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#7 彩乃
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船が五和に到着した。まだ正午。
「このあとは、どうしよう」
周辺を見回す。いつも通り海岸線が続いている。
「歩いてみようかな」
何の当てもなく今日はひたすら歩いてみたい気分になった。国道324号線を東進する。特に目立ったものはない。自然の中をたまにバスやタクシーが通過し、海には遊覧船が浮かんでいる。山を見上げれば実をつけた木々が枝の合間から光輝を放っている。これがこの町の日常なんだろう。非日常の私が少しばかり天草の地を借りて日常に戻った時のことを考える時間をもらっている。
遠めに看板が見える。愛々しいイルカのイラストが描かれている。
「ようこそ、天草イルカラインへ」
どうやら、この辺りは天草イルカラインという名称が付いているらしい。あのイルカ達はいつも天草近海にいるのだろうか。海の下にはどんな天草の顔があるのだろう。砂紋の広がる上に珊瑚礁や熱帯魚。そんな彼らしか知らない世界、龍宮城があったりして。
「あの辺かな」
これだけの景観だと現実に捉えてもおかしくはない。結局、あの話って最後どうなるんだっけ? 子供の頃の記憶って曖昧だったりする。昔のことだから当然だけれど。
大人になって今までの人生で一番楽しかったのっていつだろうと考えることがある。小学6年生の林間学校、中学2年生のスキー教室、高校2年生の文化祭。どれもかけがえのない日々。どれか一つでも不足したら私は存在しない。
やっぱり大切な思い出って忘れない。しかし、その思い出って思い出のままで終わってしまうのだろうか。過去は、いつまでも過去。それ以上発展することはない。今この瞬間も1秒後には過去、だとしたら今見えているものをもっと大事に見ないと損している気がする。
未来を創ること、というのは並行してそんな発展することのない過去の内から懸命に将来を見出していく、ということになるのであろう。未来が生まれると共に過去も生まれるのだから。
だいぶ歩いてきた。山の向こうから軽快なエンジン音と共に小型の飛行機がやってくる。昨日、私が乗ってきたものと同じ。手を振ってみる。
「シュン、もう帰ったかな」
飛行機を見送り、もう一度、山の方へ体を向ける。暗い雲が発達してきている。直に雨が降るかもしれない。今日は早めに宿を探した方が無難そう。
天草空港に比較的近い海岸沿いの旅館を見つけた。ちょっとしたリゾートホテルのような概観。露天風呂もある。さすがに値も張った。部屋に入ると見事な眺望、私だけが占有できる私だけの空間。
夕食までは時間があるが昼食を摂っていないので小腹が空いている。ルームサービスを頼む。コーヒーとレアチーズケーキ。窓横の椅子に座り、ケーキを口へと運ぶ。絶景を見ながらの幸せなひと時。ベリーの酸味がほのかに効いている。その赤紫は人々を惹きつける。
「惹きつける……か」
自分の演奏で人を魅するには、
「音を楽しむ」
春仁の言葉が胸を締めつける。何だか胸が一杯でケーキだけで十分に満たされた。
窓をそっと叩く音がする。
見ると水滴が私の心中を察したかのように窓を曇らせている。奏澄は、そのままベッドへ体を沈みこませる。
時間が解決してくれる、なんて無理だよ。
そんなことあり得ない、許されないよね?
大事な思い出に、ただ時間の流れにまかせて答えを出すなんて。
あなたがいなくなって、もう1年……まだ1年?
