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翌日、麻由は隼人の運転する車の助手席にいた。
「すみません。ついてきてまでもらって」
「いや、いい。売り上げについては俺がいたほうが話が早いだろう」
話をするなら早いほうがいいと、早速指定されたデータを持って鮎川コットンへ向かうところだ。
「というか運転までしてもらって……。か、代わります」
「運転できるのか」
意外そうな顔をする隼人に麻由は肩身が狭くなる。
「一応ゴールドです。……ペーパーなので」
正直に申告すると隼人が吹き出した。
「じゃあご遠慮願おうか。まだ命が惜しい」
「すみません……」
「気にするな。運転は好きなんだ」
確かに隼人はいつも車通勤だったと、流れる景色を見ながら思う。
以前「割烹 てん」に連れて行ってもらったときには大きくてデザインもおそらく外国製のものと思われる車だった。自動車に詳しくない麻由でもなんとなくかっこいい車だったと記憶している。
今乗っているのは社用車だ。国産のコンパクトカーで、隼人の足はなんだか窮屈そうだった。
それでも表情はいつものように余裕たっぷりなのだろうと視線を移せば、なんだか顔色がいつもより悪い気がした。目の下にはうっすらとクマもあるようだ。
「隼人さん、体調悪いですか? なんだかあんまり具合がいいように見えないのですが……」
「そうか?」
赤信号で車が止まる。
隼人がこちらを向いた、と思うなり後頭部を押さえられ、唇に舌をねじ込まれる。
「んっ、ふ……ぅ」
こんなところで、と抵抗して体をよじるが、頭を押さえられているので逃げることができない。
すっかり舌の動きに翻弄されて、思考が白くかすんできた頃、唇は離れていった。
「うん、血色が戻ったな。君こそ顔が真っ白だった」
何食わぬ顔で前を向くと、信号が青になったことを確認して隼人は車を発進させた。
また、からかわれた。悔しさと恥ずかしさで真っ赤になり、それもまた疎ましくて両手で頬を押さえる。
「もう……ばかっ」
「そんなかわいい罵倒ならもっと聞きたい」
「は、隼人さんは、ばかですっ」
せっかく人が真面目に心配したというのに。
こんなに元気なら、具合が悪いなんて勘違いだったようだ。
車を一時間ほど走らせると、ビル群の影もなくなり、あたりはすっかり田舎の風景に替わる。
あるのは住宅か小さな商店ばかりだ。上京する前とさほど替わらない景色に親近感を抱く。
二階建ての建物の前で隼人は車を止めた。
「住居と工房を兼ねているんだったか」
鮎川、という表札の下に、鮎川コットンのロゴプレートが貼ってあった。
麻由が深呼吸している横で、隼人が迷いなくチャイムを押す。
福丸屋のものだと告げると、そっけない調子で中に入るよう指示された。
「ちょっ、まだ心の準備が……」
「驚いたな。いつも冷静な君でもそんな風に慌てることがあるのか」
「い、いつもだって冷静なわけでは……」
運のいいことにそういう顔の作りをしているだけだ。
「知ってる。麻由は意外と感情が表に出やすい。他の人が知らないだけで」
それはそれでどうなのだろう。褒め言葉ともとれない評価に微妙な顔をした。
普段、売り場では焦りや混乱することがあっても隠せているつもりだ。気づかれているなら困りものである。
「安心しろ。気づいているのは俺くらいだ。ほら、行くぞ」
隼人が建物の敷地に入っていくのに慌ててついて行く。
通されたのは二階にある、シンプルな内装の部屋だった。
デスクにパソコン、書類の入ったキャビネットなどが置かれた生活感のない部屋で、事務所として使っている一室のようだった。
キャスター付きの椅子に腰掛けているのはめがねをかけた三〇代後半くらいの男性だった。
鮎川コットンのホームページで見た顔だ。
ブランドの二代目社長で、一代目の息子にあたる。新しく若者向けのラインを立ち上げたのがこの二代目鮎川社長だったと、麻由は頭の中で経歴をざっと思い起こした。
