浮気で「初夜の練習」に励む婚約者を、「傑作だ!」とヤンデレ王子が物理的に処理してくれた。なお空いた席は、彼が埋めるそうです。

花宵

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後編

 その後、マティスとあの女子生徒の姿を見た者は誰もいない。

 不思議なことに、それまで学園で頻発していた『仲睦まじい恋人たちが忽然と消える』という七不思議の噂は、あの日を境にぱったりと止んだ。

 その代わり、夜な夜な教室から『助けてくれ』という男の悲鳴と、何かをゆっくりと咀嚼する音が聞こえる……なんて新しい怪談が生まれたけれど、今の私にはどうでもいいことだ。

 あの騒動から、一ヶ月。
 放課後の生徒会室は、穏やかな夕暮れに包まれていた。

​「……ふぅ。これでようやく、完全に『悪い虫』を駆除しきれたよ」

​ 殿下は手元の書類の末尾にさらりとサインを書き入れると、ペンを置いて、深く椅子の背もたれに体を預けた。

​ まるで、一ヶ月にも及ぶ長い長いに勝利したかのような、深く重い安堵のため息が部屋に落ちる。

​ 執務机の上に投げ出された殿下の手は、白くなるほど強く握りしめられ、小刻みに震えていた。

​「お疲れ様です、殿下。……では、こちらの名簿も処理してしまってよろしいですか?」

​ 私は殿下がサインした報告書の束を回収し、添付されていた『要注意生徒リスト』に目を落とした。
 そこには数名の名前が並んでいたけれど――ある一名の生徒の名を見て、胸がざわめく。

​​「殿下、この生徒……誰でしたっけ? 『マティス』だなんて、うちの学園に在籍していましたか?」

​ 字面は読める。けれど、彼がどんな生徒だったのか――思い出そうとすると、頭の中に白い霧がかかったように認識が滑り落ちていく。

 まるで最初から、そんな人間なんていなかったかのように。

​「……あまり学園に来れてなかった生徒だ。覚えてなくても仕方ないよ」

​ 私の問いかけに、殿下はどこか寂しそうに目を伏せた。

​「それに彼は、一ヶ月前に退学した。これは事務の記載ミスだね」
「そうですか。ではこちらで修正しておきますね」

 私はそのマティスという名前に、二重線を引いた。
 ​黒いインクがその名前を塗りつぶし、書類の上から彼という存在を消し去っていく。

​ ――その瞬間だった。

​ ヒュウ、と。
 胸の奥にぽっかりと空いた巨大な空洞に、風が吹き抜けた気がした。
 白い霧の向こう側。何か、とても大切なものが、そこにあったような……。

​「あ……れ……?」

​ 気がつけば、インクの乾いていない書類の上に、ポツリと雫が落ちていた。
 悲しくない。寂しくもない。
 なのに、勝手に熱いものが込み上げてきて、ポロポロと頬を伝い落ちて、視界が滲む。

​「どうして……私、なんで泣いて……」

​ 得体の知れない喪失感。
 私が忘れてしまった『何か』は、二度と戻らないのだという、魂の欠落感だけが涙となってあふれ出す。

「泣かないで、セレナ」

​ ガタッ、と椅子が鳴る音がした。
 顔を上げようとした瞬間、ふわりと温かな何かに包み込まれていた。

​「え……殿、下……?」

​ いつの間にか机を回り込んでいた殿下が、泣いている私を椅子ごと抱きしめていたのだ。
 驚いて身じろぎしようとすると、さらに強い力で、後頭部を胸元に押し付けられる。

​「後ろなんて見なくていい。君が見るべきなのは、空席になった過去じゃない」

​ 頭上から降ってくる声は、甘く、けれど痛いほどに切実だった。

 そして、私の耳に直接届いたのは――。

​ ドクン、ドクン! と、痛いほどに、激しく鳴り響く心臓の音。
 初めて聞いたはずなのに、なぜか魂が震えるほど懐かしい。

​「口では格好つけたけど、本当は怖くて仕方ないんだ。……この心音が、僕の本当の気持ちだ」

​ ドクン、ドクン。
 その騒がしい鼓動が、寒くて暗い喪失の穴を、みるみるうちに満たしていく。
 ああ、温かい。この音色だけは嘘をつかないと、私の本能が告げている。

​「セレナ、愛している。……その空いた心の穴を、僕に埋めさせてくれないか?」

​ 殿下の腕が、私の体を逃さないとばかりに強く食い込む。

「君の隣に、堂々といられる権利を……っ」

​ ――ああ。
 
 その言葉を聞いた瞬間、霧が晴れるように、胸の奥が震えた。
 記憶はない。約束した覚えもない。
 けれど、魂が知っている。私はずっと、この言葉を待っていたのだと。

​「……ずるいです、殿下」

​ 私は熱い頬を殿下の胸に押し付け、観念したように小さく呟いた。
 喪失の涙を、こんな熱量で、こんなに確かな愛で上書きされてしまっては――もう、降参するしかなかった。

 私は震える手を伸ばし、今度は私の方から、殿下の背中に腕を回す。
 そして殿下の瞳を真っ直ぐに見つめ返し、涙声だけれど、はっきりとした声で告げた。

​「……覚悟は、できていますか?」
「え?」
「その席、一度座ったら――もう一生、逃がしてあげませんから」

​ 私の言葉に、殿下は一瞬きょとんとして――次の瞬間、顔をくしゃりと歪めて、泣き出しそうなほど嬉しそうに笑った。

​「……ああ。望むところだ」

​ 言葉が終わるよりも早く、殿下の顔が近づいてくる。
 重なる唇が、永遠の契約を結ぶように、深く、甘く、私を溶かしていった。
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