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#1 始まり
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「そう……どういうところが?」
「う~ん、雰囲気かなぁ」
「それって、喜んでいいの?」
「悪いことではないと思うけど、それとも……迷惑?」
東京を朝出発して阿蘇くまもと空港で小さく愛らしいデザインの航空機に乗り継ぐ。こぢんまりとした機内にはスーツを着た中年のビジネスマンや実に仲の良さそうな老夫婦、夏休みの家族連れなどが同乗している。途中、小学1年生くらいであろうか、ピンクのチェック柄ワンピースを着た肩にかかるくらいの髪の女の子が頬を紅潮させながら顔を窓に張りつけ、必死に何やら指をさしている。「ママ~、あれなにぃ~」 母親は一緒に窓を覗きこみ、細かく教えている。父親はそんな二人をにこやかに見つめて満足げ。
女の子の声を聞いて奏澄も眼下に広がる世界を見た。機体が高度を徐々に下げ始め、もうすぐ天草に到着する。以前、天草には空港がなくバスで長時間同じ風景を見ながら揺られるということもあった。もちろん今でもあるが、空港ができてからは非常に便利になった。決して大きな空港ではないが貴重な道である。
そういえば、こんなに景色をじっくりと見ることなんてなかったな、そんな思いが脳裏をかすめた。いつも家族で旅行に行っても母とおしゃべりに夢中になって外に何があるかなんて目もくれなかった。平行して飛んでいる鳥、その下におもちゃのように浮かぶ観光船、海岸線に打ち寄せる波しぶきまで見える。夢みたいな気分。
機体が着陸の準備に入る。風の影響を受けてか右に左に少しぐらつく。ドキドキしながらも車輪がしっかりと地面を捉え、最後は羽を労わるようにゆっくりと止まる。
天草空港に到着。
少し潮の香りがするのは気のせい? でも清々しい感じがする。機体を出てセミの声を背に空港ビルに向かう中、そう思った。
そして、ふと後ろを見てつぶやく。
「一週間後は、笑って帰れるかな」
奏澄は職場に一週間夏休みをもらい、旅行に来ている。ただ、旅行といっても楽しいものではない。女の子友達と一緒に観光やショッピングをするわけではない。「あっ、あのフリルかわいい」とか「このスイーツおいしい」といった日常にありふれた言葉で表せられるような旅ではない。ましてや彼氏とでもない。思い出を辿って一人ここに訪れている。
さすがに8月の陽射しは堪える。タクシーに乗って行き先を告げる。車内は涼しく居心地がいい。笑顔の絶えない運転手さんが道中、色々な話をしてくれる。観光するならあそこ、買い物に行くなら若い子に人気のあの店、おいしい海の幸を食べるなら海女さんが営む海沿いの店、泊まるなら代々引き継がれている若い夫婦の老舗旅館。この時期にきれいなハマボウが咲く公園の場所。口調も優しく一方的に話してくれるので今の私にはありがたい。
時々、私の不安な表情を察して気遣ってくれるが「大丈夫です」と微笑み返すと、「どこまで話しましたっけ?」と言いつつまた勢いよく話し始めた。運転手さんに悪いなという意識から軽く相槌を打つがそれでも受け流す。話はほとんど頭に入ってきていない。ずっと別のことが気になっていた。1時間10分くらいかかって目的地に着く。運転手さんに礼を言い、真正面に進む。
潮の香りが強くなっていた。
遠くまで澄む青い空、コバルトブルーに光る海、まばゆいばかりに輝く白い砂浜。目に映る一つ一つの天草の景色は見るごとに新鮮で心が洗われる。東京で生活しているからこそ思うのかもしれない。ここに住むとなったらまた別の話なのかなとも思う。ただ、現在の自分には必要な時間・空間であり、将来のためにはいつか来なければいけないと考えていた。なぜ、このタイミングで来たのかは分からないが今を逃すともう機会がない、そんな予感がしていた。
