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#2 俊介、そして風が止み……
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歳を経るごとに独り言が多くなってきた。来た道を戻り、再び砂浜に足を踏み入れた。太陽は南中高度に達している。
キュッキュッ、さっきと同じ音。キュッキュッ、やっぱり同じ音。岩陰にもたれ、魚を追って飛び回っているカモメの群れを眺めながら東京で俊介に言われたことを振り返っていた。
「雰囲気……か」
一週間前、一年ぶりに会って初めて言われた。今までそんなこと誰にも言われたことがなかった。いや、周りが敢えて言わないようにしていたのかもしれない。それに自分でも考えたことがなかった……というか気づいていても考えたくない部分があった。考えた先に何が待っているのか。うれしいことを「うれしい」と、悲しいことを「悲しい」と言えなくなる自分に出会い、永遠に人と心を共有できない寂寥たる自分につきまとわれると思っていた。
自分で思う自分の性格と他人が思う自分の性格、そこに差があると自分には陰の部分が多いということになるのか。そうは言っても自分の性格なんて自分にしか分からないと思うし、陰の部分がむしろ本当の自分なのかもしれない。結局、本当の自分ってなんなんだろうと散々回り道をした挙句、いつも振り出しに戻ってしまう。
答えなんてあるのか、あるとしたらどこに、どうしたら手に入る、それともどこかに忘れているだけなのか。空はいつも見るばかり、もし空に意思とか理性とかあるのなら教えてほしい。毎日、朝から晩まで様々な表情を持っているならそれができるでしょ、ねぇ? なんて問い詰めたくなる。または誰か優しい人が突然現れてその人が導いてくれる時を風に吹かれながら待つしかないの?
「いつよ、それは」
奏澄は波打ち際まで行き、水面に映った自分の顔を覗いた。そこにはいつもと変わらない顔があった。背景には雲が流れている。私のことなんて気にもかけていないかのようにゆったりと。数秒間自分を見つめた後、その水面に映った自分がまるで本当の自分であるかのように丁寧に壊さないように、そっと手のひらですくい上げようとした。しかし、波紋で顔が見えなくなるだけ。紋の漂うその表情にあなたには無理よ、そう言われているような気がした。
「ふ~っ」
溜め息交じりに自嘲した奏澄はバッグの中から譜面を手に取った。見るのもつらかったそれを今回、覚悟を決めて持ってきた。そこには空白の曲名と共に無数の手書きの文字が記されていた。小節、音楽記号ごとの楽曲の特徴や演奏のポイント。懐かしく切ない、そんな思い出しか今は出てこない。奏澄も切ないこの曲を気に入っている。目をつむり、1小節ずつ噛みしめながら音符を追っていく。
貝殻から聞こえた旋律。
断片的だった音が頭の中でつながり始め、色が現れる。霞のかかった森の深奥からストーリーが次第に映像となって映し出される。
ただ、霞がきれいに晴れることはない。肝心なところで音と映像は私から離れていく。
この一週間では答えが見つからないかもしれないけれど、それに少しでも近づきたい。何かしらのけじめをつけなければいけない。
キュッキュッ、すぐそばで砂を踏みしめる音がした。
「元気ないね、そんな暗い顔して。美人がもったいない」
「シュン、何でここに?」
「カスミお嬢様が泣いてるって聞いたもんでね」
「はいはい」
「つれないね。まぁ、そこがいいんだけど。これ、はい」
「何これ?」
「さっき、そこの店で買った。"がねあげ"って言うらしいよ」
「がねあげ?」
「おやつみたいなもんなのかな? 天ぷらっぽくも見えるけど」
「……」
「カスミ?」
これが、がねあげなんだ。
「あっ、もしかしてこういうの嫌い?」
「ううん、好きよ。ありがとう。いただきま~す」
二人同時に口へ運ぶ。
「なかなかうまいじゃん!」
「うん、おいしい」
天草の味なんだね。この味が。初めて食べたとは感じられない昔を思い起こす味。海鮮丼を食べた上でもすんなりと入った。俊介の言った通り、おやつみたいな感覚なのかな?
