欠け神の宵契り

種田遠雷

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11、旅籠の休日

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「あなたと繋がったまま、俺が死ねばいい。あなたは巻き込まれて滅びるはずだ」
「……よせ。聞くだけで私がどれほど悲しいか、解るはずだ」
「俺が本気で言っているのもお解りでしょう」
 フッと、ナルヌイが鼻で笑って顔を背けた。
 掴んだ手首を離させもせず、ナルヌイは逆の手でレニの顎を掬って上げさせる。
「な、駄目です、」
 背けた顔も力では敵わず、唇を重ねられた。
「んっ……」
 淡い音を立てて繰り返しついばまれ、身体の奥に、まだ残り火が燻っていたことに気づく。
 頬にもくちづけられ、耳の縁を甘く噛まれて背が震えた。
「忌々しい妻だ」
 笑う声を残し、立ち尽くすレニを置き去りにして、ナルヌイは客室のある方へと引き返していった。


 旅籠・袖寄屋の広い玄関から朝の光が注いで満ちる中、レニは帳場台の上に突っ伏して頭を抱えていた。
「……前々から疑問なんですが、のお客様って、なんで当たり前みたいな顔して宿代が払えるんですかね」
 記録と帳簿を整理しているヨウエンの声に、なんでだろうね、とレニは伏せたままくぐもった声で答える。
「海さんなんか、最初来たとき絶対無一文の顔してましたよね」
「無一文の顔って」
 掃除を済ませたシュカが首をひねり、朝の膳の片付けを終えたハイウが笑った。
「レニさん、明後日からはお約束のお客様もありますから。うちが特別なんですよ、たまには客がいないことがあるなんて、他の旅籠でもそんなに珍しくありません」
 大丈夫ですって、と、淡々とヨウエンが慰めた。
 ナルヌイを脅した次の朝、そのナルヌイをはじめ、予定通りの客も予定外だと言う客も、それぞれの理由で全て部屋を出ていってしまったのだ。
 誰もが漏れなくきちんと精算を済ませてヨウエンが帳簿につけているのが、レニには手切れ金のように思えて尚のこと心が冷える。
 明後日の予約客まで穴があく予感しかない。
 いや、明後日の客は本当に来るのだろうか。
 憂鬱で胃が重く、遠くに頭痛が襲おうと待ち構えている気配すらする。
 だが、と、帳場台に手をついて、レニは気丈だけで身を起こした。
 隠さず大きな溜息をついてから、三人の顔を見渡す。
「と、いう状況ですから、今日と明日はお休みになってください。いつもみなさん無理なほど働いていただいてます。いい機会ですから、充分骨休めしてもらいたい」
 わかりました。はーい。と声が返り、それぞれに持ち場の方へ向かい始めるのに、えっと声を上げた。
「帰宅していただいていいですよ」
「いや帰りませんよ、ここで休みます。飛び込みのお客様が来たら、レニさんが膳の用意するんですか? やめてくださいよ、僕の料理目当てでおいでになる方もいるのに」
「ああ、いやまあ……」
「私は着替えたら一旦帰ります。時々覗きますから、お客様があったら教えてくださいね、ヨウエンさん」
「えっそんな、それじゃ休みにならないでしょう」
 わかりました、と、シュカに応じるヨウエンが帳簿から顔を上げた。
「俺はこれ終わったら奥で寝ますんで、レニさん交替お願いします。帰るかどうかは起きてから決めます」
「あっはい」
 休みだ休みだと解散し始める従業員に、レニは顔を覆って背を丸めた。
「みんな、あ、ありがとう……! でも本音で心からちゃんと休んでもらいたい……!」
「だから休みますって」
「休みますよー」
「寝たら起こさないでください。飽きるまで寝てみたい、久々に」
 それよりあなたが休んでください、と、声を揃えてありがたい説教をいただき、礼を繰り返しながら、レニは今度こそへたり込んた。