初めての地で奏澄はトングサンダルを脱いで手に持ち、砂浜を行く。背景には松林が並ぶ。
「……きれい」
焦茶の長い髪がなびく。目の前には天草灘が悠々と広がる。キュッキュッと歩く度に砂の心地いい音がする。素敵なメロディが浮かびそう。音楽大学音楽学部の作曲専攻卒である自分にまだそういった感性が残っていることに少し驚いた。同時にうれしかった。
白い砂に交じって貝殻がきらめいている。
手に取り、耳にかざす。
途切れ途切れに音が聞こえる。
集中しても、それはまだ離れたところに。
焦らされ胸が苦しくなる。
負けたくなくて、苦しさと音との境に自分を探す。
さらに耳を澄ます。
波の緒が伴奏する。
何とかその音を紡いで旋律を奏でたい。
もう少し、もう少し。
段々と遠くの方から姿が見え始める。
もっと近くに、もっと近くに。
そう、ゆっくりでもいいから。
私はここにいるから、会いに来て。
一つ一つの音がつながりだし、表情を感じ取れるようになってきた。
回りながら、そっと私を取り巻く微かな旋律。
旋律自らが理想の場所を私に求めている。
ほんのわずかに揺らめいていたはずの表情も色濃くなりだしている。
高まる感情。
それはもう、張り裂けそうになるくらい。
感じる。とても強く。
ようやく会える。
あと少し、すぐそこに……
「見えたっ!」
ほんの一瞬だった。
長いトンネルの奥から光が一気に射すように音が旋律となってはっきり聞こえたその瞬間、沖を航行する船の警笛で現実に戻った。確かに見えた。不思議な感情だった。しかし、なぜ、「聞こえた」ではなく「見えた」と叫んだのか。音も聞こえた。でも、色が見えた。青? 赤? 最初は冷たいと思ったけれど実は温かい。その温もりにずっとくるまれていたいと感じた。
例えば作曲したり、音楽を聴いたりしていて具体的に色を浮かべることは稀だ。曲のイメージから大雑把に、そして無意識に考えていることはあるかもしれない。
「今の曲……」
次第に涙が溢れてきた。堪えようとして泣かない、泣かないと考えるほど余計に溢れてくる。もう無理だ。緊張が解け、堪えるのをやめた。どうにでもなってしまえばいい。幸いここには人の姿がほとんどない。距離を置いた場所で白いあごひげのおじいさんが海をほっこりと眺めているだけ。誰も気になどしない。
気づかされた。
私の方が、旋律を求めていたんだ。
どれだけ泣いたか、1分、2分、いや、30分にも1時間にも感じた。泣くとなぜこんなにも気持ちがすっきりするのだろう。空に顔を向け、陽光が目に入った。
左手の時計に目を遣る。大切な時計。すでに正午を30分過ぎていた。思いきり泣いたらお腹が減ってきた。人間って面白い。タクシーの運転手さんの話を思い出してみる。思い出すといってもほとんど聞いていないのだから思い出せない。無理もない。ない知恵を絞って考える。空腹じゃ元も子もない。
「海、ごはん……海の幸、あと何か特徴があったような気が」
とりあえず一度、浜を出る。辺りを見回す。タクシーで来た時は気づかなかったが緑が多く、旅館や食事処の看板がいくつか見える。その目印を頼りに歩く。距離はあるが一本道だから迷うことはない。日本にもこういう心の休まる場所がまだあるんだなと歩を進めながら思いに耽る。看板が大きくなってきた。
いかにも昔からある風情のそこは京都の街並みにあるような木材を基調とした設計になっている。『海の幸 海女草』と書かれた看板は海の風に吹かれ朽ちかけ、今にも頭に降ってきそう。そういえば、あの運転手さん、海女さんがどうのって言っていたっけ。
「海の幸 あま……くさって読むのかな?」
海女さんジョークかなと苦笑しつつ、門をくぐる。内部は10畳ほどの空間で、こちらも木材を基調としている。天井の梁からは紐で吊るされ、干された魚が何匹もいる。あいにく料理の知識には疎いので種類が分からない。
