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彼を解放してあげて、と平民の少女が叫んだ
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ゆったりとした静寂はいつだって急に切り裂かれるものだ。嬉しい驚きならば大歓迎だが、そうでなければただの迷惑な騒音だ。
学園の中庭で静かに詩集を開いていたルーナは落ちてきた影に視線を上げた。
「彼を解放してあげてください!ㅤお金で縛り付けるなんて最低な行為です!ㅤ彼は物じゃないの、もう、解放してあげて……っ」
目の前で少女が叫んでいる。庇護欲を刺激される見た目の、確かトラン・フリッグ。平民の少女だった、とルーナは記憶している。直接話したことは一度もないが、その存在だけは知っていた。
肩までのブルネットの髪が少女の動きに合わせてユラユラと揺れていて、彼女の活発さを表しているようだ。
急に目の前に現れた少女に突然な言葉を叫ばれて、ルーナは美しいプラチナブロンドの髪を優雅な動作で耳にかけながら、少女の背後にアンバー色の瞳を向けた。
「彼、というのは私の婚約者であるヘイリットのことかしら」
「それ以外に誰がいるんですか!」
間違いないかと確認をしただけなのにそう怒らないでほしいものだ、とルーナはこぼれ出そうになるため息を静かに飲み込んだ。
彼女の後ろで、美しく配置された顔のパーツを歪めて不機嫌そうにこちらを睨んでいる彼は、確かにルーナの婚約者だ。幼い頃に決まった婚約で、もう7年ほどの付き合いになる。
とは言っても婚約者という繋がりがあるだけで二人の間に何かしらの絆があったかと言われれば咄嗟に出てくる言葉は思いつかない。
「つまり、私と彼の婚約を解消して欲しいと。そういうことかしら?」
「そうです!ㅤもうこんな関係はやめてください!ㅤ彼が可哀想じゃないですか」
ルーナは首を傾げる。まるでルーナが悪役のようだ。
ㅤ可哀想、だと思ったことはあるが、現在の彼は別に可愛そうでは無いとルーナは思う。
「あなたも婚約を解消したいと、そう願っているの?」
目の前の少女が自分の婚約者と仲がいいらしいことは知っていた。一緒にいるところは同じ学園内で何度も見かけたことがあるし、外でも連れ歩いているようだ。
けれど、この婚約に目の前の少女は微塵も関係していない。だからルーナは婚約者であるヘイリットに静かに問いかける。
「当り前だ。金で買われた俺はずっとお前の玩具のようで、どれだけ惨めだったかお前には分かりもしないだろう」
ヘイリットは忌々しそうに頷いた。彼の意志も彼女と同じらしい。そしてその決意は固そうだ。
彼は昔からそうだった。婚約してから今までこうだった。
確かに彼は我が家に買われたも同然だ、とルーナも思っている。
ヘイリットは侯爵家の一人息子だが、彼の父が家を継いでから一気に財政が傾き始めた。いや、緩やかに悪い方に向かっていたが決定的になったのが今代だった、というのが正しいだろう。
別に侯爵家の人間が悪いわけではない。散財していたわけではなく、災害や疫病が重なって領地を建て直し続ける必要があり、資金が底を尽きかけていただけのよくある話だった。国からの援助は無くは無いが大きな金額が継続して降ってくるわけではない。
領地の民の生活のために、領地の人間から税を回収しなければいけない。そしてその還元は追いつかない。
そんな負の連鎖に困ったヘイリットの父である侯爵は、学生時代の友人だったルーナの父に、子供たちを婚約させてそれを理由に支援をして貰えないかと頼みにきた。
本当に困った様子で、差し出せるものは息子しか居ないのだがどうか、と必死な友人を助けたいと思ったルーナの父は、けれどしっかりと娘のルーナのことを愛して可愛がってくれていた。
子供を犠牲にするようだと悩んで頷くことができず、だが追い返すこともできずにいた。