自分の、自分の力で今度こそ。
3日目の朝、雨は降り続いている。力が出ない。食事を摂る気にもなれない。
ベッドの中で携帯電話の画面をぼんやりと眺める。二人が顔を寄せ合っている画像。後ろにはピンクの花が写っている。彼の頬をなぞる。
「いい顔、してるね」
電話かけてきてもいいのに。いつでも、いいのに。
そのままうつ伏せになり、また眠りそうになる。
雨音に交じって遠くでメロディが聞こえる。この曲、知ってる。聞き覚えがある。普段からよく聴いてる……
来たっ! 着信だと気づき、すぐに出る。
「もしもしっ?」
飛び起き、一気に目がさめる。
「もしもし~? 元気? 彩乃で~す」
「あぁ、アヤ」
瞬時に夏から冬へと目まぐるしく季節が変わったかの気分。
「あれ、何かテンション低くない?」
「ううん、どうしたの?」
「シュンから聞いてさ。カスミ元気ないって」
「シュンが? そんなことないよ。心配しないで」
「本当に?」
「大丈夫、大丈夫。仕事はどう?」
「楽しくやってるよ~」
彩乃は都内の楽器店で管楽器の販売を担当している。
「やっぱり私、フルートやってたからさぁ。フルートばっかり売りたくなっちゃうのよね」
「だめじゃん」
「そうなんだよね~。でも、フルート好きなんだもん。そうだ、聞いて聞いて、カスミ」
「うん、聞いてるよ」
「この前ね、親御さんと一緒に来た女の子がいてね。その子が小さい頃の私に似てすっごくかわいかったからどうしてもフルートやってほしいなって思ったの」
「う、うん」
「半音階だって簡単に吹けるんだよ~って、実際にやってみたりして。もっと色んな人にフルートを試してもらいたいのよ。それが瞬間的にでもいいから、あんな楽器、昔やってたなとか感じてほしいの」
「うん」
「それで結局、その子どうしたと思う?」
「アヤお姉さんの情熱に打たれて買わされてしまったとか?」
「ちょっとぉ、人聞きの悪い言い方しないでよ~」
「それで?」
「うん、あのね。結局、クラリネット買っちゃった。クラリネットの音が妙に気に入っちゃったんだって」
「音に惹かれたならしょうがないじゃない。まぁ、手が小さいと最初は難しいかもしれないけど」
「そうだけどさぁ、フルート買ってほしかったなぁ。私の営業成績も買われるし……な~んちゃって~」
電話口で舌を出しながらはにかむ彼女の姿が浮かぶ。
気遣ってくれているんだね。申し訳ない。
冗談を言って励ましてくれる彩乃。私の大親友。昔から明るく色んなことを話しかけてくれる。奥沢のカフェで甘いものをよく一緒に食べたね。恩に着るよ。
「アヤの店、ヴァイオリンも置いてる?」
「もちろん、あるよ」
「じゃあ、今度見に行くね」
「カスミ……うん、待ってる。大歓迎! 案内するよ。ヴァイオリンもサックスもクラリネットもギターも」
「フルートもね」
「オッケー!」
春仁くんのこと、まだ忘れられないよね。そもそも忘れる必要なんてないし。早く元気になって。奏澄が学生の時みたいな少し気の強い奏澄に戻らないと私も寂しいよ。
久々に彩乃の声が聞けてうれしかった。自分一人の問題だって考えていたけれど、そうじゃないのかもしれないね。
4日目、ますます雨脚は強くなっている。
何もしないでホテルに一日中こもる。悲風惨雨にさらされ、心と体が不安定になる。どんどん堕ちていきそう。何しに来たんだろう。滅入ってしまう。テレビをつけて気を紛らせようとするが、全然内容が頭に入ってこない。それでも何もないよりかはマシ。騒々しい話し声が私を地の底から拾ってくれそう。そう思うことが唯一の希望。垂らされた頼りない紐にしがみついて底からゆっくりと這い上がろうともがく。しかし、全身を使って上を目指しているつもりなのに一向に進まない、登れない。
「早く、早く行かなきゃ。ハルが待ってる」