「シュン、仕事は?」
「辞めた」
「冗談でしょ?」
「マジですよ」
「ふ~ん、優等生でもそういうことするんだ」
「優等生にも悩みはあるんだよ」
「ん? 嫌味にしか聞こえないんだけど」
加瀬俊介、友人からはシュンと呼ばれている。奏澄とは音大の同級生である。音楽学部のヴァイオリン専攻で学生オーケストラのコンサートマスター経験者。コンサートマスターは普段、コンマスと呼ばれ、オーケストラ(オケ)における第1ヴァイオリンの首席奏者である。簡単に言うとオケのリーダー。演奏の技量はもちろん、他のメンバーのお手本になれる人格も必要になる。それほどに難しいポジション。大学卒業後は親の勧めもあり、神奈川県の川崎市に入職した。市内の区役所に勤め、主に社会保険の窓口を担当していた。
「あぁ~あ」
思い切り伸びをする俊介。タイミングを計る。
「……」
「何よ」
「いや、本当は先週会った時に言おうかと思ったんだけど、切り出せなくて」
「それで?」
「……俺、今度新しく設立される神奈川のプロオケに入るよ。大学卒業してからも個人的に音楽は続けていたけど、やっぱり本格的な音楽をやりたい。単純かもしれない、もっとヴァイオリンが上手くなりたい」
「いいんじゃない」
「えっ、それだけ? 随分あっさり。もっとさぁ、こう何て言うのかな、あの~」
「いいと思うよ……っていうか大卒でてっきりそのままプロオケに入るのかなとか思ってたから、むしろ今ここにいる方が変」
「変って。俺、やっていけるかな?」
真面目な顔で奏澄の顔色を窺う。
「じゃあ、入るのやめようか」
俊介の視線をかわし、遠くを見ながらそっけなく言う。
「いや、もう手続き終わってるし、それに……」
「答え出てるじゃない、やりたいから行くんでしょ」
俊介の言葉を遮るように言った。
「そうだけど」
「大丈夫だよ。うちの学校で飛び抜けて上手かったんだし、しかもコンマスじゃん。なりたくてもなかなかなれないよ」
「まぁ」
「最近は日本人も演奏技術、かなり上がってるから、いい機会だと思うよ。プロオケ」
「プロか」
「定期演奏会、行ってあげるからさ。一流の音楽を聴かせてよ」
「プレッシャーかけるなって」
「素敵じゃない? 神奈川以外でも演奏する機会あるんでしょ? 色んな土地でワインヤードタイプだったり、シューボックスタイプだったり、それぞれのホールで演奏できるなんて経験、うらやましいよ」
「やるしかないか」
「そうそう、やってみなきゃ」
「ありがとう。緊張がほぐれた。体が軽くなった気がする」
「それって私へのあてつけ? さっき『海女さんオススメ! たっぷり海鮮丼』食べて、『がねあげ』も食べたから? 太ったってこと?」
「何だそれ? んっ? 待てよ。そう言われてみれば」
「こらっ」
「ごめん、ごめん、今も昔も変わらないカスミお嬢様ですよ」
「もぉ~」
二人の間を生暖かい風がそよいでいく。時刻は3時30分。沈黙が続く。
「まだ、吹っ切れないか」
俊介が口火を切る。
「まぁね」
「それもありだと思うよ」
「どういう意味?」
「気持ちの切り替えは必要だと思うけど、無理に考えなくてもいいんじゃないかな」
「そうかな」
「でも、いつか答えは出るから。そのために、この瞬間瞬間が大事だよ、カスミ」
立場が逆転する。
嫌だ、嫌だ、本当に……どうしよう、泣きたくないよ。奏澄は咄嗟に顔を伏せる。こんな弱い自分、誰にも見せたくない。砂をきつく握りしめる。人からは頼りにされる芯の強いお姉さん的な存在の私が人を頼るなんて。人にアドバイスはできるのに自分のこととなると耳を塞ぎたくなる。
何も聞きたくない、ここから消えたい、一人になりたい、放っておいて、もう誰も……
俊介が奏澄の両肩にそっと手を置き、顔を上げさせる。
「カスミ、大丈夫だよ」
奏澄にはもう青い空も海も俊介も涙で見えなくなっている。潮の香り、音さえも感じられない。奏澄は泣き顔を隠すように俊介の胸で号泣した。俊介は奏澄を気の済むまで泣かせ、いつまでも優しく受け止めた。
波が寄せ、砂をさらう。引いた跡に砂浜の濃い茶色が残る。