悩む父に婚約してもいいと告げたのはルーナ自身だ。
融資を頼みに来たヘイリットの父は、無理なことを言っていると理解していた。ルーナの父が頷くという絶対的な確証も無さそうだった。藁をも掴む気持ちで、最初から最後まで申し訳なさそうで、下心も感じなかった。
ルーナの家アーベンドルク家は伯爵位だが国一番、いや大陸一と言えるほどの大富豪だ。そんな伯爵家を婚約を理由に利用してやろうだとか、甘い汁を吸おうだとかそんな考えは感じられなかった。
悪い印象は感じなかったからルーナは侯爵を、友人を助けたい父を助けようと婚約に頷いた。
政略等する必要も無いくらい財力も権力もあるアーベンドルク家では恋愛結婚が基本だが、ルーナは別に色恋に憧れがあるわけでもなかったし、成長しても恋愛に夢見るようなことはなかった。
正直国一番のお金持ちと言えるだろうアーベンドルク家が支援としてお金を渡すのは簡単だったが、貴族である以上最低限の体裁というものは必要だ。
言うなれば、支援するためのカモフラージュの婚約。
父の友人を助けるために、というより父の気持ちを助けるために、特に興味のない相手と婚約するくらいならルーナにとっては大したことではなかったのだ。
ルーナが婚約してもいいと頷いてからは、トントン拍子に話が進み、正式に婚約が結ばれてすぐにヘイリットはアーベンドルク家にやってきた。
息子にできることがあれば遠慮なく使って欲しい、と。
侯爵家にいるよりもいい暮らしが出来るだろうと送り出されたわけではない。くれぐれもアーベンドルク家の役にたつように、と父に何度も言い聞かせられながら言葉通り売られるようにやってきたヘイリットの意思はそこにはなかった。
ルーナもルーナの家族や使用人も、そんな彼を思いやって最大限気を使ってきたつもりだ。
衣食住はもちろん、彼が興味を示したものは全て与えて学べる環境も常に用意してきた。それがルーナやアーベンドルクの領地に全く関係ないことでも。
辛くないように寂しくないように、と本来の彼が一生経験できないことでもルーナの家の権力と財力で叶え続けてきたのだが。
彼がそれを理解してくれることはついになかったわね、とルーナの美しいアンバー色の瞳が、諦めに似た感情で僅かに陰る。
「いいわ。婚約は解消しましょう」
ルーナにとってヘイリットとの婚約自体に思い入れは無い。
即答できる答えを少し逡巡したのは、侯爵家の状況を考えたためだ。しかしそれも大丈夫だろうと思い至ってからは頷くことに迷いはなかった。
「いいのか……?」
二人の顔が悲痛な面持ちから一転して喜びに染まる。目を合わせて頬を染め合う様子は物語のワンシーンそのものだ。
「買われたというのならば返品させていただくわ。クーリングオフ期間はとっくに過ぎているでしょうから、もちろん、今までの分の返金は求めない。手続きはすぐにして解消の証明書をすぐにあなたにも渡すわね」
ここ数年は侯爵家の領地も安定していると聞いている。この婚約が無くなったところで違約金や慰謝料としての出費がなければ痛手にはならないはずだ。
なんの未練もないルーナは艶やかに輝く髪をなびかせて二人に背を向けた。やることは多い。
まだ婚約は正式に解消できていないとはいえ、ルーナが頷いたからにはそれは決定事項。関係の無くなった人間に使う時間など一秒たりとも存在しないのだ。
背後の二人に意識を向けることも無く、ルーナは颯爽に足をふみ出した。
□□□
なんの制約もない婚約の解消は簡単だ。
強い縛りがあったとしてもルーナとアーベンドルク家にとっては大した障害にもなりはしないが。
ヘイリットの実家の領地はもう既に安定していたし、今までの返済も求めないと言えば、彼の両親も反対はしなかった。ルーナとの結び付きが終わるのは色々な意味で残念がっていたが引き止めるようなことは無く円満解消だ。