気持ちが焦るほど上手くいかない。
「今行くから」
バランスが崩れる。
「そこにいて、待ってて」
紐は今にも切れそうになる。
「何で、何でよっ!?」
会いたい、一目でもいいから。
時間がない。
希望が潰えそうになる。
紐が、
もう……間に合わない。
一瞬、体が浮いたように感じたのも束の間、支えるものを失った私はどこまでも堕ちていく。誰も救いようのないほど、はるか深淵へ。
そこには光さえも届かない。
「このあとは、どうしよう」
周辺を見回す。いつも通り海岸線が続いている。
「歩いてみようかな」
何の当てもなく今日はひたすら歩いてみたい気分になった。国道324号線を東進する。特に目立ったものはない。自然の中をたまにバスやタクシーが通過し、海には遊覧船が浮かんでいる。山を見上げれば実をつけた木々が枝の合間から光輝を放っている。これがこの町の日常なんだろう。非日常の私が少しばかり天草の地を借りて日常に戻った時のことを考える時間をもらっている。
遠めに看板が見える。愛々しいイルカのイラストが描かれている。
「ようこそ、天草イルカラインへ」
どうやら、この辺りは天草イルカラインという名称が付いているらしい。あのイルカ達はいつも天草近海にいるのだろうか。海の下にはどんな天草の顔があるのだろう。砂紋の広がる上に珊瑚礁や熱帯魚。そんな彼らしか知らない世界、龍宮城があったりして。
「あの辺かな」
これだけの景観だと現実に捉えてもおかしくはない。結局、あの話って最後どうなるんだっけ? 子供の頃の記憶って曖昧だったりする。昔のことだから当然だけれど。
大人になって今までの人生で一番楽しかったのっていつだろうと考えることがある。小学6年生の林間学校、中学2年生のスキー教室、高校2年生の文化祭。どれもかけがえのない日々。どれか一つでも不足したら私は存在しない。
やっぱり大切な思い出って忘れない。しかし、その思い出って思い出のままで終わってしまうのだろうか。過去は、いつまでも過去。それ以上発展することはない。今この瞬間も1秒後には過去、だとしたら今見えているものをもっと大事に見ないと損している気がする。
未来を創ること、というのは並行してそんな発展することのない過去の内から懸命に将来を見出していく、ということになるのであろう。未来が生まれると共に過去も生まれるのだから。
だいぶ歩いてきた。山の向こうから軽快なエンジン音と共に小型の飛行機がやってくる。昨日、私が乗ってきたものと同じ。手を振ってみる。
「シュン、もう帰ったかな」
飛行機を見送り、もう一度、山の方へ体を向ける。暗い雲が発達してきている。直に雨が降るかもしれない。今日は早めに宿を探した方が無難そう。
天草空港に比較的近い海岸沿いの旅館を見つけた。ちょっとしたリゾートホテルのような概観。露天風呂もある。さすがに値も張った。部屋に入ると見事な眺望、私だけが占有できる私だけの空間。
夕食までは時間があるが昼食を摂っていないので小腹が空いている。ルームサービスを頼む。コーヒーとレアチーズケーキ。窓横の椅子に座り、ケーキを口へと運ぶ。絶景を見ながらの幸せなひと時。ベリーの酸味がほのかに効いている。その赤紫は人々を惹きつける。
「惹きつける……か」
自分の演奏で人を魅するには、
「音を楽しむ」
春仁の言葉が胸を締めつける。何だか胸が一杯でケーキだけで十分に満たされた。
窓をそっと叩く音がする。
見ると水滴が私の心中を察したかのように窓を曇らせている。奏澄は、そのままベッドへ体を沈みこませる。
時間が解決してくれる、なんて無理だよ。
そんなことあり得ない、許されないよね?
大事な思い出に、ただ時間の流れにまかせて答えを出すなんて。
あなたがいなくなって、もう1年……まだ1年?
