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第2章 テオ
6話
しおりを挟む「ん……っ……」
二つの吐息が混じり合ったところで、クリスタの愛らしい唇から漏れ出した小さな唸り声。テオは我に返ったように動きを止め、眉をぎゅっと顰める彼女を見つめた。
「……んんっ、ぅ……」
クリスタはもぞもぞと身体を動かし、どこか居心地が悪そうにしている。絹のように滑らかなレース生地から覗かせた彼女の腕は、かすかに震えていた。
季節はまだ冬。外の重い冷気が室内にまで染み渡り、吐息も白く濁るほどだ。
(……なにをしているんだ。俺は)
今になってクリスタに触れようとした自分の愚かさを呪いながら、華奢な身体を両腕に抱き上げる。その拍子にクリスタの背中から落ちかけた手編みのストールを彼女の腹部にそっと被せ、寝室へ向かった。階段を上る途中、侍女の一人が慌てて役目を代わると駆け寄ってきたが、テオは首を横に振って拒む。
今は一秒でも長くクリスタと過ごしたい。
彼女が夢の中にいる間だけでも、どうか。
「……まだ眠っていてくれ。クリスタ」
願いを込めて、独り言のようにささやく。どうかクリスタを起こさないようにと、物音を立てないように扉を開き、寝室へと踏み入った。
──夫婦となったのに、一度も二人で過ごすことがなかった場所。
本当なら、毎晩添い寝をしてやりたかった。
クリスタが夢の世界に誘われるまで、彼女の髪を撫でて、頬にキスをして、きつく抱き締めて。ずっと、側にいてやりたかった。
「……きっと次はお前のことをもっと深く愛してくれる男が現れるはずだ。こんな酷い男じゃない優しい男が」
すぅすぅと小さな寝息を繰り返すクリスタをぎゅっと擁き、繊細なものを扱うように寝台へゆっくりと下ろす。
寒さのせいか、一瞬だけ身体をぶるりと震わせるクリスタ。子犬のように縮こまる妻に毛布をかけ、再び穏やかに昏々と眠り始めた彼女をじっと見つめた。
実を言えば、彼女の寝顔を見るのは初めてではない。
仕事がなかった日の夜は、クリスタが寝ついたあとにこっそりとテオはその様子を窺いに来ていた。子供のようにあどけない表情で眠る愛しい妻に癒され、同時に心を締めつけられて。近いうちに彼女の寝顔も眺めることが叶わなくなってしまうのだと、時には感極まって涙を流してしまうこともあった。
──そして。クリスタの寝顔を見られるのもとうとう今夜で最後になる。
明日の早朝、テオは戦地へと向かうために屋敷を発たなければならない。
これはテオがクリスタへの気持ちを自覚する前から決まっていることだった。
数年前、隣国との戦争が再び始まって間もなかった頃。早急に開かれた軍事会議で、テオは自ら戦地へ向かうことを志願した。
亡き父の仇を取るために、無念を晴らすために、身命を賭して戦うと。脳裏に焼きついた母との約束に促されるように仲間達の前で宣誓した。
皆が喜んだ。
殉職した少佐の子息が、国のために戦ってくれると。
クリスタの父も、友人も、母も歓喜の涙を流した。
──たった一人、アメリアを除いては。
『死ぬかもしれない場所に自ら行くだなんて、馬鹿なんじゃないの?』
あの件が発覚してから久し振りに城の晩餐会でアメリアと再会したとき、テオは開口一番に彼女にそう告げられた。
今まで誰にも話せなかったクリスタへの想いを彼女に打ち明けたときには、更に呆れたように嗤われた。大切な人がいるのに戦争に行くところまで父親そっくりだと、テオの黒い髪に触れながら悲しそうに微笑んだ。
本当はクリスタ本人に気持ちを伝えたい。その想いで山々だったが、もし戦争で自分が命を落としてしまったら、クリスタに計り知れない悲しみを与えてしまう。彼女を孤独にしてしまう。
そうなるくらいだったら、最初から突き放すほうが良い。優しさも愛情も見せては駄目だ。クリスタには、他の男と幸せになる道を選んでほしい。
そう決めていた矢先に現れたのが、クリスタの父親だった。
かつて軍の最高位に立っていたクリスタの父親は、膝を地についてテオに深く頭を下げた。『どうか戦地に行くまでの数ヵ月だけ、クリスタと夫婦になってほしい』と信じられないことを口にしたのだ。
鈍器で頭を殴られたかのような衝撃に襲われた。彼はテオにとっての元上司であり、亡き父の親友でもあったが、思わず『馬鹿なんじゃないのか』と暴言を吐き出した。
戦地に行くと分かっている男を、実の娘と結婚させるだなんて正気の沙汰じゃない。娘がテオを好いていると分かっているのなら尚更だろう。テオは頑なに結婚を拒んだが、クリスタの父親は『後々のことは考えてある。娘のためを思ってどうか』と言って聞かなかった。
テオの母親からも周囲からも、テイラー家とは関係を持っておくべきだと圧を掛けられて。結局、テオとクリスタの結婚はあっという間に決まってしまった。
クリスタに後で辛い思いをさせないようにと、婚約してからは彼女に冷たく接してきたが、その想いとは裏腹にテオの心に秘めた愛情は益々膨れ上がっていくばかり。
この世の誰よりも美しいクリスタの花嫁姿を目にしたとき、こぼれ落ちそうになった「綺麗だ」という言葉を喉元で抑え込むのにどれだけ必死だったことか。
式の最中に涙を流しながら身体を震わせる彼女に、心から愛していると、どれほど言ってやりたかったことか。
冷えきった新婚生活の中で、居間の片隅で一人寂しそうにしている彼女をどれだけきつく抱き締めてやりたかったことか。
しかし、どんなに愛していたとしても。
クリスタに永遠の愛を約束することはできない。
彼女に永遠の愛は誓えない。
「……ごめん。愛している、クリスタ」
今まで一度も言えなかった愛の言葉。
消え入りそうな声で紡いだ囁きは、誰に聞かれることもなく。テオは人形のように美しい寝顔を見せるクリスタの髪を指先で梳かし、彼女の透き通るような白い手へと自らの手を伸ばした。
彼女の薬指に嵌められているのは、夫婦であることを象徴するシルバーリング。この指輪の役目も終わりを迎える。
「さようならだ、クリスタ」
涙の滲む声を呑み込み、テオが指輪を抜き取ろうとしたそのとき──それまで瞼の裏に覆い隠されていたクリスタの黄金の瞳がゆっくりと露になった。
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