お互い好きな人と結ばれるために、苦労してきた彼のことも解放したいのだとルーナが言えばむしろ感激したようで感謝された。
ヘイリットの両親である侯爵夫妻は、ルーナの婚約者だからと送られた大金を手にしても決して調子に乗ることはなかった。
本来なら軽くあしらわれて終わりなところを望まぬ婚約をしてまで助けてもらった。そのことに心の底から感謝して、だからこそ融資してもらった資金を元に必死に領地を建て直してきた。
マイナスからのスタートで、数年で黒字に戻し、どうにか余裕があるくらいには落ち着いてそこからはそのまま保ち続けている。
言葉通り売りに出したような息子の待遇も、本来ならありえないくらい最高の暮らしをさせてもらっていることも理解していて、アーベンドルク家には頭が上がらない、と常々言っていたほどだ。
だが、彼らは理解出来ていなかった。
その息子本人が、どれだけ自分が恵まれているか分かっていなかったなんて。
□□□
婚約してからヘイリットはアーベンドルク家の邸宅に部屋を用意されて暮らしていた。
もちろん使用人用の部屋や客間では無い。家族としてヘイリット用に家具を揃えた彼の部屋だ。だから、ヘイリットはルーナの家に帰ってくる。
ルーナは我が家に慣れた様子で帰ってきたヘイリットを待ち構えるようにして待っていた。彼を夕食に誘えば、嫌そうな顔をしながらもルーナの両親の誘いだからと言えば断ることはしなかった。
伯爵家に世話になっているという自覚は一応あるらしい。その家の愛娘であるルーナに対して取り繕うことすらしないのはどうかと思うが。
簡単に身支度を整えたヘイリットがやってくる頃には、食堂にはルーナとその両親、それに普段よりも豪華な食事が揃っていた。
屋敷のシェフの料理は最高級でいつも自慢だが、今日は夜会でも開くような豪華さだ、とルーナでさえ目を瞬かせてしまったほど。随分と気合いが入っている。
ヘイリットが席に着くと同時に、ルーナの父であり伯爵でもあるリトスが静かに口を開いた。
「君とルーナの婚約は正式に解消されたよ」
微笑みとともに淡々と告げられた言葉にヘイリットの口から「へ」と間の抜けた声が零れでる。
「ヘイリット君、君には苦労をかけたね。親友である君の父親の頼みだからとこの家に縛り付けてしまった。これからは我が家との縁も関係も切れて自由だ。夕食後に荷物とともに君の実家に送っていこう。さぁ、最後の晩餐を楽しんでいってくれ」
リトスの視線で使用人たちが暖かいスープと前菜の盛り合わせを運んでくる。テーブルの上に並べられている分だけでも豪華な晩餐になりそうだが、メイン料理は出来たてを運んでくるようだ。
優雅な動作でカトラリーを持ち上げる伯爵夫妻を見ながらヘイリットは呆然とした。
「そんな簡単に……?」
「貴方に言われてすぐにうちの両親と貴方のご両親に話をして手続きをしたから。手続きの処理は優先的にしてもらったけど、複雑な事情も無いし簡単なことよ」
貴族の婚約だから手続きが発生してはいるものの、ルーナとヘイリットの婚約はただの口約束のような軽いものだ。何を驚いているのかとルーナも淡々と答えて前菜を口に運んだ。
食事の後やで呆然としたままのヘイリットは、伯爵家の馬車に乗せられて去っていった。
伯爵家で用意したヘイリット用の家具も一緒に侯爵家に運ばれて行く。伯爵家からの贈り物だ、とリトスなりの気遣いらしい。
ヘイリットが知っていたかどうかはわからないが、ヘイリットが気軽に使っていたその全てはどれも優れた職人によるオーダーメイドの最高級品だ。職人一人で作成していることで作成数も少なく貴重価値も高い。貴族なら誰しも憧れると言っても過言では無い代物だった。
だが、ヘイリットはその価値なんて考えたこともなかっただろう、とルーナは思う。
今日の夕食だって最高級の食材を使って最高のシェフが作った物だったというのにあの様子では大して味わえなかっただろう。
勿体ないことをする、とルーナは消えていく馬車を見送った。
