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反撃の狼煙
第3話 ︎︎毒を食らわば
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旅立つ日、泣いてくれたのは母だけだった。父帝は顔も出さない。代わりの官僚さえ寄越さなかった。侍女達も白けた顔で泣く母を眺め、中には嘲笑う者もいたほどだ。
そして、体裁だけ整えられた美しい衣を纏い、国に別れを告げた。同行するのは勅使が三人と、護衛が二十人。親交の名目の元、他国へ嫁ぐ皇族にしては少なすぎる人員だ。
「お前を見た時、俺と同じだと思った。峰嵩からセーベルハンザへ入るには山を越えねばならないのに、あまりにお粗末なお供だったからな。国境に迎えを送って正解だった」
カミルの言葉にここまでの旅路を思い出す。
少ない人員で貢物も一緒に運ばなければならないのだから、護衛達も疲労困憊だった。山を行くために驢馬が使われたが、人よりも数が多く、世話をするのも一苦労。
そうしてやっと国境である峠に辿り着いた時、そこには百人近い兵が待ち構えていた。計画が漏れたかと身構えたが、兵長が進み出て、丁寧に迎えに来た旨を述べてきたのだ。
韵華はその対応に狼狽えた。公主としての返答など思いつかなかったからだ。
公の行事にも参加する事が無かったため、最低限しか教育されていない。逆に言えば自由奔放に育ったと言える。侍女達は冷たかったが、母は愛情深く接してくれた。
しかし、この場を治めるには実力不足もいいところだ。そこは勅使が対応してくれて胸をなで下ろす。
そして峠を越え、生まれて初めて見た砂漠は驚く事ばかりで、残された時間を埋めてくれる。どうせ死ぬなら楽しもうと、韵華は籠の中からそっと外を眺めていた。
町や村は土で作られた家々が建ち並び、市は活気に溢れていて、峰嵩とは全然違う服装、色、言葉が押し寄せてくる。
韵華にセーベルハンザの言葉は分からないが、大陸で使われる共通語は分かった。商人は大体共通語を使うから時折耳に入ってくる。それだけでも安心感は違う。
セーベルハンザの兵に囲まれた籠は人目を引いた。峰嵩から花嫁がやってくる事は伝わっているのだろう。大勢の人が手を振って見送ってくれた。
しかし、それも韵華にとっては複雑だ。ここがいずれ戦場になる。そのために韵華は嫁ぐのだから。
カミルに抱きしめられながら、思い出した民の笑顔に心が痛む。峰嵩も、セーベルハンザも、韵華には大事な民に思えた。
「私は……死ななければいけないの。そうしないと、母が責め苦を負ってしまう。でも、民が傷つくのも嫌よ。捨てられた公主でも、それくらいの自覚はあるわ。戦なんて、本当はしてほしくない。死んでいくのは民だもの。けれど、私に与えられたのは、戦の火種になる事。それが何故か失敗して……もう、どうしていいのか、分からない」
腕の中で震える韵華を、カミルは優しく背を撫でる。
「やっぱり、お前もそうなんだな。だったら、俺の計画に乗らないか?」
不意な問いに韵華は精悍な顏を見上げ、眉を垂れながら首を傾げる。カミルは不安げな韵華を宥めるように頬を撫でた。
「俺はこの国の玉座を奪う」
はっきりと言い切るカミルに韵華は目を見開く。
「ちょ、ちょっと! ︎︎そんな事言ったら命に関わるわ! ︎︎誰かに聞かれたら反逆罪と捉えられてしまう」
声を潜め、純白の衣を握りしめる韵華だったが、カミルには余裕があった。
「大丈夫。ここは今、俺達だけだ。侍女も警備もいない。初夜だけは誰にも邪魔されない、俺達に許された、たったひとつの自由だ。逆に言えばここだけなんだよ。明日からは離宮に移って、周りを囲まれる。いいか、時間が無い。しっかり聞いてくれ」
カミルは韵華の肩を掴み、表情を引き締める。
「毒が塗られたお前の盃を取り替えたのは俺の配下だ。俺の盃も同様にな。簡単に切り捨てられる王子だが、ありがたいことに慕ってくれる臣下もいる。峠に迎えに行ったのも俺の配下だ。高官達の計画を知らされても残ってくれた、僅かばかりの兵だがな。王宮には俺の意思に賛同してくれる者も少なくない。そういう奴らを集めて策を練っているんだ。まずは王太子を討つ」
韵華は息を呑んだ。
これは聞いてはいけない。聞いてしまえば引けなくなってしまう。
しかし、ひたと見据えるカミルの翡翠の瞳に吸い寄せられ、目が逸らせず、低音の心地よい声に心を掴まれる。
「で、でも、この国は豊かだわ。王太子を討つ名目が無いのではないかしら」