鮎川は隼人に渡されたデータ資料に目を通している。
「責任者のかたは――」
「わ、私です。塚原と申します」
「塚原さん。これ、どうなっているんですか。前回の催事でうちの商品は完売したって言っていたのに、どうみても卸した数と売り上げが合ってないんですよ」
「え……」
「困るんだよなあ。うちみたいな小さな工房は少しの誤差が響くんです」
ここでやっと鮎川の怒りの原因がわかった。だが、原因がわかったところで、前回の催事に関わっていない麻由には、そうなった理由がわからない。
言葉に詰まっていると、隼人が口を開く。
「その点は私が説明します。申し遅れました、企画営業部の空閑です」
隼人はよどみない口調で続けた。
「率直に申し上げまして、わたくしどものミスです。申し訳ありませんでした」
深々と頭を下げる隼人を見て、麻由も慌ててそれにならう。
「商品を受け取る際に実際の数と書類上の数にずれがありました。完売と申し上げましたが、店内にはまだ在庫が残っています」
「で、それどうするつもりですか」
「まだ福丸屋で取り扱いさせていただけるならば、精一杯販売させていただきます」
「じゃあ、年内に頼みますよ」
「承知いたしました」
思わず「えっ」と言いそうになって、飲み込んだ。今年はあと四ヶ月しかないというのに、そんな簡単に了承してしまっていいんだろうか。
確か、以前鮎川コットンのパジャマを催事で扱ったのは春の寝具フェアの時だ。毎年恒例のイベントだが年内にもう一度開催するのは厳しい。
「もっと言い訳されたら商品の取り扱いを取り下げてもらおうとかと思ってたんですけど、ここまではっきり言われちゃかなわないな。今後も頼みますよ、福丸屋さん」
「っ、はい!」
商品が売れないかもしれないという不安なんて見せるわけにはいかない。麻由は冷静を装うと、自信ありげに返事をする。
鮎川が笑顔になって、張り詰めていた空気が少しだけ和らいだ。
「本当はデパートさんとの取引なんてうちのほうから頭下げるところなんですがね、親父がなめられるなって口を酸っぱくして言うもんだから。それにしても責任者のかたが女性って珍しいですね。ずいぶんお若いし」
「あ……」
「ご安心ください。塚原は優秀です」
「そうなんでしょうね。お若いのに責任ある仕事を任されるなんて」
自分に対する不満や嫌みをぶつけられることを覚悟していたので、鮎川の言葉に拍子抜けした。
「うちの新ラインって若い女性向けでしょう。だからあなたみたいな人に売ってもらえるとありがたいですよ。僕じゃ女の子の気持ちはわからないからなあ」
ははは、と鮎川は朗らかに笑った。
はじめの印象ではもっと怖い人かと思っていたが、こうして笑顔になると優しげな印象だ。
その後は新しい催事の展望を話し、二人は鮎川コットンのオフィスをあとにした。
「麻由が責任者で助かる、なんてうちの営業部よりよっぽど見る目あるんじゃないか、ここの社長」
「柔軟な考えのかたで良かったです」
「さて、帰って一仕事だな」
「あのっ、フォローありがとうございました。在庫の数がずれてたなんて、私全然気付かなくて」
「麻由のせいじゃない。これは企画営業部と寝具部門の問題だ」
車に乗り込もうとする隼人を手で制する。
「帰りは私がっ」
「ペーパーはおとなしく乗ってろ」
指先で軽く額をつつかれ、隼人はさっさと運転席に乗り込んだ。
麻由も渋々助手席に乗る。
(ゆっくり走れば大丈夫だと思うんだけどなあ)
助けてもらった分、なにか役に立ちたかった。
態度こそいつもと変わらないが、盗み見た隼人の横顔にはやはりうっすらとクマがある。
もしかしてこのデータのずれを特定するために残業して疲労がたまっているんじゃ、と麻由は思案する。
「帰ったら、めちゃくちゃ濃いコーヒー淹れますね」
「なんだ、新手のいたずらか?」
隼人がおかしそうに笑った。
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