それなりに長かったはずの関係性も完全にここで終わり。少しばかり肩の荷がおりた気がする、とルーナは大きく伸びをした。
学園の中庭で静かに詩集を開いていたルーナは落ちてきた影に視線を上げた。
「彼を解放してあげてください!ㅤお金で縛り付けるなんて最低な行為です!ㅤ彼は物じゃないの、もう、解放してあげて……っ」
目の前で少女が叫んでいる。庇護欲を刺激される見た目の、確かトラン・フリッグ。平民の少女だった、とルーナは記憶している。直接話したことは一度もないが、その存在だけは知っていた。
肩までのブルネットの髪が少女の動きに合わせてユラユラと揺れていて、彼女の活発さを表しているようだ。
急に目の前に現れた少女に突然な言葉を叫ばれて、ルーナは美しいプラチナブロンドの髪を優雅な動作で耳にかけながら、少女の背後にアンバー色の瞳を向けた。
「彼、というのは私の婚約者であるヘイリットのことかしら」
「それ以外に誰がいるんですか!」
間違いないかと確認をしただけなのにそう怒らないでほしいものだ、とルーナはこぼれ出そうになるため息を静かに飲み込んだ。
彼女の後ろで、美しく配置された顔のパーツを歪めて不機嫌そうにこちらを睨んでいる彼は、確かにルーナの婚約者だ。幼い頃に決まった婚約で、もう7年ほどの付き合いになる。
とは言っても婚約者という繋がりがあるだけで二人の間に何かしらの絆があったかと言われれば咄嗟に出てくる言葉は思いつかない。
「つまり、私と彼の婚約を解消して欲しいと。そういうことかしら?」
「そうです!ㅤもうこんな関係はやめてください!ㅤ彼が可哀想じゃないですか」
ルーナは首を傾げる。まるでルーナが悪役のようだ。
ㅤ可哀想、だと思ったことはあるが、現在の彼は別に可愛そうでは無いとルーナは思う。
「あなたも婚約を解消したいと、そう願っているの?」
目の前の少女が自分の婚約者と仲がいいらしいことは知っていた。一緒にいるところは同じ学園内で何度も見かけたことがあるし、外でも連れ歩いているようだ。
けれど、この婚約に目の前の少女は微塵も関係していない。だからルーナは婚約者であるヘイリットに静かに問いかける。
「当り前だ。金で買われた俺はずっとお前の玩具のようで、どれだけ惨めだったかお前には分かりもしないだろう」
ヘイリットは忌々しそうに頷いた。彼の意志も彼女と同じらしい。そしてその決意は固そうだ。
彼は昔からそうだった。婚約してから今までこうだった。
確かに彼は我が家に買われたも同然だ、とルーナも思っている。
ヘイリットは侯爵家の一人息子だが、彼の父が家を継いでから一気に財政が傾き始めた。いや、緩やかに悪い方に向かっていたが決定的になったのが今代だった、というのが正しいだろう。
別に侯爵家の人間が悪いわけではない。散財していたわけではなく、災害や疫病が重なって領地を建て直し続ける必要があり、資金が底を尽きかけていただけのよくある話だった。国からの援助は無くは無いが大きな金額が継続して降ってくるわけではない。
領地の民の生活のために、領地の人間から税を回収しなければいけない。そしてその還元は追いつかない。
そんな負の連鎖に困ったヘイリットの父である侯爵は、学生時代の友人だったルーナの父に、子供たちを婚約させてそれを理由に支援をして貰えないかと頼みにきた。
本当に困った様子で、差し出せるものは息子しか居ないのだがどうか、と必死な友人を助けたいと思ったルーナの父は、けれどしっかりと娘のルーナのことを愛して可愛がってくれていた。
子供を犠牲にするようだと悩んで頷くことができず、だが追い返すこともできずにいた。
悩む父に婚約してもいいと告げたのはルーナ自身だ。
融資を頼みに来たヘイリットの父は、無理なことを言っていると理解していた。ルーナの父が頷くという絶対的な確証も無さそうだった。藁をも掴む気持ちで、最初から最後まで申し訳なさそうで、下心も感じなかった。