客は漁師風の腕っ節のいい赤ら顔おじさんが2人。酒が入っているのだろう。手元には煮付けの皿がある。キンメか? 根拠はない。煮付けで数少ない自分の料理引き出しを開けてみたらそこにぽつんと、それはそれはかわいらしいキンメくんがそこからうるうるとした眼でこちらをじっと見つめており、運悪く目が合ってしまっただけ。
カウンター席に腰かける。すぐに恰幅のいいおばあさんが麦茶を持ってきた。お品書きから一番に目に入ったものを頼んだ。麦茶を口に含み、目の端で「あいよぉ~、ちょっと待ってねぇ」そう言いながら厨房の方に向かう後ろ姿を追い、あのおばあさんが海女さんなのかなと考えをめぐらせた。
「お嬢さん、日本酒でも飲むかいのぉ?」
漁師風のおじさんが声をかけてきた。
「いえ、お酒弱いので」
丁重に断ると彼らは残念そうな顔をした。本当のところ酒は強い。ただ今日は酒を飲む気にはなれない。
「そんじゃあ、カレイはどうかいのぉ?」
カレイ? あぁ、あの煮付けってカレイだったんだ。ごめんよ、キンメくん。
「あぁ、はい。ありがとうございます」
人の親切を断りすぎるのも失礼かなと思い、それは頂くことにした。食べたことあるのかな。
「あっ、おいしい」
思わず声に出た。
「そうなのよぉ。天草のカレイはうまいんだってぇ、それにおっかさんの味付けも最高、うんうん」
意外と接してみると話しやすい気さくな人なのかもしれない。少年のように話す彼らを見て微笑ましく思い、元気が出た。カレイを漢字で書くと鰈。右側のつくりは葉に由来する薄いものを表しているとされる。物事には由来があり、どこかしらでつながっている。その出会いは偶然のようでいて必然なのかもしれない。人間も同じ。
「あい、お待ちぃ」
待ちに待った料理が出された。『海女さんオススメ! たっぷり海鮮丼』。お品書きの通り一人では食べきれないほどの量。マグロにサーモン、イカ、ウニ、イクラ。カニまで入っている。マグロを一口頬張る。非常に脂がのっていて滑らかな舌触り、口の中ですぐに溶けていく。新鮮な魚介はこんなにもおいしいんだ。
今まで私が食べてきたものは高級な店のものだった。幼い頃から物に不自由することはなく、いわゆるお嬢様育ちなのである。東京は成城学園前、萌黄や千歳緑、常磐緑、深緑といった種々の葉の茂る閑静な住宅街である。両親と暮らし、秋には支子色や丹色、緋色、琥珀色などが彩なす趣のある街である。
そんな私が食べてきた高級食、それはそれで美味であるが何か足りない。何だろうか。窓越しにはためく風鈴の音を聞きながらサーモン、イカと流れるように食していく。
「香り……潮の香り、かな」
人間の五感、視覚・聴覚・味覚・嗅覚・触覚のうち私の場合、聴覚と嗅覚が特別に思える。あくまでも私に限ってであり、考えは人それぞれである。まず聴覚。3歳の頃からピアノ教室に通い、中学生の頃に見た映画に魅せられ同時にその映画音楽にも心を奪われた。ストーリーに適った旋律、間を上手く読み取り構成された拍子・和音。どうしたらこんな音楽が作れるのか不思議で仕方なかった。音楽一つだけでもストーリーが十分に浮かべられる。これを契機に音大で作曲を志そうと思った。
音で満たされた人生なので切っても切り離すことはできない。よくテレビで昔の曲を聴いているとその当時自分が何をしていたか思い出すことがある。忘れかけていた記憶が蘇ってくる。この感覚はどこから来るのか、本能なのか、興味深い。
同様に嗅覚。街を歩いている時にすれ違った女性の香水。前にどこかで嗅いだことがあるような感じを覚え、過去を振り返る。他にも、旅行で訪れた地の匂い。京都には伝統的な和の香り、沖縄には人々を元気にする太陽の温もりの香り、そしてここ天草の潮の香り。
「ふ~、お腹いっぱい」
全部食べてしまった。職場に戻ったら同僚の女子に何か言われそう。そんな余計なことまで気になってしまう。麦茶をもう一口流しこんで一息ついた後、おばあさんに「おいしかったです」と勘定をすると「また、来てなぁ」と送られた。孫くらいの歳に見えているのかな、私って。女性であれば若く見られるのはうれしいが26歳ですよ、もぉ。
