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第3章 1
しおりを挟む資料を繰る手元がいつの間にか止まっている。
考えるのは隼人のことだ。
急な仕事とはなんだったのだろう。本部でも期待されている人材で、しかも空閑グループの一族だ。そりゃあ任される仕事も多いだろう。
「はあ……」
何度目かになるかわからないため息に自分でも驚く。
不安だったプレゼンがやっと終わって、しかも成功したというのに、この気落ちっぷりはなんなのだろう。
自分の情緒が不安になってくる。
(食事に行けなかったのがそんなに残念? お預けがショックなの?)
確かに労をねぎらってくれるという隼人の申し出は純粋に嬉しかった。それがキャンセルになったからといってここまで落ち込むとは自分でも意外だった。
今はそんなことを考えている暇はないというのに。
やることは山積みだ。企画が採用されて、本格的に動き出していく。気が散る考えを必死で頭から追い出すと、麻由は関係者配布用の資料に誤字がないか目を走らせた。
「塚原さん、お疲れ」
「お、お疲れ様です」
さっきまで考えていた人物の声がして心臓がどきりと高鳴る。麻由がいるのは通用口の近くで、従業員の誰が通ってもおかしくない。隼人もそのつもりで、名字で話しかけたのだろうが、今は休憩時間とかぶらないのか誰も通る気配がない。
隼人はそれを察してか、ぐんぐん距離を詰めてくる。
麻由の心臓はさらにばくばくと高鳴って、静かで音の響くこの場所ではそれ以上近づいたら聞こえてしまうのではと思うくらいだ。
来るな、と言っておとなしく聞く人ではない。むしろさらに近づいてくる。そのことは昨日実証済みだ。
麻由は先手を打って口を開いた。
「あ、あのっ、企画のことなんですがっ。寝具部門の部門長に直接お話を通しに行こうかと思いまして」
話し声があれば心臓の音はかき消える。隼人も麻由の話す内容に注意を向けてくれたので、ひとまずほっとした。
「いいんじゃないか。社内の根回しは早いほうがいい」
麻由が理想としていた癒やしの売り場には、ベッドを置くという案が欠かせない。採用されれば寝具部門が取り扱うものを借りようと思っていたのだった。
「しかし……いや、なんでもない」
珍しく歯切れの悪い物言いの隼人に、麻由は首をかしげる。
隼人の顔は今まで見たことがないほど不安げな色を帯びていた。
「なにか不都合が?」
「寝具部門の催事責任者はなかなかやっかいな人物だと聞く」
「やっかい?」
「セクハラだとかパワハラだとか、そんなことが日常茶飯事だと」
麻由もつられて不安げに眉根を寄せた。部門が離れていると知らないことばかりなのだが、まさかそんな人物が東京店にいたなんて。
隼人がここまでいうのだから相当なものなのだろう。
「俺が一緒に行こうか?」
「……いいえ」
本当は怖い。すごく怖い。内心、ついてきてほしいという気持ちをそのまま飲み込んだ。
麻由は隼人をまっすぐに見据える。
「そのくらい、自分でなんとかしてみせます」
「そうか」
頼るだけじゃだめだ。麻由の中には強い決意がある。
「本当に困ったときは俺を頼れ」
「平気です。話せばわかってくれます」
「今回に限ったことじゃない。もし今後行き詰まったら、その時は頼っていいんだ」
「は、い……」
肯定の返事をするのが少し難しかった。
(だって私、本当は人に頼るのって好きじゃない)
人に迷惑をかけていると思うとなんだか落ち着かない気持ちになる。
隼人には、悔しいけれどこれまで何度も助けられてきた。だからこそ、もう頼りたくない気持ちが大きいのに。
「納得いかない顔してるな」
「そんなことは……」
「まあいいさ。少なくとも俺は頼られたいと思っている。そのことを頭の片隅に入れておいてくれ」
頼られたい、なんておかしなことを言う。多忙なのだから頼られたって大変なだけだろうに。
そんなことを考えながら、麻由は曖昧にうなずいた。
「ところで昨日はすまなかったな。こちらから誘ったのにキャンセルして」
その言葉に収まっていた心臓がどくんと鼓動を早める。
隼人はなにも気にしていないのかと思っていたけれど、ちゃんと覚えてくれていた。
「べ、別に平気です。気にしてません」
