18 / 22
第18章:情報遮断
しおりを挟む
――繋がりが切れた瞬間、人は“孤独”になる。
孤独になった瞬間、制度は勝つ。
夜の空気は冷たい。
逃げた直後の呼吸は、肺の奥が痛む。
走った分だけ、生きている実感がある。
それが逆に怖かった。
「生きてる」って感じる時は、
すぐ隣に“死”がいる。
ミナトはレムを抱えたまま、崩れた壁の陰に座り込んだ。
「……ここで止まる!」
「一回、息整えろ……!」
レムは泣き止んでいない。
けれど声を殺していた。
泣くのも、今は危険だから。
泣く音は、追跡を呼ぶ。
ノクスが暗い通路の先を見たまま言う。
「追ってくる」
「数じゃない。精度だ」
セイルが即座に頷く。
「追跡ルートが、もう作られている」
「“登録者L-17”のログが起点になってる」
ミサが肩で息をしながら端末を取り出す。
「……回線、遮断されてる」
「位置情報が拾われてる感じがする……やばい」
シオンは壁に手をつき、ゆっくり立ち上がった。
胸の奥がまだ熱い。
守りたい。
怒りじゃない。
憎しみじゃない。
ただ、守りたい。
その感情が残っているから、呼吸が乱れる。
そして、その呼吸の乱れが――
また世界を歪ませそうで怖い。
「情報遮断、始まったな」
ノクスがそう言った瞬間、シオンは理解した。
第2幕の18章。
情報遮断。
連絡線が切れる。
救済局の善意が“孤立”を作る。
人々を守るために、外を遮断する。
外が遮断されれば、
守られているようで、閉じ込められる。
救済と監禁は、同じ形をしている。
シオンは言った。
「NIGHT UNIONに連絡できる?」
ノクスは短く笑った。笑いじゃない、諦めに近い。
「……さっきから、繋がらない」
ミナトが顔を上げる。
「ノクス、あんたらの裏ルートは?」
「夜の連合って、こういう時のために――」
ノクスは首を振った。
「切られてる」
「“夜”そのものが、遮断されてる」
その言葉が不気味だった。
夜そのものが遮断される。
つまり、
闇に紛れる自由が失われる。
管理は光で世界を塗りつぶす。
照らすのではない。
塗りつぶす。
ミサが端末の画面を見て、青ざめた。
「……通信だけじゃない」
「周波数帯が、“再編”されてる」
セイルが即座に理解する。
「GENESISの管制が地域をロックした」
「民間帯域を捨てて、管理帯域だけ通す構造に切り替えた」
ミナトが顔をしかめる。
「意味わかんねぇ……」
セイルは淡々と言った。
「意味は一つ」
「“繋げさせない”」
「人は繋がれば逃げられる」
「繋がれば助け合える」
「繋がれば、評価不能な生存が増殖する」
「だから切る」
理屈は合理的だった。
合理的すぎて、胸が痛い。
シオンは小さく言った。
「……正しすぎる」
それが第2作でアルトが感じた“怖さ”だ。
正しさは人を救う。
でも同時に、人を切る。
レムはミナトの腕の中で震えていた。
「……みんな、怒ってる?」
シオンが視線を向けると、レムは怯えた目で見上げていた。
「……私、悪いことしたの?」
その言葉に、シオンは喉が詰まった。
悪いことをしたのはレムじゃない。
制度だ。
でも制度は悪くない顔をしている。
善意の顔で動いている。
だから、悪いのは誰か分からない。
分からないまま、子どもが責められる。
その構図が一番残酷だ。
シオンはレムの髪を撫でた。
「悪くない」
「絶対に」
レムが泣きながら、ぽつりと言う。
「……でも、Δって書いてあった」
ミサが息を飲む。
セイルが目を閉じる。
ノクスが静かに言う。
「……見たのか」
レムは頷いた。
「……うん」
「札の裏」
シオンの胸が締め付けられる。
Δ-17。
誰かが、最初から決めていた。