やがて、天草灘の波音が聞こえ出す。潮の香りも分かるようになってきた。奏澄は顔を上げ、俊介を見る。
「すっきりした?」
「うん。ありがとう」
「しかし、最高の海だね。まったく」
風が弱くなってきた。
俊介の顔を見つめたままの奏澄がぼそっとつぶやく。
「オケ、いつから?」
「来週」
「そっか。頑張ってこいよぉ、コンマスぅ」
「ははっ、いつものお嬢様に戻ったな」
「私、泣いてなんかないから」
「はいはい」
「嫌な感じ」
「じゃあ、俺行くわ。今日は、ここの近くに泊まって明日の朝帰るよ。譜面さらわないと。優等生は忙しくてね」
「うん」
苦笑する。
「カスミは、この後どうするの?」
「宿探そうかな、決めてなかったから」
「度胸据わってるな」
「あたくしを誰だと思って?」
「ぷぷっ」
思わず噴いた。
「俺の泊まる旅館教えとくよ。宿見つからなかったら、ここに来な。携帯に連絡くれてもいいし、番号は前と変わってないから」
俊介は持っていた手帳の端に旅館の名前と場所を記入し、それをちぎって奏澄に手渡した。
奏澄は笑顔で応えた。
俊介の姿が小さくなっていく。それを追いかけるように足跡が続く。その足跡もまもなく風に流されていく。
奏澄は何を考えるでもなくその場にとどまる。絶え間なく揺らめく波も、浜に佇む貝殻の一片一片も、いつしか夕陽の黄や赤を反射し始めている。一日の終わりを懐かしむように。
一瞬、風が止まった。
風向きが変わる。
体が海に誘われそうになる。このままこの海に身を任せてしまおうか。一人になるとまた考えたくなってしまう。黄赤の底から漆黒が闇を連れてやってくる。付いていけば、楽になれるのだろうか。
体が意識を持たないまま動く。
一歩、また一歩。
風が心地いい。
視界が狭くなる。
足元に柔らかい冷たさを感じる。
そして、その感覚さえも次第に途切れる。
「……ハルも来たんだよね、この浜」
空が夕陽に馴染んでいく。
「本当は何考えてたの?」
ウミドリが黄赤に向かって飛ぶ。
「答えてよ」
「……色んなこと。音楽、仕事、人生、これまでの自分、これからの自分、もちろんカスミのことも」
「どうして一人で?」
「一人になりたかった」
「私は……どうなるの?」
「天草は俺にとって大切な場所だし、何というか……」
「答えになってないよ」
「ごめん、一人でじっくり考えたかったんだ」
「気持ちは分かるよ。私だってそういうこともある」
春仁は目を伏せる。
「でも、淋しいね」
奏澄が続ける。
「私は何? あなたにとって」
「ハルのことは何でも知りたい」
「いいことも悪いことも、面白いこともつまらないことも」
「聞くよ」
「……カスミは生きてて楽しい?」
「楽しい、よ。ある意味」
発した言葉とは逆にわだかまりが残る。
「仕事は?」
「それは大変なこともあるよ。辞めたいと思ったことも何度かある。それでも続けられているのは何よりも好きな音楽を……」
そこまで言った途端、奏澄は言葉に詰まった。聞かれたことに対して思ったことをつい言ってしまいそうになった。奏澄は音大・作曲専攻を卒業して4年目の現在、都内の音楽ホールでステージマネージャーアシスタントをしている。
大学では楽典・楽式論・和声法・対位法・管弦楽法などを一通り学んだ。ピアノも得意である。これらの経験を活かし、作曲以外のことにも挑戦してみたいという思いからステージマネージャーに興味を持った。ステージマネージャーとは舞台裏の責任者である。例えばコンサートの指揮者・楽員に対する出入りの促しや照明の確認、譜面台や椅子のセッティングなど広くステージを支え、無事に進行させる仕事。
「好きな音楽を?」
奏澄は躊躇する。
「俺のことは気にしないでいいから」
俯き、奏澄は言葉をつなぐ。
「好きな音楽を仕事にできてるってとても楽しいし、きれい事かもしれないけれど私は仕事って地位とか名誉とかじゃ計れないと思うし、つまりお金でもなくてやっぱり自分のやりたいことをするのが一番だと思う」
「そうだね。自分のやりたいことを仕事にできてる人ってどれくらいいるんだろう」
「ほとんどいないと思う。だけどそれを理由に自分の本当の気持ちを隠さないでほしい。気持ちが一番だよ」
