春、かすみ咲く空の下

緑野 和寿

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#6   旋律

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 清廉な波音が遠くから聞こえる。
 オブラートに包まれたような丸みを帯びた響き。その響きが緩やかに近づいてくる。時間を気にせず自然に目覚めるなんて、こんな晴れやかなことがあるのだろうか。ベッドから上体を起こし、伸びをする。窓を開け、磯の香りを存分に全身で受け止める。朝の陽射しを反射する水面が今日の始まりを知らせる。
「ん~、気持ちいい朝」
 ゆっくりと着替え、旅館内の食堂へと向かう。ちょっと遅めの朝食を頼む。隣には新聞を片手にコーヒーをすする中年のビジネスマン。この暑い中、ご苦労様ですと言ってあげたくなる。
 若い仲居さんが慣れた手つきで食事を用意してくれる。和食・洋食のうち、洋食を選ぶ。クロワッサンが2つにイチゴジャム、マーガリン、スクランブルエッグ、ハム、ウィンナー、サラダ、野菜スープ、最後にコーヒー。いかにも朝食らしい健康的なメニュー。
 前方にはテレビが1台備えられている。画面では生中継で美人リポーターが天草の観光名所を紹介している。明るくてハキハキとしゃべる様子は女の私が見ても好感を持てる。
 クロワッサンにマーガリンを塗り頬張る。素朴な味。だけど何だか落ち着いた気分になれる、そんな味。スクランブルエッグは塩加減が絶妙でとろける、サラダも新鮮でレタスはシャキシャキ、トマトは瑞々しい。

「ぜひ、皆さんいらしてくださいね~。お待ちしてま~す」
 中継が終わったようだ。ミルクと砂糖を入れたコーヒーを口にし、まどろむ。時間がゆったりと流れているような感じがする。東京は今何時だろう? なんて気分にも。
「天気もいいし、今日は、どこか出かけようかな」

 旅館近くのバス停から国道389号線を北上し、324号線へと入る。五和町で降り、今度は大きめの船に乗りこむ。波は穏やかで滑らかな風が涼を運んでくる。テレビ中継の影響なのか乗客が多い。沖合へと航行する。安らぎを感じさせる船の揺れが快適だ。波に揺られること15分、周りから急に歓声が起こった。
 ついにご対面かとワクワクしながら奏澄は海面に目を凝らす。すると何やら突起物が海面から出ている。徐々にその面積が大きくなる。
 背びれだ、と分かった瞬間、派手に波しぶきを起こしながらミナミハンドウイルカが姿を現した。体長は2メートルほどか。背びれから尾びれにかけてスモークブルーのボディラインが美しい。しぶきに光が当たり、ボディをきらめかせている。よく見るとお腹は白く、愛嬌のある面立ちで優雅に水中を泳いでいる。
 1頭かと思いきや続けて2頭、3頭、そして一斉に海面から弧を描くように飛び出す。50頭はいるだろうか。こんな光景を目の当たりにしたのは初めて。驚きのあまり声を発するのも忘れた。

「……すごい。こんなのって」
「いやぁ、今日はラッキーだね」
「えっ?」
 船のガイドをしているおじさんが話しかけてくる。
「珍しいんですか?」
「あんなに群れで見られるのは難しいね、長年見てるけど」
「じゃあ、私ついてますね」
「うん、とっても。いい日になるよ」
 何気ない会話だけど、うれしい。こういうのって大事よね。
「長年見てるっておっしゃいましたけど、どれくらいですか?」
「高卒で入ったから……かれこれ25年かな」
「何でこの仕事選んだんですか? ごめんなさい、急にこんなこと」
「いやいや、気にしないで。そうだなぁ、海が好きだし、魚もイルカも好きだし、あとは人に尽くすのが好きだからかな」
「好きなことを仕事にされてるんですね。お辞めになりたいと思ったことは?」
「ないねぇ。まぁ、私にはこれしかできないから」
「いえ、素敵なお仕事です」
「うれしいね。来てくれた人にそう言ってもらえるとやりがいを感じるよ。あぁ、あと一番大切なこと言い忘れてた」
「何ですか?」
「天草だってこと」
「天草?」
「私には、ここしかない。それほどこの町が好きなんだよ」

 船が島へと引き返す中、ガイドの行ったことを反復する。「これしかできない」。謙遜している部分もあるのだろうが自然に言えることがすごい。逆を取れば本当に自分の納得のいく仕事をし、その道のプロになっているということになる。自分は今の仕事でプロを目指せるのか。ゴールはステージマネージャー? それが私自身のため?
 そして、「ここしかない」。自分のいるべき場所。