分類した。
番号を振った。
回収したい。
子どもを、“現象”にしたい。
その時、遠くで低い音がした。
ドン。
ドン。
車両の振動。
重い足音が、複数。
セイルが即座に立ち上がる。
「来る」
ノクスが壁の隙間から外を覗く。
「……治安部隊じゃない」
「回収部隊だ」
回収部隊。
救済とは別の手。
救済が“表の顔”なら、回収は“裏の手”。
同じ組織の中で役割が分かれている。
片方が優しく抱き上げて、
もう片方が黙って持ち去る。
世界はそれを「合理」と呼ぶ。
ミナトが歯を食いしばる。
「どうすんだよ……!」
「このままじゃ、詰むだろ!」
シオンが口を開こうとした瞬間、
ミサの端末が、微かに震えた。
「……!」
画面に一つだけ、通知が出る。
文字が乱れている。
途切れている。
けれど、表示された発信者名は確かだった。
ALTO
シオンの心臓が跳ねた。
アルト――
第2作の主人公。
管理内の人間。
合理を信じた人間。
それでも余白を残した人間。
その“残す判断”が、まだ生きている。
ミサは震える手で受信を開いた。
音声は酷くノイズ混じりだった。
プツ、プツ、と切れる。
それでも、アルトの声だと分かる。
「……シオン……聞こえるか……」
「登録試験……本格化……想定以上に早い……」
「……レムを……絶対に……」
次が聞こえない。
ノイズが重なる。
そして――
一瞬だけ、別の音が混じった。
金属が擦れる音。
誰かが扉を閉める音。
そして、アルトの声が、さらに低くなる。
「……監査局が……動いた」
「……この回線も……すぐ……」
そこで、音声が途切れた。
画面が黒になる。
通信が死んだ。
シオンは息を止めていた。
アルトが動いている。
内部から助けようとしている。
でも回線が切れた。
情報遮断が完成していく。
つまり、アルトも孤立している。
内部の人間なのに、孤立する。
管理という巨大機構は、
内部の個人すら孤独にする。
だからこそ、怖い。
「……アルト」
シオンは小さく呟いた。
彼は敵ではない。
味方でもないかもしれない。
でも、同じ問いを抱えている。
“残す”とは何か。
セイルが即座に判断する。
「ここに留まると回収される」
「移動する」
ノクスが頷く。
「逃げ道は一つ」
「夜の通路」
ミナトが睨む。
「夜の通路が切られてるって言っただろ!」
ノクスは静かに言った。
「切られてるのは“連絡線”だ」
「道は、まだある」
ミサが言う。
「……でも、追跡ログがある」
「どこへ行っても捕まるんじゃ……」
セイルが答える。
「捕まらない場所がある」
シオンが見る。
セイルは、ほんの一瞬迷った顔をした。
そして言った。
「……“評価不能領域”の中だ」
全員が沈黙する。
そこは危険だ。
そこは未定義だ。
そこは、世界のルールが効かない。
でも――
だからこそ、追跡も効かない。
それは生存だ。
ユウが残した“誤差”の領域。
アルトが残した“余白”。
そして、レムが分類された“Δ”の場所。
皮肉だ。
救うには、世界の外へ出なければならない。
レムが小さく言った。
「……そこに行ったら、消える?」
シオンは即答した。
「消えない」
「消えさせない」
その言葉は誓いだった。
誓いは、世界に記録されない。
でも記録されない誓いが、
未来を拾う。
回収部隊の足音が近づく。
ドン、ドン。
空気が震える。
シオンの鼓動も震える。
ノイズの黒が、また喉元まで来る。
でもシオンは踏みとどまった。
今は、暴走じゃない。
一歩ずつでいい。
逃げる。
守る。
拾う。
この行動が、
BORDER REMAINSを“チーム”にする。
ノクスが短く言った。
「動け」
ミナトがレムを抱き直す。