「それはそれで傷つくな」
隼人は笑いながら麻由の左手を取った。カッターシャツの袖口から覗く手首には少しくたびれた腕時計がついている。それを外された、と思ったら新しい腕時計を巻かれた。
「良かった。ぴったりだ。君の腕は細いから、ゆるいかもしれないと心配だったんだが」
マット加工の施されたピンクゴールドのチェーンは女性らしく華奢なデザインだ。ローマ数字の文字盤にはうっすらと桜があしらわれている。
繊細な印象が素敵な時計だと一瞬目を奪われるが、それが自分の腕にあることに戸惑った。
「あの、これ……?」
「きのうのお詫びだ」
「そっ、そんなの受け取れません!」
見るからに高級そうなものだ。はいそうですかと喜ぶわけにはいかない。
「いいじゃないか。本当はただ君にプレゼントをしたかっただけだ。似合うと思って目をつけていたんだ。麻由は口実でもないと受け取ってくれなそうだから」
「でも……」
「気に入らなかったか?」
そんなことはない。デザインは一目見ただけで気に入った。
それに、今つけている腕時計は間に合わせに買ったもので、ちゃんとしたものに買い換えないとと思いつつ、二の足を踏んで惰性で使い続けていたものだ。
気に入りのデザインのものは高価すぎて手が出せず、なかなか買おうと思えるものがなかった。
だから正直言うとプレゼントはすごく嬉しい。
「……ありがとうございます。すごく、素敵な時計」
素直に礼を言えば隼人は安心したように笑顔になった。
「そうだろう。この細いチェーンが麻由の華奢な腕によく似合う」
隼人は麻由の腕を取った。
「麻由は文字盤を腕の内側にするんだったな」
手の甲のほうにあった文字盤をくるりと内側に向けると、隼人は青い血管の浮かぶ薄い皮膚に唇を押し当てた。
「なっ」
「この時計を見るたびに俺のことを思い出すように」
「な、なんですかそれ」
口づけられたところから熱を持っていくようで、慌てて腕を隠すと隼人はおかしそうに肩を揺らす。
またからかわれたのだろうか。自分ばかりが焦っていて恥ずかしい。
「わ、私売り場に戻りますから」
隼人の脇を通って明るく照らされた売り場へと出る。
薄暗い通用口と違って、清潔感溢れる明るいフロアはデパート店員としての自分を思い出させてくれた。
平常心、平常心と心の中で言い聞かせ、やっといつもの自分を取り戻す。
(隼人さん、私が文字盤を内側にするって知ってたんだ)
そんなちょっとした癖を見てくれていたのが嬉しかった。
ということは、腕時計をくれたのも今使っているものがボロボロだと知っていたからかもしれない。
身につけるものは細かいところまで気をつけないとと思いながら、もらったばかりの時計を見る。
明るい店内で見ると、ピンクゴールドがさらに美しく光った。
惚れ惚れしていると、文字盤が腕を滑って落ちていく。その下から出てきたのはくっきりと赤く残された痕だった。
それがさっき隼人につけられたものだと頭が理解して、頬が熱くなる。
(時計を見るたびに思い出すって、そういう……!)
麻由はさっとレジカウンターの中に引っ込んだ。
こんなことならまだ戻ってこなければ良かった。
とても平常心ではいられない。
シャツの袖を甲が隠れるほど引っ張り、さも在庫を確認しているかのようにパソコン画面へ視線を落とす。
いやでも目に入る手首という場所に、隼人から与えられた痕があると思っただけで、そわそわと落ち着かない気持ちになる。
腕まくりをしなければ他の誰かに見られることはないだろう。
誰でも見える場所だけど、誰も知らない痕。それを自分が持っている。
押し当てられた唇の柔らかな感触がありありと蘇ってくる。
(隼人さんの……ばか)
心の中でこっそり悪態をついてみても、こみ上げてくるのは嫌悪感じゃなかった。
にやにやとだらしなく口元が緩んでしまいそうなのはどうしてだろう。
大嫌いなはずだったのに、仕事でのアドバイスは的確で。からかってくるくせに、紳士で。翻弄されているのはずっと変わらないのに、それが心地よいと感じるようになったのはどうしてなんだろう。
ふと、画面の中のメーラーが一通のメールを受信していることに気づいた。
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