「戻りますか」
「う~ん、雰囲気かなぁ」
「それって、喜んでいいの?」
「悪いことではないと思うけど、それとも……迷惑?」
東京を朝出発して阿蘇くまもと空港で小さく愛らしいデザインの航空機に乗り継ぐ。こぢんまりとした機内にはスーツを着た中年のビジネスマンや実に仲の良さそうな老夫婦、夏休みの家族連れなどが同乗している。途中、小学1年生くらいであろうか、ピンクのチェック柄ワンピースを着た肩にかかるくらいの髪の女の子が頬を紅潮させながら顔を窓に張りつけ、必死に何やら指をさしている。「ママ~、あれなにぃ~」 母親は一緒に窓を覗きこみ、細かく教えている。父親はそんな二人をにこやかに見つめて満足げ。
女の子の声を聞いて奏澄も眼下に広がる世界を見た。機体が高度を徐々に下げ始め、もうすぐ天草に到着する。以前、天草には空港がなくバスで長時間同じ風景を見ながら揺られるということもあった。もちろん今でもあるが、空港ができてからは非常に便利になった。決して大きな空港ではないが貴重な道である。
そういえば、こんなに景色をじっくりと見ることなんてなかったな、そんな思いが脳裏をかすめた。いつも家族で旅行に行っても母とおしゃべりに夢中になって外に何があるかなんて目もくれなかった。平行して飛んでいる鳥、その下におもちゃのように浮かぶ観光船、海岸線に打ち寄せる波しぶきまで見える。夢みたいな気分。
機体が着陸の準備に入る。風の影響を受けてか右に左に少しぐらつく。ドキドキしながらも車輪がしっかりと地面を捉え、最後は羽を労わるようにゆっくりと止まる。
天草空港に到着。
少し潮の香りがするのは気のせい? でも清々しい感じがする。機体を出てセミの声を背に空港ビルに向かう中、そう思った。
そして、ふと後ろを見てつぶやく。
「一週間後は、笑って帰れるかな」
奏澄は職場に一週間夏休みをもらい、旅行に来ている。ただ、旅行といっても楽しいものではない。女の子友達と一緒に観光やショッピングをするわけではない。「あっ、あのフリルかわいい」とか「このスイーツおいしい」といった日常にありふれた言葉で表せられるような旅ではない。ましてや彼氏とでもない。思い出を辿って一人ここに訪れている。
さすがに8月の陽射しは堪える。タクシーに乗って行き先を告げる。車内は涼しく居心地がいい。笑顔の絶えない運転手さんが道中、色々な話をしてくれる。観光するならあそこ、買い物に行くなら若い子に人気のあの店、おいしい海の幸を食べるなら海女さんが営む海沿いの店、泊まるなら代々引き継がれている若い夫婦の老舗旅館。この時期にきれいなハマボウが咲く公園の場所。口調も優しく一方的に話してくれるので今の私にはありがたい。
時々、私の不安な表情を察して気遣ってくれるが「大丈夫です」と微笑み返すと、「どこまで話しましたっけ?」と言いつつまた勢いよく話し始めた。運転手さんに悪いなという意識から軽く相槌を打つがそれでも受け流す。話はほとんど頭に入ってきていない。ずっと別のことが気になっていた。1時間10分くらいかかって目的地に着く。運転手さんに礼を言い、真正面に進む。
潮の香りが強くなっていた。
遠くまで澄む青い空、コバルトブルーに光る海、まばゆいばかりに輝く白い砂浜。目に映る一つ一つの天草の景色は見るごとに新鮮で心が洗われる。東京で生活しているからこそ思うのかもしれない。ここに住むとなったらまた別の話なのかなとも思う。ただ、現在の自分には必要な時間・空間であり、将来のためにはいつか来なければいけないと考えていた。なぜ、このタイミングで来たのかは分からないが今を逃すともう機会がない、そんな予感がしていた。
初めての地で奏澄はトングサンダルを脱いで手に持ち、砂浜を行く。背景には松林が並ぶ。
「……きれい」