「掴まってろ、落とさねぇ」
ミサが端末を握りしめる。
「……次の通信が来ても、もう受けられないかも」
セイルが先頭に立つ。
「音を出すな」
「足跡を残すな」
シオンは最後に振り返った。
登録所の方角。
あそこには、人々がいた。
救われたい人々がいた。
救済の列があった。
でも、
救済はもう救済じゃない。
救済は“制度の入口”になった。
その入口に、彼女たちは背を向ける。
そして、境界へ向かう。
評価不能領域へ。
――世界が“通信を奪う”ということは、
人間から「助けを呼ぶ権利」を奪うということだ。
夜の通路は、地上じゃない。
地下でもない。
境界だ。
崩れた道路の下。
腐食した地下鉄の連絡路。
旧時代の設備が折り重なり、
人の手で“道にされた残骸”。
ミナトが先頭のセイルに噛みつくように言う。
「この先、ほんとに安全なのかよ」
セイルは振り返らず、淡々と答えた。
「安全じゃない」
「だが、追跡は鈍る」
ミナトが舌打ちする。
「最悪だな……」
ノクスが小さく笑う。
「最悪は、まだ下にある」
冗談でも、笑えなかった。
ミサが端末の画面を何度も叩いていた。
意味がないと分かっているのに、止まらない。
「……圏外」
「圏外っていうか、圏外“にされた”」
シオンは歩きながら、呼吸を整えようとしていた。
しかし、胸の奥が妙に熱い。
さっきの“ワイヤーがズレた”瞬間から、
何かが体内で残っている。
血が熱い。
耳鳴りがする。
視界の端が、一瞬だけ暗くなる。
(落ち着け……)
(これは、まだ……)
発動じゃない。
でも、同調が始まっている。
Δは感情の爆発じゃない。
“臨界の一致”だ。
誰かを守る。
誰かを残す。
その意志が世界の処理能力を超えた瞬間に起きる。
レムがミナトの腕の中で、息を潜めている。
その小さな体が震えている。
それが怖かった。
子どもの震えは、体温のノイズだ。
セイルが立ち止まり、手を上げた。
「止まれ」
全員が息を止める。
遠くから、響く音があった。
カツ。
カツ。
カツ。
金属靴が地面を叩く音。
――追ってきている。
でも足音が、妙に一定だった。
「……歩調が揃いすぎてる」
シオンが呟く。
ノクスが低く答える。
「回収部隊だ」
「訓練じゃない、“仕様”」
仕様。
人間を、人間じゃなくす言葉。
ミサが言った。
「治安部隊とは違う……」
「音が少ない。無駄がない」
ミナトはレムを抱く腕に力を込める。
「……こいつら、最初から捕まえる気だ」
セイルが短く頷く。
「捕まえるだけではない」
「回収する」
それは“戻す”に近い。
元の場所へ。
管理が届く場所へ。
評価ができる場所へ。
ノクスが壁の隙間を指差した。
「ここを抜ける」
そこは人一人がやっと通れる裂け目だった。
コンクリが割れて、鉄骨が歪み、
薄暗い隙間が“道”になっている。
ミナトが顔を歪める。
「抱えたまま通れねえ」
シオンが即座に言った。
「レム、私が持つ」
レムはびくっとした。
でも、すぐにシオンを見た。
怖い。
でも、信じたい。
その顔だった。
ミナトがレムをそっとシオンに渡す。
シオンの腕に、軽さが乗る。
軽い。
軽すぎる。
その軽さが、怖かった。
世界はこの軽さを、簡単に消せる。
だから守る。
守らなければならない。
全員が裂け目に入る直前、
ミサの端末が、また震えた。
「……っ」
画面がノイズで乱れる。
何も表示されない。
それでも、確かに“信号”が来ている。
ミサは歯を食いしばる。
「来てる……!」
「でも解析できない……!」
セイルが即断した。
「捨てろ」
「追跡になる」
ミサが息を呑む。
「でも……アルトからの……」
ノクスが言った。
