冬の窓辺に鳥は囀り

ぱんちゃん

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tapestries. 愛しい雛の育て方⑦

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「パッセルではなく、トゥルドゥスなのですよ。」

ようやっとたどり着いたエレノア様の左側。私が歩みを止めたと同時に声が上がった。
殊更に、笑顔を絶やさぬ朗らかな声。
弾かれた様にその声の主を見ると、まるで大衆に見せつけるようにセレス様を片腕で抱き寄せる。

「賢い鳥が口を噤んでいるのは、それが鳴く時ではないと分かっているからです。けれど鳴かなくとも、ぴょんぴょんと跳ねるように歩くだけでも愛らしく、いくらでも苺をあげたくなってしまうのですが。」

鋭い眼光がアルノー様を射抜いたまま、グレーブロンドに優しくキスを落とす。
セレス様はそっと頭上を見上げて笑み崩れ、お二人は僅かに微笑みを交わした。

「野にあっては同じように見えても、私にとっては間違えようもない程愛しいトゥルドゥスです。」

「お忘れなきよう。」

射る様な眼差しで一瞥すると、フォルティス様は「失礼。」と言ってセレス様を脇に抱えるようにして奥へと下がっていった。微笑みを交わし合い、頭やこめかみに何度もキスを落としながら。

残されたアルノー様は呆気に取られてその後ろ姿を見送り、次第にその顔が鋭く歪んでゆく。
そこへすっとブラッドリー伯爵が歩み寄り、アルノー様へシガーの誘いを持ちかけた。
私は場が終息に向かっていく雰囲気にほっと胸を撫でおろす。
歩み去る際に、ブラッドリー卿は長い前髪の間から僅かな視線をランドルフ様に流し、それを受けて旦那様は目で頷きを返す。
その誰にも悟らせない暗黙のやり取りはほんの一瞬で、ランドルフ様は何事もなかったようにエレノア様へとにこにことしたお顔をお向けになった。

「久々に君の剣技が見られるかもとワクワクしたよ。」
「あら。それならいつでもお相手いたしますのに。」

エレノア様はあでやかに笑い、「少々失礼いたしますわね。」と断り階上のお部屋へと向かう。
私は頭を下げてこの場を去ることを告げ、エレノア様の左側にすっと寄り添った。




エレノア様の為に用意されたそのチェンバールームには、美しい装飾の施された華麗なコモド(衣装箪笥)がある。ウォールナットの化粧張りに精巧な花模様の彫り物。金物細工が四隅を彩り、使いこまれたそれは艶やかな光沢を放っている。
その脇に置かれた大きなドレッサーの前で、エレノア様はばさりとドレスのスカート部を剥ぎ取った。
騎士用のスパッツパンツに添うようにぶら下げられた剣がカチャリと硬質な音をあげる。

「ひやひやいたしました。」

私の言葉に、木製の足乗せ台に左足を掛け、外れている剣帯の留め具をパチパチと留めているエレノア様が俯いたままでくくくと笑う。

「すまないな。年と共に自制がきかなくなるようだ。」

私は内心溜息を吐く。

血の気の多さと冷静さが常に同居なさっているのは今に始まったことではない。
かつて、その美しい容貌と澄んで響くような剣戟を例えて『玲瓏れいろうの君』と呼ばれたエレノア様。何度お止めしてもお一人で森に入り、社交会への出席時もその愛刀を肌身から離すことが無い。
貴族の屋敷に族が出ることはないだろうが、シーズンの始まったばかりの王都はそれなりに治安が悪い。めったにないその『もしも』に備えてきた近衛の精神は、エレノア様の中では今も当たり前のように胸にある。

「まさかお披露目の場でこのようなことになるとは……。」
「オルレアン公爵家は王政派である前に妄信的な貴族主義だ。王家ドムスレギアに縁付くとはいえ、些か中央とは遠すぎるという事をあの父親の方が良く理解している。」

剣の違和感を消すために沢山のタックが付いているそのスカート部は、パニエを付けると美しい刺繍が露わになる。スカートもパニエも特別に誂えたもので、ドレスとしての美しさといざという時の起動がスムーズであるようにいくつもの工夫が凝らされている。
その引き締まった腹部に取り付けていく間も淡々と話す言葉に、私は手を止めることなく耳を傾ける。

「子の手綱も握れんようでは行く末も見えるようだな。それに比べてフォルティスはまぁまぁよくやった。だが、それもセレスの足元には到底及ばない。」

そう言って淑女らしからぬ豪快な笑い声をお上げになる。

「あの言葉は本心だったのだろうな!邪気が無く、瞬く間に周囲の毒気を抜いてしまった!」

特にデリオットのな。
楽しそうに笑うそのお顔を、私は瞠目して見つめる。

「おや。気付かなかったか? 私も見たのは久しぶりだ。父上のヴァレットだった頃を思い出したよ。」

驚きを隠せない私に、エレノア様が可笑し気に笑う。

「ロジーナは、タウンハウスの面々がなぜこんなにもセレスに心を開いているのか不思議なんだろう?」

私は、迷った末に頷いた。そして正直に胸の内を吐き出してみる。
ミセス・ヘザーがお話しになったこと。そして私の考えたことを。
あまりにも偏ったその幼少時代。その欠落を埋めて差し上げたいと皆は思っているのではないのかと。