「時々、自問自答するんだ。何のための人生かって。自分には学があるわけでもない。運動に秀でてるわけでもない。楽器はできるけど、それができたとしても社会で何の役に立つのかって」
「そんなこと、言わないでよ」
奏澄は春仁の気持ちを理解しているつもり。春仁とは同じ大学に通い、4年次に知り合った。
キュッキュッ、さっきと同じ音。キュッキュッ、やっぱり同じ音。岩陰にもたれ、魚を追って飛び回っているカモメの群れを眺めながら東京で俊介に言われたことを振り返っていた。
「雰囲気……か」
一週間前、一年ぶりに会って初めて言われた。今までそんなこと誰にも言われたことがなかった。いや、周りが敢えて言わないようにしていたのかもしれない。それに自分でも考えたことがなかった……というか気づいていても考えたくない部分があった。考えた先に何が待っているのか。うれしいことを「うれしい」と、悲しいことを「悲しい」と言えなくなる自分に出会い、永遠に人と心を共有できない寂寥たる自分につきまとわれると思っていた。
自分で思う自分の性格と他人が思う自分の性格、そこに差があると自分には陰の部分が多いということになるのか。そうは言っても自分の性格なんて自分にしか分からないと思うし、陰の部分がむしろ本当の自分なのかもしれない。結局、本当の自分ってなんなんだろうと散々回り道をした挙句、いつも振り出しに戻ってしまう。
答えなんてあるのか、あるとしたらどこに、どうしたら手に入る、それともどこかに忘れているだけなのか。空はいつも見るばかり、もし空に意思とか理性とかあるのなら教えてほしい。毎日、朝から晩まで様々な表情を持っているならそれができるでしょ、ねぇ? なんて問い詰めたくなる。または誰か優しい人が突然現れてその人が導いてくれる時を風に吹かれながら待つしかないの?
「いつよ、それは」
奏澄は波打ち際まで行き、水面に映った自分の顔を覗いた。そこにはいつもと変わらない顔があった。背景には雲が流れている。私のことなんて気にもかけていないかのようにゆったりと。数秒間自分を見つめた後、その水面に映った自分がまるで本当の自分であるかのように丁寧に壊さないように、そっと手のひらですくい上げようとした。しかし、波紋で顔が見えなくなるだけ。紋の漂うその表情にあなたには無理よ、そう言われているような気がした。
「ふ~っ」
溜め息交じりに自嘲した奏澄はバッグの中から譜面を手に取った。見るのもつらかったそれを今回、覚悟を決めて持ってきた。そこには空白の曲名と共に無数の手書きの文字が記されていた。小節、音楽記号ごとの楽曲の特徴や演奏のポイント。懐かしく切ない、そんな思い出しか今は出てこない。奏澄も切ないこの曲を気に入っている。目をつむり、1小節ずつ噛みしめながら音符を追っていく。
貝殻から聞こえた旋律。
断片的だった音が頭の中でつながり始め、色が現れる。霞のかかった森の深奥からストーリーが次第に映像となって映し出される。
ただ、霞がきれいに晴れることはない。肝心なところで音と映像は私から離れていく。
この一週間では答えが見つからないかもしれないけれど、それに少しでも近づきたい。何かしらのけじめをつけなければいけない。
キュッキュッ、すぐそばで砂を踏みしめる音がした。
「元気ないね、そんな暗い顔して。美人がもったいない」
「シュン、何でここに?」
「カスミお嬢様が泣いてるって聞いたもんでね」
「はいはい」
「つれないね。まぁ、そこがいいんだけど。これ、はい」
「何これ?」
「さっき、そこの店で買った。"がねあげ"って言うらしいよ」
「がねあげ?」
「おやつみたいなもんなのかな? 天ぷらっぽくも見えるけど」
「……」
「カスミ?」
これが、がねあげなんだ。
「あっ、もしかしてこういうの嫌い?」
「ううん、好きよ。ありがとう。いただきま~す」
二人同時に口へ運ぶ。
「なかなかうまいじゃん!」
「うん、おいしい」
天草の味なんだね。この味が。初めて食べたとは感じられない昔を思い起こす味。海鮮丼を食べた上でもすんなりと入った。俊介の言った通り、おやつみたいな感覚なのかな?