「持っている限り、追われる」
「繋がりは武器だ。敵の」
その言葉が、胸に刺さる。
繋がりは救いのはずだった。
でも、今は捕まえる鎖だ。
ミサは震えながら端末を見た。
そして、画面の片隅に出た一文字を見た。
Δ
ただ、それだけ。
通知欄に“Δ”が残り、
そのまま消えた。
ミサの声が掠れる。
「……Δって……」
シオンの胸がまた熱くなる。
レムが小さく言った。
「……また出た」
レムの札も、微かに熱を帯びている。
紙なのに。
そこに文字が焼き付いているみたいに。
裂け目を抜ける。
鉄骨の間をくぐる。
腐食した配管を跨ぐ。
足元の水たまりは黒く、
踏むたびに“ぬるい音”がした。
まるで世界が腐っている。
その腐敗の中を、
生き残りだけが進んでいく。
セイルが小声で言った。
「もうすぐ入口だ」
ミナトが息を吐く。
「評価不能領域って、どんな場所なんだよ……」
ノクスは淡々と言った。
「管理が届かない場所」
「だから、“何でも起こる”」
ミナトが顔を歪める。
「最悪じゃねぇか」
ノクスは一瞬だけ目を細めた。
「最悪でも、自由だ」
その言葉が、怖いほど真っ直ぐだった。
一行はさらに進む。
そして、通路の端に辿り着いた。
そこには――
扉がない。
ゲートもない。
ただ、空間が“歪んでいる”。
まるで空気が薄い。
音が小さくなる。
視界の端が微かに黒ずむ。
境界線。
評価不能領域の入口。
シオンの喉が鳴った。
怖い。
でも、怖さよりも――
“何か”が、ここに応える気がした。
レムがシオンの服をぎゅっと掴む。
「……ここ、やだ」
シオンは優しく言った。
「怖いよね」
「でも、ここなら捕まらない」
レムは泣きながら首を振る。
「……捕まらないの、怖い」
その言葉が、真理だった。
管理されることは怖い。
でも、管理されないことも怖い。
人間は矛盾の生き物だ。
その矛盾を、GENESISは“処理すべき誤差”として切り捨てる。
でもそれこそが、人間だ。
その時。
背後の通路に、光が走った。
赤いライト。
暗視照準。
無音の隊列。
回収部隊だ。
彼らは速い。
静かだ。
正確だ。
“捕まえ方”が完璧すぎる。
セイルが言った。
「来た」
「迷う時間はない」
ミサが震える声で言う。
「入ったら……戻れないかも……」
ノクスが答える。
「戻れる場所なんて、最初から無い」
ミナトが叫びたいのを堪え、低く吐き捨てる。
「……くそっ」
シオンはレムを抱え直し、入口を見た。
歪む空間。
そこに踏み込むだけで、
世界のルールが変わる。
でも今は、踏み込まないと消える。
シオンは決めた。
「行く」
その瞬間、
空間の歪みが一瞬だけ“濃くなる”。
まるで、入口が反応したみたいに。
レムの札が熱くなり、
シオンの胸の奥が、また同調する。
(……世界が、呼んでる)
Δはまだ発動していない。
でも世界が、“Δを必要としている”みたいだった。
回収部隊の指揮官が声を出した。
低い、無機質な声。
「対象を確保する」
「抵抗は無効化する」
その声には憎しみがない。
怒りもない。
ただの処理。
人間は処理される。
そういう世界。
だからこそ、
シオンは足を踏み出した。
入口へ。
評価不能領域へ。
そして――
背後で、金属が鳴った。
拘束弾が放たれる音。
間に合わない。
その瞬間、シオンは――
“守りたい”が、臨界まで跳ね上がった。
世界が黒くなる。
視界の端が、ノイズで塗り潰される。
でも、発動じゃない。
まだだ。
まだ、耐えろ――
シオンは歯を食いしばり、レムを抱き締めて飛び込んだ。
――追跡が止まった瞬間、安心するべきだった。
けれど本当は、その瞬間こそが「異常」の始まりだった。
シオンが踏み込んだ瞬間。