ルーナの家アーベンドルク家は伯爵位だが国一番、いや大陸一と言えるほどの大富豪だ。そんな伯爵家を婚約を理由に利用してやろうだとか、甘い汁を吸おうだとかそんな考えは感じられなかった。
悪い印象は感じなかったからルーナは侯爵を、友人を助けたい父を助けようと婚約に頷いた。
政略等する必要も無いくらい財力も権力もあるアーベンドルク家では恋愛結婚が基本だが、ルーナは別に色恋に憧れがあるわけでもなかったし、成長しても恋愛に夢見るようなことはなかった。
正直国一番のお金持ちと言えるだろうアーベンドルク家が支援としてお金を渡すのは簡単だったが、貴族である以上最低限の体裁というものは必要だ。
言うなれば、支援するためのカモフラージュの婚約。
父の友人を助けるために、というより父の気持ちを助けるために、特に興味のない相手と婚約するくらいならルーナにとっては大したことではなかったのだ。
ルーナが婚約してもいいと頷いてからは、トントン拍子に話が進み、正式に婚約が結ばれてすぐにヘイリットはアーベンドルク家にやってきた。
息子にできることがあれば遠慮なく使って欲しい、と。
侯爵家にいるよりもいい暮らしが出来るだろうと送り出されたわけではない。くれぐれもアーベンドルク家の役にたつように、と父に何度も言い聞かせられながら言葉通り売られるようにやってきたヘイリットの意思はそこにはなかった。
ルーナもルーナの家族や使用人も、そんな彼を思いやって最大限気を使ってきたつもりだ。
衣食住はもちろん、彼が興味を示したものは全て与えて学べる環境も常に用意してきた。それがルーナやアーベンドルクの領地に全く関係ないことでも。
辛くないように寂しくないように、と本来の彼が一生経験できないことでもルーナの家の権力と財力で叶え続けてきたのだが。
彼がそれを理解してくれることはついになかったわね、とルーナの美しいアンバー色の瞳が、諦めに似た感情で僅かに陰る。
「いいわ。婚約は解消しましょう」
ルーナにとってヘイリットとの婚約自体に思い入れは無い。
即答できる答えを少し逡巡したのは、侯爵家の状況を考えたためだ。しかしそれも大丈夫だろうと思い至ってからは頷くことに迷いはなかった。
「いいのか……?」
二人の顔が悲痛な面持ちから一転して喜びに染まる。目を合わせて頬を染め合う様子は物語のワンシーンそのものだ。
「買われたというのならば返品させていただくわ。クーリングオフ期間はとっくに過ぎているでしょうから、もちろん、今までの分の返金は求めない。手続きはすぐにして解消の証明書をすぐにあなたにも渡すわね」
ここ数年は侯爵家の領地も安定していると聞いている。この婚約が無くなったところで違約金や慰謝料としての出費がなければ痛手にはならないはずだ。
なんの未練もないルーナは艶やかに輝く髪をなびかせて二人に背を向けた。やることは多い。
まだ婚約は正式に解消できていないとはいえ、ルーナが頷いたからにはそれは決定事項。関係の無くなった人間に使う時間など一秒たりとも存在しないのだ。
背後の二人に意識を向けることも無く、ルーナは颯爽に足をふみ出した。
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なんの制約もない婚約の解消は簡単だ。
強い縛りがあったとしてもルーナとアーベンドルク家にとっては大した障害にもなりはしないが。
ヘイリットの実家の領地はもう既に安定していたし、今までの返済も求めないと言えば、彼の両親も反対はしなかった。ルーナとの結び付きが終わるのは色々な意味で残念がっていたが引き止めるようなことは無く円満解消だ。
お互い好きな人と結ばれるために、苦労してきた彼のことも解放したいのだとルーナが言えばむしろ感激したようで感謝された。