「ふふん。」

真面目な顔で聞いてくださっていたエレノア様が、鼻を鳴らして僅かに頷く。

「まぁ、それもあるだろう。否定はせんよ。教会は強かだ。譲れぬものには犠牲が付く。」

「だが、我が家の使用人も負けず劣らず強かだろう?裏に控えて素知らぬ顔で、跳梁跋扈する有象無象をいくらでも見てきたような者たちばかりだ。」

同情心だけであんなことにはならんよ。
出来の悪い生徒を見るように、エレノア様はふふっと笑う。

「…。ヘザーが言っていた言葉が全てだ。セレスの歌を聴いたものにしか、たぶん、本当には理解できん。」

「彼らはセレスの誇りに敬意を表しているのだよ。あの子のこれまでに。その生き方の全てに。不憫さすら凌駕して、余りある程にな。」





地下に下り洗面所ラバトリーを出ると、厨房からヘッド・シェフのフェリックスさんに手招きをされた。

「聞き捨てならねぇことを聞いたんだが。」

開口一番、怒気を孕んだ声ですごまれる。
すでに先ほどの出来事はすっかり屋敷中の耳に入っているとみえる。
普段温厚なセカンド・シェフすら、厨房の奥からギラついた視線を寄越してくる。
ヘッド・シェフの剃り上がったこめかみに僅かに浮いた青い筋。にぃっとつり上がった片頬が怒りを抑えようと痙攣している。

「もちろんそいつは、即刻屋敷からおかえり願ったんだろうな?」


エレノア様の言葉を何度か胸の内で繰り返し、私はようやっと胸のつかえが腑に落ちた。
タウンハウスの面々は、フォルティス様の王都入りと同時に元々の使用人から総入れ替えされている。年若いフォルティス様を支えるべく配された方々は、かつて本家でも主要な位置を任されていた人たちだ。
筆頭レディース・メイドからナニーメイドとなったヘザー様だけでなく、現ハウス・スチュワードであるデリオットさんも、かつては大旦那様のヴァレットを兼ねたバトラーだった。ランド・スチュワードからの信頼も厚く、カントリーハウスの屋敷の中でも頼りになる存在だったのだ。
シェフやオブロワイエ、ガードナーやハウスメイドに至るまで。長くルーメン家に仕え、その仕事ぶりと人間性が認められ保障された人々。

その方たちが伯爵家の使用人としての立場を越えて、こんなにも怒りを露わにしている。
誇り高い使用人達が泥を塗られて激怒するのは、雇い主を敬愛しているからだ。それは私こそが身をもって知っている。
黒の騎士に愛されその腕に抱かれた少年は、もはやルーメン家の身内として屋敷中から認められ、愛されているのだ。


公爵子息だからと関係が無いと、見たこともない剣幕で怒りをまき散らしている地下から逃れ、私は大サロンの片隅から会場を眺める。

彩り鮮やかなデセールが供された会場はすっかりと穏やかさを取り戻し、お喋りな貴婦人たちの口をとろける美味しさで閉ざしていた。
いつの間にか会場にお戻りになっている本日の主役のお二人は、穏やかな顔の人々と共にテーブルを囲んでいる。テラスには暖かい陽が降り注ぎ、春らしい明るい木々が目に鮮やかだ。外に出された大きめのティーテーブル。セレス様の前にはフルーツのデセール。皿に美しく盛り付けられ、ビスキュイとムースの上にはふんだんに生のフルーツが乗った手の込んだガトー。

それを頬張る姿に、気付くと私もいつの間にか顔が緩んでしまっている。
そのあまりにも幸せそうなお顔が、隣で見つめるフォルティス様だけでなく、周りのお客様までも笑顔にしてしまっているのだ。

隣に気配を感じて振り向けば、ミセス・ヘザーが私の左側に立っていた。
見つめる先に濃茶の瞳を緩ませて、口元も僅かに綻んでいる。

セレス様の口元に付いたクリームを、掬い取った指ごとフォルティス様がぱくりと食べる。
ぼっと赤らむお顔。握り合った指先はそのままで、へにゃりと笑って何事か口になさる。途端にどっとテーブルが華やいだ。

私は隣に立つミセス・ヘザーに視線を戻す。
濃茶の瞳は私を捉え。

そして、どちらともなくにっこりと笑い合ったのだった。















tapestries. 愛しい雛の育て方 終
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