韵華は酷く渇き、ひりついた喉から声を絞り出す。せめてもの抗いだったが、カミルは柳眉を顰めて首を振った。
「この国は一見華やかに見えるかもしれないが、根元は腐りきった官僚に支配されている。王である父も、ただの傀儡だ。王太子もそう。政は肥太った高官どもの意のまま。王はハレムに入り浸り、民の前に姿を見せたのはもう四年前だ」
その悲痛な面持ちは韵華の心をざわつかせた。韵華は後宮の片隅でひっそりと暮らしていたのだ。男性に耐性が無い。カミルが初めて言葉を交わした異性といっても過言ではないだろう。
そんな韵華にとって年上の、それも美しく逞しい男性の苦しげな姿は、どうしようもなく庇護欲を掻き立てた。
自分より十も年上の男性を守りたいと願ってしまう。
「ここまで来る間、他の町や村も見てきただろう? ︎︎市は賑わい、人々は豊かに過ごしている。でもな、それは奴隷達の犠牲の上に成り立っているんだ。親に売られた者、拐われて来た者、そんな者達が虐げられ、地位と自由を奪われている。そして、その売上が高官に賄賂として渡るんだ。そんな悪習が先々代の王の時代から続いている」
カミルは重い溜息を吐くと、両の手で顔を覆う。
「百数十年に及ぶ愚政は民衆の心も腐敗させた。奴隷を虐げる事に忌避感を失い、それが当たり前になってしまっている。民の間でも不正は蔓延り、弱者が奴隷に堕ちていく。俺はそれを変えたいんだ」
肩を震わせるカミルを、韵華は思わず抱きしめる。自分より体格も、身長も、はるかに大きな体は、あまりにも小さく見えた。
その華奢な背中に大きな腕が回される。韵華はびくりと揺れるが、しっかりと抱え込まれ身動きができない。
「なぁ、ユンファ。お前はただ死ぬだけで満足か? ︎︎母を助けたいとは思わないか? ︎︎俺が玉座を得れば、誰にも邪魔されずに呼び寄せる事もできる。聞けば峰嵩も高官に牛耳られていると言うじゃないか。お前に死ねと命じたのは誰だ? ︎︎父か?」
問われた言葉に唇が震える。
死ねと言ったのは、確かに父だ。しかし、その横にはいつも宰相が張り付いていた。
そして、扇に隠れた皇后の笑み。
「どうやら俺の読みは当たっていたらしい」
韵華の表情から察したカミルは、それまでの弱々しさが嘘のように瞳をギラつかせる。
「お前には酷だが、これも言っておこう。この国の高官と、峰嵩の皇后は繋がっている。戦を企てたのは、皇后だ」
そして、体裁だけ整えられた美しい衣を纏い、国に別れを告げた。同行するのは勅使が三人と、護衛が二十人。親交の名目の元、他国へ嫁ぐ皇族にしては少なすぎる人員だ。
「お前を見た時、俺と同じだと思った。峰嵩からセーベルハンザへ入るには山を越えねばならないのに、あまりにお粗末なお供だったからな。国境に迎えを送って正解だった」
カミルの言葉にここまでの旅路を思い出す。
少ない人員で貢物も一緒に運ばなければならないのだから、護衛達も疲労困憊だった。山を行くために驢馬が使われたが、人よりも数が多く、世話をするのも一苦労。
そうしてやっと国境である峠に辿り着いた時、そこには百人近い兵が待ち構えていた。計画が漏れたかと身構えたが、兵長が進み出て、丁寧に迎えに来た旨を述べてきたのだ。
韵華はその対応に狼狽えた。公主としての返答など思いつかなかったからだ。
公の行事にも参加する事が無かったため、最低限しか教育されていない。逆に言えば自由奔放に育ったと言える。侍女達は冷たかったが、母は愛情深く接してくれた。
しかし、この場を治めるには実力不足もいいところだ。そこは勅使が対応してくれて胸をなで下ろす。
そして峠を越え、生まれて初めて見た砂漠は驚く事ばかりで、残された時間を埋めてくれる。どうせ死ぬなら楽しもうと、韵華は籠の中からそっと外を眺めていた。
町や村は土で作られた家々が建ち並び、市は活気に溢れていて、峰嵩とは全然違う服装、色、言葉が押し寄せてくる。
韵華にセーベルハンザの言葉は分からないが、大陸で使われる共通語は分かった。商人は大体共通語を使うから時折耳に入ってくる。それだけでも安心感は違う。
セーベルハンザの兵に囲まれた籠は人目を引いた。峰嵩から花嫁がやってくる事は伝わっているのだろう。大勢の人が手を振って見送ってくれた。
しかし、それも韵華にとっては複雑だ。ここがいずれ戦場になる。そのために韵華は嫁ぐのだから。
カミルに抱きしめられながら、思い出した民の笑顔に心が痛む。峰嵩も、セーベルハンザも、韵華には大事な民に思えた。
