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しおりを挟む販売部ではあまり使うことがないが、社員は皆自分のアドレスを持っている。このパソコンは部門共通で使うものだが、企画の責任者となってよく使うことになるだろうと、麻由のアカウントでログインしていた。
つまり麻由宛てのメールということだ。
開いてみると差出人は企画で扱うパジャマのブランド、鮎川コットンからだった。
先日、企画の目玉商品として新ライン「フェアリー」のパジャマを扱いたいと挨拶のメールをしてあった。その返事をくれたのだろうとあたりをつけて麻由はメールをスクロールしていく。
直接出向いて挨拶にも行くつもりだったが、プロジェクトが動いていることを早めに伝えておいた方がいいと思ったのだ。
幸いなことに鮎川コットンは今までも協力的に福丸屋との関係を築いてくれている。
向こうとしても新ラインの商品は売り出したいはずだから、今回も喜んで協力してくれるだろうと営業部から聞いていた。
なにげなくメールを読み進めていた麻由は、しかしその内容の雲行きが怪しいことに気づいた。
協力的どころか、むしろ怒っている。
結びに、直接会って事情を説明しない限り商品は卸せない、その際以前の売り上げデータを持ってくるようにという意味合いのことが書いてあり、麻由は青ざめた。
理由はわからないが、先方は確実に怒っている。
(なんで? 怒らせるようなことはなにも……っていうか、一刻も早く謝りに……)
今後どう動くかを頭の中で必死にシュミレートするが、うまく情報がつながっていかなかった。
明らかに自分は動揺している。それはわかるのに、冷静さは戻ってこない。
「あ、塚原先輩。売り場戻ってきて良かったんですか?」
「っ、ご、ごめんっ。また裏に行かないと」
在庫商品を腕に抱えながら声をかけてきたエリナに断ると、麻由は再びバックヤードへと引っ込んだ。
「おー、塚原さん。最近よくこっち来るね」
「す、すみません。またパソコンをお借りします」
従業員専用の通路から事務室の並ぶ棟へ移動する。
おなじみになった企画営業部のオフィスで端末を借りると、麻由は売り上げデータのファイルを開いた。
画面に映し出された細かい数字の列に頭がくらくらしてくる。
担当する部門とは商品の数も売り上げの桁も違う。どこをどうみればいいのかさっぱりわからない。
「あ、あの、これって……」
「外回りいってきまーす」
先ほど声をかけてくれた男性社員はコートを片手に小走りでオフィスから出て行った。周りを見回すと他の社員たちも忙しそうに立ち回っている。
麻由はパソコンに視線を戻すと、震える指先で画面をスクロールしていった。
(鮎川コットンさん、なんで怒ってるの? 私が直接コンタクトを取ったのは、挨拶のメールが初めてで……そこで失礼なことを言った? でも、一般的な挨拶と商品を褒めることしか言ってないはず……)
怒りの理由がわからないからこそ、先の見えない暗闇に放り込まれたようで恐ろしかった。
もしこのまま鮎川コットンが商品の取り扱いに許可を出さなかったら。そうしたら企画は成り立たなくなる。
最悪の事態を想定して、頭の中が真っ白になった。
スクロールしていっても画面はずっと数字のままだ。
先方が売り上げデータを持ってくるようにいっているということは、ここに怒りの理由が隠されているかもしれないのに。
(誰かに聞かなきゃ。一刻も早くデータを持って行けるように)
でも、誰に。
迷惑を承知で周りの企画営業部社員に聞くしかない。それはわかっている。
けれど、取引先を怒らせたことが知れたら? 営業のことなんてなにもわからない販売部、その印象が強くなるだけだったら?
(言えない……)
実績のない麻由が失敗すれば信用はすぐさま地に落ちる。
それで責任者を下ろされたら、どっちにしろ企画は終わる。そう思ったら、気軽に助けを求めることがはばかられた。
外が暗くなるにつれて、オフィスからは一人、また一人と社員の姿が減っていく。
「頑張るねえ。大丈夫?」
「っ、はい……」
課長から声をかけられて無理矢理、接客用の笑顔を貼り付けた。
「販売部にもなかなか骨のある子がいるじゃないか」
ははは、と笑って課長はオフィスから出て行った。
暗い室内には麻由一人になる。
これで本当に助けを求められる人はいなくなった。
自分の判断がとんでもないミスだったのではという考えが浮かんで体がぶるりと震えた。
この時間のロスでさらに取引先を怒らせてしまったら。
自分の身など後回しにして、とっとと事情を説明していれば良かったんじゃと考えると恐ろしかった。
「どうしよう、どうしよう……」
目の前のデータは相変わらず暗号のようで、どう見ればいいのかさっぱりわからない。
麻由は内線用のPHSに手をかけた。
頼りたくないのに、その人しか助けを求められる人が思い浮かばなかった。
『はい、空閑です』
「隼人さん……」
手短に状況を説明しようと思っていたのに、自分の口から出てきたのは情けない声で、すがるように呼んだ隼人の名前だけだった。
隼人は詳しいことを聞こうとせずに、すぐ行くというと通話を切った。
言葉通り、数分後にはオフィスに隼人が戻ってきた。コートを着て、手には車のキーを持っている。
「ご、ごめんなさい。帰るところでしたよね」
隼人はコートを脱いでぞんざいにその辺の椅子に置いた。
「麻由」
頬に手を添えられ、少しかがんだ隼人と目が合う。隼人の声音は柔らかだった。
「人を頼ることができたな。偉いぞ」
「っ……」
そんなことが偉いわけがない。否定しようと口を開けば、嗚咽がこみ上げてきてうまく言葉にならなかった。
「わ、私っ、一人じゃデータを抽出することすらできなくてっ、取引先も怒らせちゃうし、どうしていいかわからなくて……っ」
うわずる声での説明はなんだか子供の言い訳みたいだと思った。けれど隼人はそれを黙って聞いてくれている。
「ほ、本当は、隼人さんを頼りたくなかった。迷惑かけるつもりなかったんです……」
「麻由、よく聞くんだ。麻由が見返したいのは俺だろう」
「それは……」
確かにはじめて会った日、タクシーの中でそう言った。あのときは隼人のことをとても憎たらしく思っていたからだ。
「見返したい奴がいるなら無駄なことに労力を使うな。麻由には麻由にしかできないことがある。こんな単純作業、どんどん慣れてる奴に任せればいい」
「だ、だって隼人さんを見返したいのに隼人さんを頼るって変じゃないですか」
「変じゃない。本人がそう言ってるんだから。ほら、できた」
隼人が画面を操作するとすぐにプリンターからはデータが印刷されてきた。
(見返したいやつ、か……)
微笑む隼人を見てももう、憎しみや怒りなんてこれっぽっちもわいてこない。
本部での隼人の仕事ぶりを知ったときのような憧れや羨望の気持ちはさらに大きくなっていたけれど。
麻由にとって隼人は憎むべき対象ではなかった。ただこの人に認められたい。そんな昔の気持ちが改めて芽生えていた。
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