焦茶の長い髪がなびく。目の前には天草灘が悠々と広がる。キュッキュッと歩く度に砂の心地いい音がする。素敵なメロディが浮かびそう。音楽大学音楽学部の作曲専攻卒である自分にまだそういった感性が残っていることに少し驚いた。同時にうれしかった。
白い砂に交じって貝殻がきらめいている。
手に取り、耳にかざす。
途切れ途切れに音が聞こえる。
集中しても、それはまだ離れたところに。
焦らされ胸が苦しくなる。
負けたくなくて、苦しさと音との境に自分を探す。
さらに耳を澄ます。
波の緒が伴奏する。
何とかその音を紡いで旋律を奏でたい。
もう少し、もう少し。
段々と遠くの方から姿が見え始める。
もっと近くに、もっと近くに。
そう、ゆっくりでもいいから。
私はここにいるから、会いに来て。
一つ一つの音がつながりだし、表情を感じ取れるようになってきた。
回りながら、そっと私を取り巻く微かな旋律。
旋律自らが理想の場所を私に求めている。
ほんのわずかに揺らめいていたはずの表情も色濃くなりだしている。
高まる感情。
それはもう、張り裂けそうになるくらい。
感じる。とても強く。
ようやく会える。
あと少し、すぐそこに……
「見えたっ!」
ほんの一瞬だった。
長いトンネルの奥から光が一気に射すように音が旋律となってはっきり聞こえたその瞬間、沖を航行する船の警笛で現実に戻った。確かに見えた。不思議な感情だった。しかし、なぜ、「聞こえた」ではなく「見えた」と叫んだのか。音も聞こえた。でも、色が見えた。青? 赤? 最初は冷たいと思ったけれど実は温かい。その温もりにずっとくるまれていたいと感じた。
例えば作曲したり、音楽を聴いたりしていて具体的に色を浮かべることは稀だ。曲のイメージから大雑把に、そして無意識に考えていることはあるかもしれない。
「今の曲……」
次第に涙が溢れてきた。堪えようとして泣かない、泣かないと考えるほど余計に溢れてくる。もう無理だ。緊張が解け、堪えるのをやめた。どうにでもなってしまえばいい。幸いここには人の姿がほとんどない。距離を置いた場所で白いあごひげのおじいさんが海をほっこりと眺めているだけ。誰も気になどしない。
気づかされた。
私の方が、旋律を求めていたんだ。
どれだけ泣いたか、1分、2分、いや、30分にも1時間にも感じた。泣くとなぜこんなにも気持ちがすっきりするのだろう。空に顔を向け、陽光が目に入った。
左手の時計に目を遣る。大切な時計。すでに正午を30分過ぎていた。思いきり泣いたらお腹が減ってきた。人間って面白い。タクシーの運転手さんの話を思い出してみる。思い出すといってもほとんど聞いていないのだから思い出せない。無理もない。ない知恵を絞って考える。空腹じゃ元も子もない。
「海、ごはん……海の幸、あと何か特徴があったような気が」
とりあえず一度、浜を出る。辺りを見回す。タクシーで来た時は気づかなかったが緑が多く、旅館や食事処の看板がいくつか見える。その目印を頼りに歩く。距離はあるが一本道だから迷うことはない。日本にもこういう心の休まる場所がまだあるんだなと歩を進めながら思いに耽る。看板が大きくなってきた。
いかにも昔からある風情のそこは京都の街並みにあるような木材を基調とした設計になっている。『海の幸 海女草』と書かれた看板は海の風に吹かれ朽ちかけ、今にも頭に降ってきそう。そういえば、あの運転手さん、海女さんがどうのって言っていたっけ。
「海の幸 あま……くさって読むのかな?」
海女さんジョークかなと苦笑しつつ、門をくぐる。内部は10畳ほどの空間で、こちらも木材を基調としている。天井の梁からは紐で吊るされ、干された魚が何匹もいる。あいにく料理の知識には疎いので種類が分からない。
客は漁師風の腕っ節のいい赤ら顔おじさんが2人。酒が入っているのだろう。手元には煮付けの皿がある。キンメか? 根拠はない。煮付けで数少ない自分の料理引き出しを開けてみたらそこにぽつんと、それはそれはかわいらしいキンメくんがそこからうるうるとした眼でこちらをじっと見つめており、運悪く目が合ってしまっただけ。
