腹黒御曹司との交際前交渉からはじまるエトセトラ

真波トウカ

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「割烹 てん」の前にはいつもの白いのれん、それに赤地に黒の筆字で「ランチ」の旗が出ていた。
 昼間にここを訪れるのははじめてだ。
 のれんをくぐると典子がいつもの明るい笑顔で出迎えてくれ、二階へと案内してくれる。
 麻由はどきどきしながら個室の襖を開けた。
 そこにはもう隼人がいた。緊張した面持ちで座布団に座っている。
 内装は前と変わらなかったが、今日はBGMがかかっていないようだった。
 麻由は隼人の向かいに腰を下ろした。
「久しぶり、だな……」
「そうだね」
 あれから、催事は大成功で幕を閉じた。元々宣伝の時に目にとめてくれていた若い客が自分の母親を連れて再度来てくれたり、面白いことをやっていると口コミで評判が広まって、日ごとに客足を伸ばすという異例の事態になった。
 催事に関わる従業員は皆忙しく、催事の担当を一度は下ろされた麻由もかり出され、期間中はお互い売り場にいても話すこともできなかった。
 催事が終わり、やっと通常の業務に戻ってきた今、隼人のほうから会いたいと連絡が来たのだった。
「良かった」
「うん?」
「隼人さん、顔色いいから」
 以前は睡眠不足がたたって倒れたこともある隼人だ。寝不足だとすぐクマになって現れるのは知っているが、今はそれがなかった。
 きっと忙しい催事が終わったことの他にも、心労が減ったからなのではないかと麻由は思う。治美のことが自分の中で整理がついたのではないだろうか。
「聞いてもいいですか。治美さんとどういう話をしたのか」
 今までなら聞くことができなかったことをついに口にする。
 こんな深いところに自分が立ち入っていいのかとどこか遠慮して、避けていた。でも今は聞いてみたい。断られたって別に良かった。ただ自分は隼人をわかりたいという気持ちがあるから、その気持ちに正直に行動してみたかった。
「安心して欲しい。君に関わるのをもうやめるように話した。それから――俺にももう関わるなと」
 それは仲が決裂したということなのだろうか。心配になって眉をひそめる。
「ああ、いや。言葉が強かったな。そうじゃなくて……俺のことは俺が決めると。お膳立てしてもらわなくてもいいんだという話をした」
「治美さんへの怒りはまだ消えませんか?」
「いや、向こうから謝られたよ。あの人はあの人なりに最初から罪滅ぼしをしようとしていたんだな。そんなことちっともわからなかった」
「じゃあ……」
「これから積極的に仲良くしようとは思わないけど、今はなんだか憑き物が落ちたような気持ちだ。俺のほうも、愛人の子という引け目からあの人が自分を憎く思っていると身構えていたんだな」
 隼人の言葉も表情も穏やかだった。
「良かった。本当に……」
 隼人は少しずつ幼いときのつらい記憶を乗り越えていっている。トラウマが薄れたのだと思うと、嬉しくて胸がいっぱいになった。
「隼人さんが心穏やかに過ごせるなら私も嬉しい」
 麻由の言葉に隼人はばつの悪そうな顔をする。
「俺はそんな風に君に言ってもらう資格がない」
「え?」
「すまなかった」
 隼人が深々と頭を下げた。
「ひどいことをした。君の話を聞かず、暴走して君を閉じ込めた。君を、無理矢理……」「隼人さん……」
 隼人の言葉はその身にナイフを突き立てているような、聞いているだけでつらくなるくらい思い詰めていた。
 あの件で自分よりも隼人のほうがよほど苦しんでいたことを麻由は感じた。
「頭を上げてください。せっかく隼人さんの悩みが解決したのに、私のことで悩んで欲しくない」
 麻由は隼人の隣に移動すると、膝の上で震えている拳にそっと手を重ねる。
「ほら、顔を上げて。ね?」
「麻由……」
 隼人の瞳がまっすぐにこちらを向く。
「改めて言わせて欲しい。――君が好きだ」
 射貫くような瞳から麻由は目が離せなくなる。
「君にひどいことをして俺が隣にいる資格があるのかと考えた。考えたんだが……どうしても麻由を離したくなかった」
 麻由の手の中にあった拳が開かれて、反対に麻由の手は大きな手に絡め取られる。
「君が許すなら、まだこれからも隣にいさせてほしい」
 麻由はくすりと小さく笑う。
「なんだか、らしくない。隼人さんならもっと強気で来なくちゃ」
「そんなに強気だったかな、俺は」
 隼人は気まずそうに視線をそらす。
「強気です。いつも余裕たっぷりで、私のことを翻弄して、いつの間にか離れられなくしちゃうのが隼人さんだから」
 絡まる指にぎゅっと力を入れる。
「私が治美さんに言ったこと、本気です。隼人さんを支えるためなら仕事だって辞めてかまわない」
「っ、君にそんなことさせない」
「隼人さんならそう言ってくれると思った。あのね、つまり私こそ、隼人さんから離れたくないってこと」
 麻由は隼人の頬に手を添えると、そっと自分から口づけをする。
 触れるだけのキスに気持ちをすべて込めて。
「隼人さんが、好き」
「麻由……」
「離れたく、ないです」
 泣き出しそうに目を細めた隼人がそっと麻由を抱きしめた。

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