「ハルも迷ってたんだよね。少しずつ気持ちが分かってきた」



「ごめんね。遅くなって」
「いや、8時ちょうどだよ」
「おっ、セーフ」
 息を切らしながら言う。
「大丈夫?」
「うん、大丈夫、大丈夫。いつもだから」
「ふっ」
「あっ、今、鼻で笑ったでしょ」
「ん? 気のせいでしょ。さあ、レッスン始めるよ」
「はぁい、先生」
 膨れっ面で言う。
 いつもの練習室を予約し、最近は春仁にピアノを教わっている。最も奏澄からすれば会いたいがための口実。でも事実、しっかりと教わっている。ヴァイオリン専攻の学生に教わっているのもどうかとは思うが、それでもやはり一緒にいたい。一方の春仁もこの時間を楽しみにしている。
「じゃあ一回通しでやってみて」
「うん」

 奏澄の白く細い指が旋律を創り始める。空間に放たれていた無数の音を丁寧に拾い集め、鍵盤に一つ一つちりばめていく。一つとして無駄な音はない。慎重に、こぼれ落ちないように鳴らす。甘美な情景が浮かび、きめ細やかなタッチが音色を装飾していく。切ない、本当に切ない旋律。しかし、悲しいだけではない。そこには未来へのメッセージが込められている。それを読み取れればせめてもの救いになりそう。弾きながら春仁を見る。彼には、どう響いて……
「!? ハルっ!!」
 突然、意識を失いピアノの下に倒れこむ。
「ハル、ハル~っ!」
 必死の思いで呼びかける。
「しっかりして、ハルっ!」
 肩を揺らす。

「……ん、カスミ」
「ハル、どうしたの? 大丈夫?」
 意識が戻り、おもむろに起き上がる。
「うん。ごめん、ごめん」
「ハル……」
 不安そうに見つめる。
「大丈夫だって、昨日夜遅くまで譜面さらってたから、それで今日のこの暑さでしょ」
「……」
「いやぁ、参った、参った。ははっ、エアコン効いてるのにね、この部屋」
「ちょっと休もうハル。私、飲み物買ってくる」
「えっ、あ、うん」
 春仁の表情が曇る。奏澄の姿が見えなくなった間に額へ手を当てる。
「頑張りすぎかな」

「はい」
 適度に冷えたスポーツドリンクを差し出す。
「おっ、ありがとう」
 ごくりごくり、一口、二口おいしそうに喉へ通す。
「ふ~最高、カスミが買ってくれたから一段とうまいね」
「もぉ、まったく。ちゃんと寝なきゃダメじゃない」
「はい、先生」
 かしこまりながら返事をする。
「びっくりしたよ。急に」
「集中すると時間を忘れちゃうんだよ。特に音楽に関しては」
「倒れたら大好きな音楽だって遠くに行っちゃうじゃない。弾くことだって、聴くことだって。嫌よ、そんなハル見たくない」

 音楽をやっているからという理由だけで好きになったわけではないが、春仁に音楽が足されると魅力がぐんと増す。自分が持っていないものを持っている気がする。
「そうだね。注意するよ。それで、さっきの演奏なんだけど」
「うん」
 再び心配が募る。上目遣いに春仁を窺う。
「悪くはないんだけど」
「けど?」
「情感がこもってない気がする。それと間の取り方かな」
「情感、間……」
「弾き急がないでこの曲の背景をもっと知った方がいいんじゃない?」
「うん、ありがとう」
「それから」
「まだあるんですか、先生」
「何でピアノ選んだの?」
 意外な質問。
「何で……」
「自分で選んだ?」
「それは……」

 言われてみればそうだった。音大を目指そうと思ったきっかけは中学生の時に見た映画だった。けれど、それ以前にピアノを、音楽を始めたきっかけって、何だろう。自分で積極的に弾きたいと思ったわけではない。家にピアノがあった。身近なところにあったから始めただけ。それも自分の意識下ではない。他の楽器なんて知らなかった。
「ピアノを弾けるってことに満足してるんじゃない? 自分で境界線を引いて。演奏自体は、上手だと思うよ。それにピアノを弾く楽しみが加わればもっといい音楽になるよ」
「そうなのかな」
「ピアノだと難しいけど、例えばヴァイオリンとかクラリネットとか普段から自分の楽器で演奏できる人の場合、楽器が次第に自分に馴染んでくるんだよね。共鳴するっていうのかな。もしかしたら自分の方が楽器の波長に合っていくのかもしれない。とにかく楽器と一体になることができたらそれが純粋な音楽なんだと思う」

 自分では認識していないことを指摘してくれる。彼に言われると新しい音の価値観が宿り、88鍵全てを巧みに構成して音楽を創っていけそうな気にさえなってしまう。
「ハルは、何でヴァイオリン?」
「きっかけはおじいちゃんがヴァイオリン製作やってたから。夏休みに遊びに行ってよく工房を見せてもらったよ。小さなパーツに時間をかけて組み合わせを施す。そうすると、あんなに艶やかなヴァイオリンが生まれる」

