
一瞬、リオンが何をしているのか分からなかった。ハルをただ捕らえようとしていると言うには、明らかに常軌を逸している。表情も変えずに骨を砕くような音を立てて、肉を嚼むその様は、まるで。
「やめろ! 殺したらすべてが無になる!」
背後から聞こえたローベルトの悲鳴に近い叫び声。銃で抑えつけられた首元が緩まった隙に、後ろ足で邪魔者の身体を蹴飛ばし、ハルの元まで走った。
「ハルに触んな!」
ハルに跨ったままのリオンを突き飛ばす。抵抗の一つでもされると思ったが、リオンは死んだような顔で地面にのさばったままだった。
「ハル! ハ……」
すぐにハルを抱き上げたものの、腕をどろりと伝う深紅に染まった血で腸が冷えた。肩を撃たれたことも忘れ、うつらうつらと瞼を閉じかけるハルに何度も呼び掛ける。
「ハル! しっかりしろ!」
「……っ、あ、ぁ……」
どんなに必死に名前を呼んでも、ハルは苦しそうに呻き声を上げるだけ。白い肌を染める赤い血に隠れた紋章が、わずかに歪んで見えたような気がした。
「ハ……」
『死ねば呪いは完全に消えるぞ』
緊迫した空気の中、リオンに似た声が真後ろから聞こえた。今にも意識を手放そうとしているハルを抱き寄せ、身を翻しながら踵を返す。
視線を上げた先には、いつの間にか人型に戻ったリオンが立っていた。瞳の色は淀み、かすかに開いた口からは黒い息が漏れている。見たままの姿はリオンだが、俺の知っているリオンじゃない。リオンの形をした何かだ。
『残された選択肢はその子をそのまま死なせるか、必要な対価を払うか』
「は……」
『犠牲を払うことになるのはお前だ。選べ、青年』
リオンの背後に狼獣人のような影が見えた──が、立ち込めた黒い煙に視界を覆われてしまった。リオンどころか腕の中にいるハルですら、姿をはっきりと捉えることができない。たった一つの温もりを失わないようにとハルをより一層強い力で抱き寄せた。
『失いたくないのか』
煩わしい声がまだ聞こえる。
気のせいか、しっかりと抱き締めているはずのハルの身体がふわふわと浮かんでいて。一瞬でも力を緩めれば、連れて行かれてしまう。そんな恐怖に襲われた。
『失いたくないなら、相応の犠牲を覚悟できるか』
「……っ」
『お前のすべてを捧げられるか、問うておる』
「……る、せ……」
『……お前に……いせ、つな、娘を守れる……』
「うるせぇんだよ!」
耳に纏わりつく声を振り払うように、大声で叫ぶ。ただただ必死だった。誰かも知らない人間に意味が分からないことを聞かれ、まともに答えられるわけがない。
はいそうです、守れますなんて安易に言えるわけねーだろ。
初めて、初めて自分以外のために尽くそうと思えたんだよ。簡単に言葉にしたら、全部消えてしまいそうで、怖くて堪らない。
「……ハルを、連れて行かないでください」
こんな時ですら、いや、こんな時だからこそ果敢ない言葉しか出なかった。
ハルがいなくなったら、俺は一人だ。
ハルに置いていかれて、一人生きることが怖い。
自分が死ぬことよりも遥かに恐ろしい。
『……憐れ。孤独な黒豹め』
長い時を経て、ほんの少しだけ柔らかくなった声が降りそそぐ。音色につられるようにハルの首元に埋めていた顔を上げると、そこには一匹の狼獣人がいた。
あのとき、幻影のような光景の中で目にした半獣の娘の母親と同じ姿だ。銃に撃たれ、腐ちていったあの──
『……本来、番とは同じ種族同士を結び付けるもの。死以外に忌々しい契約を解く方法は存在しないが、対象を変えることならば可能だ』
「……は?」
『スザク。お前を呪ってやろう。ハルの番となる呪いを』
狼獣人の爪の尖った手がゆっくりと伸びる。
はっ、と息を吸い込んだのと同時に、長い指が抵抗なく胸元に押し込まれた。全身が強張るような痺れに見舞われ、血が糸を引くように流れていく。
真紅の糸はそのままハルの傷口へと結ばれ、見覚えのある証を刻み。ハルの胸元から溢れた赤い糸は俺の首元を纏い、焼け付くような痛みを落として一つの形となっていく。
ローベルトとハルの身体に刻まれた紋章よりも、濃く、深く、はっきりと目に残るように。
「は……ハ、ル……」
金属の糸で心臓を締め付けられたような痛みに耐えながら、腕の中のハルの顔を覗き込む。最初こそ苦しそうな顔をしていたハルだったが、呼吸はすでに落ち着いていた。リオンに噛まれた傷口も綺麗に消えている。
あるのは、新たに刻まれた番の証だけだった。
『……望月の夜までに番の契りを結べ。さもなくば印紋を移された番は呪いに蝕まれ、命を落とす。……だが最後はハルに選ばせろ』
狼獣人はそう呟き、ハルに一目向ける。穏やかな呼吸を繰り返す彼女の髪を丁寧に撫で、黄金色に煌めく睫毛を伏せる。厳かに感じられた表情からは一変、どこか穏やかで哀しそうな顔をして、睫毛を伝って色のない雫をこぼした。
──ハルは気がつかず、眠ったままだ。
「おい。あの、でかい化け物は」
『……彷徨っていただけだ。もう現れることはない』
どこかの誰かのせいでな、と狼獣人は浅く息を吐く。聞こえるか聞こえないか分からない程度で漏れたその声に反応するように、ハルの目蓋が些か開きかけたが、狼獣人の姿が塵となって消えた方が先だった。
「……んっ」
傷口も古い紋章もすっかり胸元から消えたハル。跡を確かめるように鎖骨を撫で、頬へ手を滑らすと、透明な雫が親指の付け根を伝い落ちた。
「すざ、く……?」
濡れた瞳を覗かせたハルが、上擦った声で尋ねる。
「んだよ」
「……泣いてるの?」
「泣いてねぇよ」
泣いているのはお前だろうが。
心の中でそう言葉を返し、涙を流し続ける窶れたハルの頬を片手で覆う。再び何かを問いかけようとした淡紅色の口を塞ぐように、ハルの下唇に甘く噛みついた。
ハルもそれに応えるように、長い睫毛を伏せる。
重なった頬を伝う雫が、温かい。
血の糸で紋章を結ばれた首元が、ずぐりと蠢くように震えた。
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