カウンター席に腰かける。すぐに恰幅のいいおばあさんが麦茶を持ってきた。お品書きから一番に目に入ったものを頼んだ。麦茶を口に含み、目の端で「あいよぉ~、ちょっと待ってねぇ」そう言いながら厨房の方に向かう後ろ姿を追い、あのおばあさんが海女さんなのかなと考えをめぐらせた。
「お嬢さん、日本酒でも飲むかいのぉ?」
漁師風のおじさんが声をかけてきた。
「いえ、お酒弱いので」
丁重に断ると彼らは残念そうな顔をした。本当のところ酒は強い。ただ今日は酒を飲む気にはなれない。
「そんじゃあ、カレイはどうかいのぉ?」
カレイ? あぁ、あの煮付けってカレイだったんだ。ごめんよ、キンメくん。
「あぁ、はい。ありがとうございます」
人の親切を断りすぎるのも失礼かなと思い、それは頂くことにした。食べたことあるのかな。
「あっ、おいしい」
思わず声に出た。
「そうなのよぉ。天草のカレイはうまいんだってぇ、それにおっかさんの味付けも最高、うんうん」
意外と接してみると話しやすい気さくな人なのかもしれない。少年のように話す彼らを見て微笑ましく思い、元気が出た。カレイを漢字で書くと鰈。右側のつくりは葉に由来する薄いものを表しているとされる。物事には由来があり、どこかしらでつながっている。その出会いは偶然のようでいて必然なのかもしれない。人間も同じ。
「あい、お待ちぃ」
待ちに待った料理が出された。『海女さんオススメ! たっぷり海鮮丼』。お品書きの通り一人では食べきれないほどの量。マグロにサーモン、イカ、ウニ、イクラ。カニまで入っている。マグロを一口頬張る。非常に脂がのっていて滑らかな舌触り、口の中ですぐに溶けていく。新鮮な魚介はこんなにもおいしいんだ。
今まで私が食べてきたものは高級な店のものだった。幼い頃から物に不自由することはなく、いわゆるお嬢様育ちなのである。東京は成城学園前、萌黄や千歳緑、常磐緑、深緑といった種々の葉の茂る閑静な住宅街である。両親と暮らし、秋には支子色や丹色、緋色、琥珀色などが彩なす趣のある街である。
そんな私が食べてきた高級食、それはそれで美味であるが何か足りない。何だろうか。窓越しにはためく風鈴の音を聞きながらサーモン、イカと流れるように食していく。
「香り……潮の香り、かな」
人間の五感、視覚・聴覚・味覚・嗅覚・触覚のうち私の場合、聴覚と嗅覚が特別に思える。あくまでも私に限ってであり、考えは人それぞれである。まず聴覚。3歳の頃からピアノ教室に通い、中学生の頃に見た映画に魅せられ同時にその映画音楽にも心を奪われた。ストーリーに適った旋律、間を上手く読み取り構成された拍子・和音。どうしたらこんな音楽が作れるのか不思議で仕方なかった。音楽一つだけでもストーリーが十分に浮かべられる。これを契機に音大で作曲を志そうと思った。
音で満たされた人生なので切っても切り離すことはできない。よくテレビで昔の曲を聴いているとその当時自分が何をしていたか思い出すことがある。忘れかけていた記憶が蘇ってくる。この感覚はどこから来るのか、本能なのか、興味深い。
同様に嗅覚。街を歩いている時にすれ違った女性の香水。前にどこかで嗅いだことがあるような感じを覚え、過去を振り返る。他にも、旅行で訪れた地の匂い。京都には伝統的な和の香り、沖縄には人々を元気にする太陽の温もりの香り、そしてここ天草の潮の香り。
「ふ~、お腹いっぱい」
全部食べてしまった。職場に戻ったら同僚の女子に何か言われそう。そんな余計なことまで気になってしまう。麦茶をもう一口流しこんで一息ついた後、おばあさんに「おいしかったです」と勘定をすると「また、来てなぁ」と送られた。孫くらいの歳に見えているのかな、私って。女性であれば若く見られるのはうれしいが26歳ですよ、もぉ。
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