「シュン、仕事は?」
「辞めた」
「冗談でしょ?」
「マジですよ」
「ふ~ん、優等生でもそういうことするんだ」
「優等生にも悩みはあるんだよ」
「ん? 嫌味にしか聞こえないんだけど」
加瀬俊介、友人からはシュンと呼ばれている。奏澄とは音大の同級生である。音楽学部のヴァイオリン専攻で学生オーケストラのコンサートマスター経験者。コンサートマスターは普段、コンマスと呼ばれ、オーケストラ(オケ)における第1ヴァイオリンの首席奏者である。簡単に言うとオケのリーダー。演奏の技量はもちろん、他のメンバーのお手本になれる人格も必要になる。それほどに難しいポジション。大学卒業後は親の勧めもあり、神奈川県の川崎市に入職した。市内の区役所に勤め、主に社会保険の窓口を担当していた。
「あぁ~あ」
思い切り伸びをする俊介。タイミングを計る。
「……」
「何よ」
「いや、本当は先週会った時に言おうかと思ったんだけど、切り出せなくて」
「それで?」
「……俺、今度新しく設立される神奈川のプロオケに入るよ。大学卒業してからも個人的に音楽は続けていたけど、やっぱり本格的な音楽をやりたい。単純かもしれない、もっとヴァイオリンが上手くなりたい」
「いいんじゃない」
「えっ、それだけ? 随分あっさり。もっとさぁ、こう何て言うのかな、あの~」
「いいと思うよ……っていうか大卒でてっきりそのままプロオケに入るのかなとか思ってたから、むしろ今ここにいる方が変」
「変って。俺、やっていけるかな?」
真面目な顔で奏澄の顔色を窺う。
「じゃあ、入るのやめようか」
俊介の視線をかわし、遠くを見ながらそっけなく言う。
「いや、もう手続き終わってるし、それに……」
「答え出てるじゃない、やりたいから行くんでしょ」
俊介の言葉を遮るように言った。
「そうだけど」
「大丈夫だよ。うちの学校で飛び抜けて上手かったんだし、しかもコンマスじゃん。なりたくてもなかなかなれないよ」
「まぁ」
「最近は日本人も演奏技術、かなり上がってるから、いい機会だと思うよ。プロオケ」
「プロか」
「定期演奏会、行ってあげるからさ。一流の音楽を聴かせてよ」
「プレッシャーかけるなって」
「素敵じゃない? 神奈川以外でも演奏する機会あるんでしょ? 色んな土地でワインヤードタイプだったり、シューボックスタイプだったり、それぞれのホールで演奏できるなんて経験、うらやましいよ」
「やるしかないか」
「そうそう、やってみなきゃ」
「ありがとう。緊張がほぐれた。体が軽くなった気がする」
「それって私へのあてつけ? さっき『海女さんオススメ! たっぷり海鮮丼』食べて、『がねあげ』も食べたから? 太ったってこと?」
「何だそれ? んっ? 待てよ。そう言われてみれば」
「こらっ」
「ごめん、ごめん、今も昔も変わらないカスミお嬢様ですよ」
「もぉ~」
二人の間を生暖かい風がそよいでいく。時刻は3時30分。沈黙が続く。
「まだ、吹っ切れないか」
俊介が口火を切る。
「まぁね」
「それもありだと思うよ」
「どういう意味?」
「気持ちの切り替えは必要だと思うけど、無理に考えなくてもいいんじゃないかな」
「そうかな」
「でも、いつか答えは出るから。そのために、この瞬間瞬間が大事だよ、カスミ」
立場が逆転する。
嫌だ、嫌だ、本当に……どうしよう、泣きたくないよ。奏澄は咄嗟に顔を伏せる。こんな弱い自分、誰にも見せたくない。砂をきつく握りしめる。人からは頼りにされる芯の強いお姉さん的な存在の私が人を頼るなんて。人にアドバイスはできるのに自分のこととなると耳を塞ぎたくなる。
何も聞きたくない、ここから消えたい、一人になりたい、放っておいて、もう誰も……
俊介が奏澄の両肩にそっと手を置き、顔を上げさせる。
「カスミ、大丈夫だよ」
奏澄にはもう青い空も海も俊介も涙で見えなくなっている。潮の香り、音さえも感じられない。奏澄は泣き顔を隠すように俊介の胸で号泣した。俊介は奏澄を気の済むまで泣かせ、いつまでも優しく受け止めた。
波が寄せ、砂をさらう。引いた跡に砂浜の濃い茶色が残る。
やがて、天草灘の波音が聞こえ出す。潮の香りも分かるようになってきた。奏澄は顔を上げ、俊介を見る。
「すっきりした?」
「うん。ありがとう」
「しかし、最高の海だね。まったく」
風が弱くなってきた。
俊介の顔を見つめたままの奏澄がぼそっとつぶやく。
