腹黒御曹司との交際前交渉からはじまるエトセトラ

真波トウカ

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「悪い、ちょっと出る。――はい、空閑です」
 話しているうちにだんだんと隼人の顔は曇っていった。
「はい、ええ。今日、ですか……わかりました」
 電話を切ると隼人は申し訳なさそうに眉を下げた。
「すまない、仕事が入った」
「いえ……しょうがないです」
「埋め合わせはするから。……そんな悲しそうな顔しないでくれ」
 なだめるように頭をなでられて、慌ててその手から逃げる。
「し、してません」
 隼人は笑うが、今のが冗談だったのか、それとも自分が本当にそんな表情をしていたのか麻由にはわからなかった。

 
 *
 

 高級感溢れるデパートの外観と違って、基本的に客を迎え入れる用途ではないこの建物は無駄をそぎ落とした素っ気ないデザインだ。
 隼人はよく見慣れたビルを見上げた。
 中に入っても、デパートのきらびやかすぎて作り物っぽさの溢れる内装よりは事務的なこちらのほうが落ち着く。
 会議のあと、電話をかけてきたのは本部の元上司だった。定例会議に隼人も出てほしいとのお達しに、久しぶりに福丸屋の本部ビルへと足を運んだのだ。
(それは別にいいんだが、なんでよりによって今日なんだ)
 隼人は顔をしかめながら、会議室のある上階行きのエレベーターに乗る。
 今日の会議は福丸屋の地方店からも代表が来ている。地方から来るのは大抵部長クラスの人間だ。大きな会議だが、現在は東京店勤務で、役職だってまだ下の自分がなぜ呼ばれたのかわからないまま隼人は席に着いた。
 配布資料を読み上げるだけの淡々とした報告が終わり、議題はデパートの品位の話に移っていく。
「空閑グループの運営する中には若者向けのファッションビルもある。そんななかで、私たちデパートがわざわざ若者に迎合するのはどうかという話なんです」
 熱弁しているのは地方店の営業部長だった。
 同席していた本部部長が隼人に目配せしてくる。隼人はやっと、なぜ自分がここに呼ばれたのかを理解した。
 東京店のみで展開している若者向け部門の『フルール』は、成功すれば全店で導入したいと思っていた。そのことへの反発があったのだろう。
 そこで立案者の隼人を矢面に出してきたというわけだ。
 実際に数字を出しているというのに、これだから古い人間は困る。隼人は内心で悪態をついた。
「東京のど真ん中に店を構えておいて、若者を無視した戦略をとるなんてあり得ないでしょう。デパートは老若男女すべての人のものであるべきだ」
「お得意先のご子息ご令嬢が使うならそうでしょう。しかし東京店は明らかに本来のデパートの客でない者をターゲットにしている」
「店が客を選ぶというんですか」
「そういうわけでは……」
 隼人は冷静になろうと努めるが、だんだんと内心腹が立ってきていた。
「今後もデパートを存続させたければそんなことを言っていてはだめだ。若いうちからなじんだ店でないと年齢を重ねても足を運ぼうとは思いませんよ」
 つい熱の入った物言いになってしまって、その迫力も相まってか、相手は引き下がった。
 議題が別のものに移り、隼人は自分の内側にある熱いものを逃がすようにふーっと息をついた。
(なにやってんだ。柄にもなく)
 らしくない、と思いつつも、同時になぜ他店の人間はそんなこともわからないのだろうと思う。
 早く東京店で実績を上げて、本部に戻りたい。ゆくゆくは地方店も含めて経営権を握って自分の好きなようにしてやりたい。
 湧き上がる気持ちを持て余しているうちに、めぼしい議題もないまま会議は終わった。
 自分が会議に呼ばれた意味はわかったが、意義は見いだせなかった。くだらないことで呼びやがってと辟易しながら立ち上がりかけたとき、お茶を下げに来た女子社員に話しかけられた。
「あの、さっき感動しました」
「え?」
 なんとなく見覚えのある顔だ。本部時代もこうして事務仕事をしていた総務部の人間だろう。
「空閑課長……あ、今は空閑MDでしたっけ。本当にデパートを愛しているんですね」
 女子社員は本気で言っているらしく、思わず鼻で笑い飛ばすところだった。
(なんでそうなるんだ。逆だよ)
 まだ若い社員に人を見る目を求めるのは酷かとも思うが、そんなんじゃすぐ人にだまされるぞと注意したくなってくる。
 まったく馬鹿馬鹿しい話だ。自分は復讐するために仕事をしているというのに。
「伝わって嬉しいよ」
 皮肉を込めて極上の営業スマイルを見せてやれば、女子社員は顔を赤らめてうつむいた。
(なにしてんだ、俺)
 くだらない会議のあとは、女子社員に油を売って。
 むなしさだけが心の内に広がっていく。さっき顔を合わせていたばかりだというのに、なんだか無性に麻由に会いたくなった。
 麻由はポーカーフェイスだと言われている。確かに一見、凜とした美しい外見と相まって表情の薄い顔は頼もしさと同時にとっつきにくそうな印象を人に与える。
 だが、自分はその下の顔を知っている。
 氷のベールの下に隠されているのはとても豊かな感情だということを。
 負けず嫌いで努力家で、責任感が強くて純情で。目に見えるのはほんのちょっとの変化だけれど、実はとても感情表現豊かな女性なのだと知っている。
 きっとそれは自分しか知らない事実だ。そう思っただけで優越感に気持ちが高ぶった。
 顔を赤らめて目をそらす。それだけのことがあんなにもかわいい女性。知ってしまったらもう目が離せない。
 会いたい。声が聞きたい。気づけばそんな風に考えてしまう。
 隼人は胸ポケットの携帯電話に手を伸ばしかけて、やめた。
 自分から言うのは流儀じゃない。きっといつか麻由のほうからそうねだらせてみせよう。
 麻由はなにを自分にねだるだろうか。会いたい、声が聞きたい。それとも――
 そんなことを考えるだけで楽しくなってくるのはさすがに年甲斐がないなと隼人は苦笑した。

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