 夕方まで眠り込んだヨウエンが起き出す頃、約束したようにシュカが現れて、ハイウがまかないを出すまさにその時、行こうと思っていたのに呆然として知らせ忘れたヂエイも出勤してきた。
 事情を話すとヂエイはあっさり了解し、客が来たら誰か走ってこいよと頷いた。三軒隣の強みだ。
 従業員全員で食卓を囲むなど初めてのことで、取るに足らない話ばかり花が咲いて、笑い合いながら長い時間を過ごした。

 俺はこれから目が冴えるんだよと言うヂエイが帳場を引き受け、ヨウエンが帰宅して、レニは仮眠のために私室へ送り出された。
 服を脱いで夜着に着替えかけ、上裸のままで、ふと、姿見の前に立つ。
 子供の頃、というには普通よりも長い間、レニが細身なこともあって、妹のチナとは本当に見分けがつかないほどだった。
 宵契りなどの重要な役目以外では、二人は度々入れ替わり、誰一人として双子の交換に気づかない周囲に後から笑い合ったものだ。
 今ははっきり、レニはチナと分かれて男の姿をしている。
 消えていく半身の面影をずっと惜しんで、今も当たり前にチナが恋しいが。
 失っても必要なのではなく、ただ双子の妹を愛していられると気づいた。気づいたら、瓜二つではなくなっても、今だって自分はチナとそっくりなのだと急に目に見えた。
 何故なのかは解っている。
 まだ遠くに繋がっている海の神の名を呟き、レニは鏡の中の唇を撫でた。
 ナルヌイとの宵契りが、レナンを正統の巫子に、チナの予備ではなくレナンにしたからだ。
 切れぬ血のしがらみを、受け継いだ血と習いが解いた。受け取る大きな器を得て、レニは自分がようやく一人のレニになったと知った。

「ヂエイさん、シオンランって国、知ってます?」
 夜明けにもまだ遠い、ヂエイがいつも帰る深夜に交替しても、帳場を掃除するレニを眺めながら、ヂエイはだらしなく寛いでいた。
 レニから掛けられた声に、大きな欠伸を噛み殺している。
「シオンラン……?」
 元は軍人だったヂエイがこの旅籠では最も国の外を知っている。それが首をひねる様子に、もっと遠くなのかな、とレニは溜息をついた。
「ああ~……、そうか、なんだよ歴史の話かよ」
「歴史?」
 きりの良いところで掃除を終え、帳場台で好きに寛いでいるヂエイの傍に寄って続きを待った。
「シオンランってな、古い地名だ。そういや、国の名前といや国の名前かもな。もっと西だ、南西の端だな。スイケイエンで一番デカい海軍があるとこよ」
 スイケイエン、とレニは目を剥いた。つまり、まさにこの国のことだ。
「……そういうことか。シオンランって、いつ頃まであった?」
 いつ頃ねえ、と、顎の無精髭を撫でながら、ヂエイは片眉を吊り上げた。
「スイケイエンが今の形になった頃だろ? 二百年も前じゃねえだろうが、百年ってほど最近でもねえだろうな」
「……大雑把……」
 うるせえな、とヂエイが笑う。
「俺ゃ今の国しか知らねえよ。歴史ならハイウかヨウエンだろ」
「あ、そうなんだ?」
「二人とも上の学校まで出てるはずだからな」
「ああ。そうか、歴史だからか……」
 そうそ、と再び欠伸するヂエイも、話が済むときりがよく帳場を離れて三軒隣の自宅へと帰っていった。
 つける仕事のない宿帳を形だけ開きながら、そうか、とレニは口許を撫でた。
 シオンランを呑み込んだスイケイエンは、今、それほど大きな戦を構えてはおらず、逆にこれをどうにか食えないかと狙われる側のはずだ。
 例えば、十年前にレニの故郷を食い尽くして我がものにした隣国などからも。
 そうか、と、もう一度ごちて大きな溜息をついた。
 ギムレンも、百年経てば昔の地名だと呼ばれるのかと思えば、やるせない。
 たった一昨日の夜、二人でそれぞれの国に暮らしたのに、それならナルヌイはどこの国の神で、レニはどこの国の民なのだろうか。
「ならせめて、寄り添ってはいられないんですかね」
 呼びかける名前は声にせず、唇の先に転がした。

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