 ヴァイオリンのことを話している時の春仁はとても楽しそう。
「けど、不思議でしょうがなかったよ」
「ん? 何が?」
「だって何であんな木の一片から人に感動を与えられるような音が出るんだろうって。それに、おじいちゃんの演奏が今になっても耳を離れない」
「おじいちゃんも弾けるんだ?」
「うん、ある程度弾けないと製作もやりにくいからね。修理もするし」
「あぁ、そっか、なるほど」
「おじいちゃんの音を自分で出してみたい。だから始めたんだよ。どうやったらあの音出せるのかな、いまだに勉強中」

 春仁は心から音を楽しんでいる。音に色を付けている。好みのデザインを奔放に描いている。
「ヴァイオリンを弾いてる時って何考えてるの?」
「俺の場合は聴衆を想定してその人がどう感じてくれているか、かな」
「その曲の情景とかじゃないの?」
「もちろん、そうと言えばそうだよ。ただ、情景って何度も自分で勉強して分かってるから、いかに自分の演奏で聴衆にそれを正確に伝えられるかを大事にしてるね」
「私は自分のことで精一杯」
「音を楽しめれば気持ちに余裕も生まれるよ」
「何か、本当に先生みたい」
「そう? 目指してみようか」
「そんな気ないくせに」
「よく分かってるねぇ」
 分かりますよ、あなたのことなら。
「そうだ。今度、ハルのヴァイオリン聴かせて」
 
 こんなに一緒にいながらまだ聴いたことがなかった。春仁の横には、いつもヴァイオリンのハードケースがあった。想像してみる。あご当てを挟み、左手は指板へ、右手で弓を構える。力の入りすぎていないその立ち姿に見惚れる。指揮者を思わせるようなボウイング、乱れのない押弦。そこに、たおやかなヴィブラート。後ろにはオーケストラが見えてくる。彼の目はどこを捉えているのだろう。
「そうだね、いいよ」
「あっ」
「何?」
「質問、ヴァイオリンってフレットないのにどうやってちゃんと音出すの?」
「練習あるのみだよ。練習を重ねて実際に音を出して体で覚える」
「すごい、尊敬しちゃう」
「ピアノだって鍵の数、多いじゃん」
「そうだけど、押せばどういう音が出るって分かりやすいし」
「ヴァイオリンだってそうだよ。慣れの問題」
「そうかなぁ、私には覚えられそうにもない」
「やってみる?」
「いや、大丈夫。今度でいいから。ね?」
 体を気遣う奏澄。
「軽く、少しだけ」

 濃紺のケースからそっとヴァイオリンを取り出す。初めて触れる。落としたら大変。特別な力を感じる。
「左手はここ」
 ……ドキドキ。
「右手はこう構えて、肘の角度をもうちょっとこっち」
 ……さらにドキドキ。
「ん~、肩に力が入ってるなぁ。リラックス」
 奏澄の肩を揉みほぐす。
 どうしよう。テンポがかなり速くなってます。今だったらもれなく『剣の舞』を超高速で弾けそう。
「とりあえず開放弦ね」
 E線からA線、D線、G線と順に弾く。春仁が手を添えてくれているので、そこそこ真っ当な音が出る。
「おぉ~、体に響いてくる」
「面白いでしょ?」
「うん、新鮮な音」
「そう、だから他の楽器を知るといいイメージが湧くし、気分転換にもなるんだよ」
 初めて会った日に言っていたことの意味が分かった。

「ねぇ、何か弾いてみたい、けど……」
 懇願の眼差しを向け、言ってはみるが戸惑いの表情も浮かべる。
「リクエストは?」
 春仁は気にする素振りも見せずに応える。
「そうだな~、おまかせ」
 春仁の優しさに甘える。奏澄が構えた後ろから春仁が押弦、弓を持つ奏澄の右手を上から支え、ヴァイオリンの音の世界へと誘う。
 ……ドキドキ。
 聴き覚えのあるメロディ。春仁の好きな曲、私も好きになった曲。いつもこういうふうに弾くのかな。ヴァイオリンの音って温かい。心に一音一音が伝わってくる。
 間近に春仁の横顔。
 柔和な黒い瞳。
 優美な睫毛。
 くっきりとした二重。
 そして、彼の流し目で……
 視線が合う。
 春仁の顔がさらに間近に。
 彼って近くで見ると……心の中でつぶやく。
 その瞳に引き寄せられそう。
 旋律が止まる。
「んっ? どうかした?」 
「えっ? ううん、何でもないよ」
「あぁ、そう」
「あっ、もうこんな時間」
「そうだね、行こうか」
 甘いメロディは、いつになっても胸に響いていた。
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