世界が――沈黙した。
音が、消える。
回収部隊の足音も、
ライトの機械音も、
金属が擦れる気配も。
まるで、空気の層が一枚剥がされて、
そこだけ“無音の空洞”になったみたいだった。
息を吸う音すら、遠い。
そして――
自分の心臓の音だけが、異様に大きい。
ドクン。
ドクン。
ドクン。
それだけが、世界の中心になった。
次の瞬間、背後の空気が引き裂かれるような感覚がした。
拘束弾が、
“撃たれた”はずだった。
でも――
当たらない。
正確な回収部隊の弾が、
まるで目標を見失ったように、空を切った。
いや、違う。
彼らが見失ったんじゃない。
世界が、シオンたちを“見えなくした”。
評価不能領域とは、
ただログに残らないだけじゃない。
世界の観測そのものが届かない場所だ。
シオンは息を呑み、後ろを振り返った。
入口の向こうに、回収部隊がいる。
ライトは点いている。
銃も構えている。
でも――
そこにいるはずの人間が、まるで薄いガラス越しに見えている。
音も、熱も、距離感も違う。
一枚、隔たっている。
世界が二層になった。
それを、肌で理解した。
「……入った」
ミナトが息を吐いた。
「追ってこねぇ……!」
言いながらも、声が震えている。
安心していいはずなのに、
安心が怖い。
ミサが端末を見て叫ぶ。
「追跡ログが……消えた!」
「信号が切れてる……!」
セイルが周囲を見回しながら言った。
「追跡は止まった」
「だが、ここは――」
ノクスが静かに続ける。
「“安全”じゃない」
「自由な場所は、危険も自由だ」
その言葉が落ちた瞬間。
空気が、揺れた。
揺れたというより、
“歪んだ”。
視界の端が一瞬だけ引き伸ばされ、
世界の輪郭が、ほんの一拍遅れて戻る。
まるで現実が、再描画されている。
レムが、シオンの腕の中で小さく呻いた。
「……あつい」
シオンがレムの額に触れる。
熱はない。
体温は普通だ。
でもレムは確かに“熱い”と言った。
それは体温じゃない。
何かが――
札の中で、燃えている。
シオンがレムの胸元を見る。
そこにある札が、微かに黒ずんでいた。
紙が焦げたみたいに、
縁が焼けている。
そして――
裏面に、薄い文字が浮いてくる。
シオンは息を止めた。
そこにははっきりと、こう刻まれていた。
Δ-17
ミサが青ざめる。
「……やっぱり……」
ノクスが目を細める。
「番号じゃない」
「“現象識別子”だ」
セイルが言う。
「GENESISは“偶然”を嫌う」
「偶然に番号を振ることはない」
ミナトの拳が震える。
「……つまり最初から狙われてたってことかよ」
シオンは唇を噛んだ。
狙われていた。
回収される予定だった。
救済じゃない。
対象化だ。
シオンはレムを抱き締めた。
「レム、聞いて」
「君は番号じゃない」
レムは涙目で見上げる。
「……でも、Δってなに」
シオンは答えられなかった。
まだ名前にしたくない。
名前にした瞬間、
それは“制度に取り込まれる”。
でも、もう遅いのかもしれない。
GENESISが先に名付けた。
Δ。
未知を識別するための符号。
世界の誤差に付けられた印。
それが怖い。
その時。
ミサの端末が、勝手に起動した。
電源を切ったはずなのに。
画面が点き、
ノイズが走り、
勝手に記録を始める。
ミサが叫ぶ。
「ちょ……なにこれ!?」
端末のログ画面には、ただ一行だけ表示された。
UNOBSERVED FRAME DETECTED
観測不能フレーム検知。
“観測不能”という矛盾した言葉。
観測できないのに検知する。
だからこそ、異常だ。
そしてその下に、
数値が流れた。
心拍。
体温。
位置。
“同期率”。
同期率?