自分の、自分の力で今度こそ。
3日目の朝、雨は降り続いている。力が出ない。食事を摂る気にもなれない。
ベッドの中で携帯電話の画面をぼんやりと眺める。二人が顔を寄せ合っている画像。後ろにはピンクの花が写っている。彼の頬をなぞる。
「いい顔、してるね」
電話かけてきてもいいのに。いつでも、いいのに。
そのままうつ伏せになり、また眠りそうになる。
雨音に交じって遠くでメロディが聞こえる。この曲、知ってる。聞き覚えがある。普段からよく聴いてる……
来たっ! 着信だと気づき、すぐに出る。
「もしもしっ?」
飛び起き、一気に目がさめる。
「もしもし~? 元気? 彩乃で~す」
「あぁ、アヤ」
瞬時に夏から冬へと目まぐるしく季節が変わったかの気分。
「あれ、何かテンション低くない?」
「ううん、どうしたの?」
「シュンから聞いてさ。カスミ元気ないって」
「シュンが? そんなことないよ。心配しないで」
「本当に?」
「大丈夫、大丈夫。仕事はどう?」
「楽しくやってるよ~」
彩乃は都内の楽器店で管楽器の販売を担当している。
「やっぱり私、フルートやってたからさぁ。フルートばっかり売りたくなっちゃうのよね」
「だめじゃん」
「そうなんだよね~。でも、フルート好きなんだもん。そうだ、聞いて聞いて、カスミ」
「うん、聞いてるよ」
「この前ね、親御さんと一緒に来た女の子がいてね。その子が小さい頃の私に似てすっごくかわいかったからどうしてもフルートやってほしいなって思ったの」
「う、うん」
「半音階だって簡単に吹けるんだよ~って、実際にやってみたりして。もっと色んな人にフルートを試してもらいたいのよ。それが瞬間的にでもいいから、あんな楽器、昔やってたなとか感じてほしいの」
「うん」
「それで結局、その子どうしたと思う?」
「アヤお姉さんの情熱に打たれて買わされてしまったとか?」
「ちょっとぉ、人聞きの悪い言い方しないでよ~」
「それで?」
「うん、あのね。結局、クラリネット買っちゃった。クラリネットの音が妙に気に入っちゃったんだって」
「音に惹かれたならしょうがないじゃない。まぁ、手が小さいと最初は難しいかもしれないけど」
「そうだけどさぁ、フルート買ってほしかったなぁ。私の営業成績も買われるし……な~んちゃって~」
電話口で舌を出しながらはにかむ彼女の姿が浮かぶ。
気遣ってくれているんだね。申し訳ない。
冗談を言って励ましてくれる彩乃。私の大親友。昔から明るく色んなことを話しかけてくれる。奥沢のカフェで甘いものをよく一緒に食べたね。恩に着るよ。
「アヤの店、ヴァイオリンも置いてる?」
「もちろん、あるよ」
「じゃあ、今度見に行くね」
「カスミ……うん、待ってる。大歓迎! 案内するよ。ヴァイオリンもサックスもクラリネットもギターも」
「フルートもね」
「オッケー!」
春仁くんのこと、まだ忘れられないよね。そもそも忘れる必要なんてないし。早く元気になって。奏澄が学生の時みたいな少し気の強い奏澄に戻らないと私も寂しいよ。
久々に彩乃の声が聞けてうれしかった。自分一人の問題だって考えていたけれど、そうじゃないのかもしれないね。
4日目、ますます雨脚は強くなっている。
何もしないでホテルに一日中こもる。悲風惨雨にさらされ、心と体が不安定になる。どんどん堕ちていきそう。何しに来たんだろう。滅入ってしまう。テレビをつけて気を紛らせようとするが、全然内容が頭に入ってこない。それでも何もないよりかはマシ。騒々しい話し声が私を地の底から拾ってくれそう。そう思うことが唯一の希望。垂らされた頼りない紐にしがみついて底からゆっくりと這い上がろうともがく。しかし、全身を使って上を目指しているつもりなのに一向に進まない、登れない。
「早く、早く行かなきゃ。ハルが待ってる」
気持ちが焦るほど上手くいかない。
「今行くから」
バランスが崩れる。
「そこにいて、待ってて」
紐は今にも切れそうになる。
「何で、何でよっ!?」
会いたい、一目でもいいから。
時間がない。
希望が潰えそうになる。
紐が、
もう……間に合わない。
一瞬、体が浮いたように感じたのも束の間、支えるものを失った私はどこまでも堕ちていく。誰も救いようのないほど、はるか深淵へ。
そこには光さえも届かない。
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