「私は……死ななければいけないの。そうしないと、母が責め苦を負ってしまう。でも、民が傷つくのも嫌よ。捨てられた公主でも、それくらいの自覚はあるわ。戦なんて、本当はしてほしくない。死んでいくのは民だもの。けれど、私に与えられたのは、戦の火種になる事。それが何故か失敗して……もう、どうしていいのか、分からない」
腕の中で震える韵華を、カミルは優しく背を撫でる。
「やっぱり、お前もそうなんだな。だったら、俺の計画に乗らないか?」
不意な問いに韵華は精悍な顏を見上げ、眉を垂れながら首を傾げる。カミルは不安げな韵華を宥めるように頬を撫でた。
「俺はこの国の玉座を奪う」
はっきりと言い切るカミルに韵華は目を見開く。
「ちょ、ちょっと! ︎︎そんな事言ったら命に関わるわ! ︎︎誰かに聞かれたら反逆罪と捉えられてしまう」
声を潜め、純白の衣を握りしめる韵華だったが、カミルには余裕があった。
「大丈夫。ここは今、俺達だけだ。侍女も警備もいない。初夜だけは誰にも邪魔されない、俺達に許された、たったひとつの自由だ。逆に言えばここだけなんだよ。明日からは離宮に移って、周りを囲まれる。いいか、時間が無い。しっかり聞いてくれ」
カミルは韵華の肩を掴み、表情を引き締める。
「毒が塗られたお前の盃を取り替えたのは俺の配下だ。俺の盃も同様にな。簡単に切り捨てられる王子だが、ありがたいことに慕ってくれる臣下もいる。峠に迎えに行ったのも俺の配下だ。高官達の計画を知らされても残ってくれた、僅かばかりの兵だがな。王宮には俺の意思に賛同してくれる者も少なくない。そういう奴らを集めて策を練っているんだ。まずは王太子を討つ」
韵華は息を呑んだ。
これは聞いてはいけない。聞いてしまえば引けなくなってしまう。
しかし、ひたと見据えるカミルの翡翠の瞳に吸い寄せられ、目が逸らせず、低音の心地よい声に心を掴まれる。
「で、でも、この国は豊かだわ。王太子を討つ名目が無いのではないかしら」
韵華は酷く渇き、ひりついた喉から声を絞り出す。せめてもの抗いだったが、カミルは柳眉を顰めて首を振った。
「この国は一見華やかに見えるかもしれないが、根元は腐りきった官僚に支配されている。王である父も、ただの傀儡だ。王太子もそう。政は肥太った高官どもの意のまま。王はハレムに入り浸り、民の前に姿を見せたのはもう四年前だ」
その悲痛な面持ちは韵華の心をざわつかせた。韵華は後宮の片隅でひっそりと暮らしていたのだ。男性に耐性が無い。カミルが初めて言葉を交わした異性といっても過言ではないだろう。
そんな韵華にとって年上の、それも美しく逞しい男性の苦しげな姿は、どうしようもなく庇護欲を掻き立てた。
自分より十も年上の男性を守りたいと願ってしまう。
「ここまで来る間、他の町や村も見てきただろう? ︎︎市は賑わい、人々は豊かに過ごしている。でもな、それは奴隷達の犠牲の上に成り立っているんだ。親に売られた者、拐われて来た者、そんな者達が虐げられ、地位と自由を奪われている。そして、その売上が高官に賄賂として渡るんだ。そんな悪習が先々代の王の時代から続いている」
カミルは重い溜息を吐くと、両の手で顔を覆う。
「百数十年に及ぶ愚政は民衆の心も腐敗させた。奴隷を虐げる事に忌避感を失い、それが当たり前になってしまっている。民の間でも不正は蔓延り、弱者が奴隷に堕ちていく。俺はそれを変えたいんだ」
肩を震わせるカミルを、韵華は思わず抱きしめる。自分より体格も、身長も、はるかに大きな体は、あまりにも小さく見えた。
その華奢な背中に大きな腕が回される。韵華はびくりと揺れるが、しっかりと抱え込まれ身動きができない。
「なぁ、ユンファ。お前はただ死ぬだけで満足か? ︎︎母を助けたいとは思わないか? ︎︎俺が玉座を得れば、誰にも邪魔されずに呼び寄せる事もできる。聞けば峰嵩も高官に牛耳られていると言うじゃないか。お前に死ねと命じたのは誰だ? ︎︎父か?」
問われた言葉に唇が震える。
死ねと言ったのは、確かに父だ。しかし、その横にはいつも宰相が張り付いていた。
そして、扇に隠れた皇后の笑み。
「どうやら俺の読みは当たっていたらしい」
韵華の表情から察したカミルは、それまでの弱々しさが嘘のように瞳をギラつかせる。
「お前には酷だが、これも言っておこう。この国の高官と、峰嵩の皇后は繋がっている。戦を企てたのは、皇后だ」
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