「オケ、いつから?」
「来週」
「そっか。頑張ってこいよぉ、コンマスぅ」
「ははっ、いつものお嬢様に戻ったな」
「私、泣いてなんかないから」
「はいはい」
「嫌な感じ」
「じゃあ、俺行くわ。今日は、ここの近くに泊まって明日の朝帰るよ。譜面さらわないと。優等生は忙しくてね」
「うん」
苦笑する。
「カスミは、この後どうするの?」
「宿探そうかな、決めてなかったから」
「度胸据わってるな」
「あたくしを誰だと思って?」
「ぷぷっ」
思わず噴いた。
「俺の泊まる旅館教えとくよ。宿見つからなかったら、ここに来な。携帯に連絡くれてもいいし、番号は前と変わってないから」
俊介は持っていた手帳の端に旅館の名前と場所を記入し、それをちぎって奏澄に手渡した。
奏澄は笑顔で応えた。
俊介の姿が小さくなっていく。それを追いかけるように足跡が続く。その足跡もまもなく風に流されていく。
奏澄は何を考えるでもなくその場にとどまる。絶え間なく揺らめく波も、浜に佇む貝殻の一片一片も、いつしか夕陽の黄や赤を反射し始めている。一日の終わりを懐かしむように。
一瞬、風が止まった。
風向きが変わる。
体が海に誘われそうになる。このままこの海に身を任せてしまおうか。一人になるとまた考えたくなってしまう。黄赤の底から漆黒が闇を連れてやってくる。付いていけば、楽になれるのだろうか。
体が意識を持たないまま動く。
一歩、また一歩。
風が心地いい。
視界が狭くなる。
足元に柔らかい冷たさを感じる。
そして、その感覚さえも次第に途切れる。
「……ハルも来たんだよね、この浜」
空が夕陽に馴染んでいく。
「本当は何考えてたの?」
ウミドリが黄赤に向かって飛ぶ。
「答えてよ」
「……色んなこと。音楽、仕事、人生、これまでの自分、これからの自分、もちろんカスミのことも」
「どうして一人で?」
「一人になりたかった」
「私は……どうなるの?」
「天草は俺にとって大切な場所だし、何というか……」
「答えになってないよ」
「ごめん、一人でじっくり考えたかったんだ」
「気持ちは分かるよ。私だってそういうこともある」
春仁は目を伏せる。
「でも、淋しいね」
奏澄が続ける。
「私は何? あなたにとって」
「ハルのことは何でも知りたい」
「いいことも悪いことも、面白いこともつまらないことも」
「聞くよ」
「……カスミは生きてて楽しい?」
「楽しい、よ。ある意味」
発した言葉とは逆にわだかまりが残る。
「仕事は?」
「それは大変なこともあるよ。辞めたいと思ったことも何度かある。それでも続けられているのは何よりも好きな音楽を……」
そこまで言った途端、奏澄は言葉に詰まった。聞かれたことに対して思ったことをつい言ってしまいそうになった。奏澄は音大・作曲専攻を卒業して4年目の現在、都内の音楽ホールでステージマネージャーアシスタントをしている。
大学では楽典・楽式論・和声法・対位法・管弦楽法などを一通り学んだ。ピアノも得意である。これらの経験を活かし、作曲以外のことにも挑戦してみたいという思いからステージマネージャーに興味を持った。ステージマネージャーとは舞台裏の責任者である。例えばコンサートの指揮者・楽員に対する出入りの促しや照明の確認、譜面台や椅子のセッティングなど広くステージを支え、無事に進行させる仕事。
「好きな音楽を?」
奏澄は躊躇する。
「俺のことは気にしないでいいから」
俯き、奏澄は言葉をつなぐ。
「好きな音楽を仕事にできてるってとても楽しいし、きれい事かもしれないけれど私は仕事って地位とか名誉とかじゃ計れないと思うし、つまりお金でもなくてやっぱり自分のやりたいことをするのが一番だと思う」
「そうだね。自分のやりたいことを仕事にできてる人ってどれくらいいるんだろう」
「ほとんどいないと思う。だけどそれを理由に自分の本当の気持ちを隠さないでほしい。気持ちが一番だよ」
「時々、自問自答するんだ。何のための人生かって。自分には学があるわけでもない。運動に秀でてるわけでもない。楽器はできるけど、それができたとしても社会で何の役に立つのかって」
「そんなこと、言わないでよ」
奏澄は春仁の気持ちを理解しているつもり。春仁とは同じ大学に通い、4年次に知り合った。
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