ヘイリットの両親である侯爵夫妻は、ルーナの婚約者だからと送られた大金を手にしても決して調子に乗ることはなかった。
本来なら軽くあしらわれて終わりなところを望まぬ婚約をしてまで助けてもらった。そのことに心の底から感謝して、だからこそ融資してもらった資金を元に必死に領地を建て直してきた。
マイナスからのスタートで、数年で黒字に戻し、どうにか余裕があるくらいには落ち着いてそこからはそのまま保ち続けている。
言葉通り売りに出したような息子の待遇も、本来ならありえないくらい最高の暮らしをさせてもらっていることも理解していて、アーベンドルク家には頭が上がらない、と常々言っていたほどだ。
だが、彼らは理解出来ていなかった。
その息子本人が、どれだけ自分が恵まれているか分かっていなかったなんて。
□□□
婚約してからヘイリットはアーベンドルク家の邸宅に部屋を用意されて暮らしていた。
もちろん使用人用の部屋や客間では無い。家族としてヘイリット用に家具を揃えた彼の部屋だ。だから、ヘイリットはルーナの家に帰ってくる。
ルーナは我が家に慣れた様子で帰ってきたヘイリットを待ち構えるようにして待っていた。彼を夕食に誘えば、嫌そうな顔をしながらもルーナの両親の誘いだからと言えば断ることはしなかった。
伯爵家に世話になっているという自覚は一応あるらしい。その家の愛娘であるルーナに対して取り繕うことすらしないのはどうかと思うが。
簡単に身支度を整えたヘイリットがやってくる頃には、食堂にはルーナとその両親、それに普段よりも豪華な食事が揃っていた。
屋敷のシェフの料理は最高級でいつも自慢だが、今日は夜会でも開くような豪華さだ、とルーナでさえ目を瞬かせてしまったほど。随分と気合いが入っている。
ヘイリットが席に着くと同時に、ルーナの父であり伯爵でもあるリトスが静かに口を開いた。
「君とルーナの婚約は正式に解消されたよ」
微笑みとともに淡々と告げられた言葉にヘイリットの口から「へ」と間の抜けた声が零れでる。
「ヘイリット君、君には苦労をかけたね。親友である君の父親の頼みだからとこの家に縛り付けてしまった。これからは我が家との縁も関係も切れて自由だ。夕食後に荷物とともに君の実家に送っていこう。さぁ、最後の晩餐を楽しんでいってくれ」
リトスの視線で使用人たちが暖かいスープと前菜の盛り合わせを運んでくる。テーブルの上に並べられている分だけでも豪華な晩餐になりそうだが、メイン料理は出来たてを運んでくるようだ。
優雅な動作でカトラリーを持ち上げる伯爵夫妻を見ながらヘイリットは呆然とした。
「そんな簡単に……?」
「貴方に言われてすぐにうちの両親と貴方のご両親に話をして手続きをしたから。手続きの処理は優先的にしてもらったけど、複雑な事情も無いし簡単なことよ」
貴族の婚約だから手続きが発生してはいるものの、ルーナとヘイリットの婚約はただの口約束のような軽いものだ。何を驚いているのかとルーナも淡々と答えて前菜を口に運んだ。
食事の後やで呆然としたままのヘイリットは、伯爵家の馬車に乗せられて去っていった。
伯爵家で用意したヘイリット用の家具も一緒に侯爵家に運ばれて行く。伯爵家からの贈り物だ、とリトスなりの気遣いらしい。
ヘイリットが知っていたかどうかはわからないが、ヘイリットが気軽に使っていたその全てはどれも優れた職人によるオーダーメイドの最高級品だ。職人一人で作成していることで作成数も少なく貴重価値も高い。貴族なら誰しも憧れると言っても過言では無い代物だった。
だが、ヘイリットはその価値なんて考えたこともなかっただろう、とルーナは思う。
今日の夕食だって最高級の食材を使って最高のシェフが作った物だったというのにあの様子では大して味わえなかっただろう。
勿体ないことをする、とルーナは消えていく馬車を見送った。
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