ミサが震える声で言う。
「同期……って……」
「誰と誰が……?」
その瞬間、シオンは理解した。
この場にいる全員の“何か”が、揃い始めている。
シオンの心拍が、少しずつ整う。
ミサの呼吸が、同じテンポになる。
セイルの瞬きが、同じ間隔になる。
ノクスの足音が、同じリズムになる。
ミナトでさえ、
怒りの呼吸が、一定になる。
そして――
レムの震えが止まる。
止まった瞬間、逆に怖い。
静かすぎる。
セイルが眉をひそめた。
「……空間の熱分布が偏っている」
ノクスが周囲を見回す。
「ここだけ、温度が違う」
「空気が薄い」
ミナトが吐き捨てる。
「幽霊屋敷かよ……」
ミサが必死に端末を操作する。
「待って……このログ、外に送られてない……」
「送信先がない……」
セイルが即答した。
「そうだ」
「ここは観測不能領域」
「GENESISですら完全には届かない」
シオンは胸を押さえた。
熱が、消えない。
胸の奥に、
黒いノイズが渦巻いている。
それは“怖さ”じゃない。
守りたい意志が、
まだ燃えている。
燃えすぎている。
(落ち着け……)
(まだ発動するな……)
Δは、今出たら終わる。
世界に「証明」される。
証明された瞬間、
回収される。
入口の向こう側。
回収部隊のライトが、微かに揺れた。
彼らは入ってこない。
入れない。
でも――
諦めてもいない。
指揮官らしき影が、通信しているのが見えた。
声は届かない。
だが、口の動きは読めた。
「対象、ロスト」
「境界域に侵入」
「追跡不能」
それは、敗北報告じゃない。
次の手の準備だ。
ミサの端末が、また勝手に文字を吐いた。
Δ SIGNAL: NOT CONFIRMED
Δ SIGNAL: TRACE ONLY
Δ信号:未確認
Δ信号:痕跡のみ
シオンは息を止めた。
確認されていない。
まだ確定じゃない。
でも痕跡は残った。
つまり、
世界は“Δ”を記録し始めた。
それだけで十分に怖い。
ノクスが言った。
「ここで止まるな」
「境界の内側へ進め」
セイルが頷く。
「入口付近は危険だ」
「観測が“薄く届く”」
ミナトがレムを見た。
「こいつ、歩けるか?」
レムは小さく頷いた。
涙を拭いて。
「……うん」
「がんばる」
その言葉が、胸に刺さった。
がんばる、なんて言わせたくない。
子どもに。
でもこの世界では、
がんばらないと消える。
だから、シオンは決めた。
この世界を変えるわけじゃない。
壊すわけでもない。
ただ、拾う。
拾える未来を、残す。
その行動が、
いつかΔを目覚めさせるとしても。
一行は、評価不能領域の奥へ進む。
足元の瓦礫が、微かに浮く。
金属片が、勝手に回転する。
空気が“ふわり”と軽い。
現実が、現実じゃなくなり始める。
それでも歩く。
歩くしかない。
そして、シオンは気づいた。
この場所は――
恐ろしく静かで、
恐ろしく美しい。
崩壊した世界の中で、
唯一“誰にも触られていない領域”。
管理にも、略奪にも、救済にも。
誰にも。
だから、
ここだけが純粋に“残っている”。
ユウが残した余白。
アルトが残した判断。
その先に生まれた空間。
シオンは、心の奥で呟いた。
(……ユウ)
(あなたが拾った未来が、ここにある)
ユウ本人はいない。
でも“拾い方”だけが残っている。
その沈黙が、答えだった。
最後に、ミサの端末が一度だけ震えた。
画面に、たった一行。
Δ : FIRST INTERNAL RECORD
Δ:内部初記録
それはまだ公表されない。
誰も知らない。
でも、確かに。
世界の中で初めて、
“Δ”が言葉として固定された。
シオンはそれを見て、静かに言った。
「……世界が、もう戻れない」
ノクスが頷く。
「最初から戻れない」
「ただ、それが“見えるようになった”だけだ」
セイルが言う。
「なら進むしかない」
「境界の先へ」
ミナトが歯を食いしばり、笑う。
「……最悪だな」
「でも、やるしかねぇ」
レムが小さく言った。
「……わたし、消えない?」
シオンはレムの手を握った。
強く。
「消えない」
「私が、消させない」
その瞬間、
シオンの胸の奥の熱が、少しだけ落ち着いた。
そして黒いノイズは、
“発動”ではなく、
“残響”として残った。
孤独になった瞬間、制度は勝つ。
夜の空気は冷たい。
逃げた直後の呼吸は、肺の奥が痛む。
走った分だけ、生きている実感がある。
それが逆に怖かった。
「生きてる」って感じる時は、
すぐ隣に“死”がいる。
ミナトはレムを抱えたまま、崩れた壁の陰に座り込んだ。
「……ここで止まる!」
「一回、息整えろ……!」
レムは泣き止んでいない。
けれど声を殺していた。
泣くのも、今は危険だから。
泣く音は、追跡を呼ぶ。
ノクスが暗い通路の先を見たまま言う。
「追ってくる」
「数じゃない。精度だ」
セイルが即座に頷く。
「追跡ルートが、もう作られている」
「“登録者L-17”のログが起点になってる」
ミサが肩で息をしながら端末を取り出す。
「……回線、遮断されてる」
「位置情報が拾われてる感じがする……やばい」
シオンは壁に手をつき、ゆっくり立ち上がった。
胸の奥がまだ熱い。
守りたい。
怒りじゃない。
憎しみじゃない。
ただ、守りたい。
その感情が残っているから、呼吸が乱れる。
そして、その呼吸の乱れが――
また世界を歪ませそうで怖い。
「情報遮断、始まったな」
ノクスがそう言った瞬間、シオンは理解した。
第2幕の18章。
情報遮断。
連絡線が切れる。
救済局の善意が“孤立”を作る。
人々を守るために、外を遮断する。
外が遮断されれば、
守られているようで、閉じ込められる。
救済と監禁は、同じ形をしている。
シオンは言った。
「NIGHT UNIONに連絡できる?」
ノクスは短く笑った。笑いじゃない、諦めに近い。
「……さっきから、繋がらない」
ミナトが顔を上げる。
「ノクス、あんたらの裏ルートは?」
「夜の連合って、こういう時のために――」
ノクスは首を振った。
「切られてる」
「“夜”そのものが、遮断されてる」
その言葉が不気味だった。
夜そのものが遮断される。
つまり、
闇に紛れる自由が失われる。
管理は光で世界を塗りつぶす。
照らすのではない。
塗りつぶす。
ミサが端末の画面を見て、青ざめた。
「……通信だけじゃない」
「周波数帯が、“再編”されてる」
セイルが即座に理解する。
「GENESISの管制が地域をロックした」
「民間帯域を捨てて、管理帯域だけ通す構造に切り替えた」
ミナトが顔をしかめる。
「意味わかんねぇ……」
セイルは淡々と言った。
「意味は一つ」
「“繋げさせない”」
「人は繋がれば逃げられる」
「繋がれば助け合える」
「繋がれば、評価不能な生存が増殖する」
「だから切る」
理屈は合理的だった。
合理的すぎて、胸が痛い。
シオンは小さく言った。
「……正しすぎる」
それが第2作でアルトが感じた“怖さ”だ。
正しさは人を救う。
でも同時に、人を切る。
レムはミナトの腕の中で震えていた。
「……みんな、怒ってる?」
シオンが視線を向けると、レムは怯えた目で見上げていた。
「……私、悪いことしたの?」
その言葉に、シオンは喉が詰まった。
悪いことをしたのはレムじゃない。
制度だ。
でも制度は悪くない顔をしている。
善意の顔で動いている。
だから、悪いのは誰か分からない。
分からないまま、子どもが責められる。
その構図が一番残酷だ。
シオンはレムの髪を撫でた。
「悪くない」
「絶対に」
レムが泣きながら、ぽつりと言う。
「……でも、Δって書いてあった」
ミサが息を飲む。
セイルが目を閉じる。
ノクスが静かに言う。
「……見たのか」
レムは頷いた。
「……うん」
「札の裏」
シオンの胸が締め付けられる。
Δ-17。
誰かが、最初から決めていた。
分類した。
番号を振った。
回収したい。
子どもを、“現象”にしたい。
その時、遠くで低い音がした。
ドン。
ドン。
車両の振動。
重い足音が、複数。
セイルが即座に立ち上がる。
「来る」
ノクスが壁の隙間から外を覗く。
「……治安部隊じゃない」
「回収部隊だ」
回収部隊。
救済とは別の手。
救済が“表の顔”なら、回収は“裏の手”。
同じ組織の中で役割が分かれている。
片方が優しく抱き上げて、
もう片方が黙って持ち去る。
世界はそれを「合理」と呼ぶ。
ミナトが歯を食いしばる。
「どうすんだよ……!」
「このままじゃ、詰むだろ!」
シオンが口を開こうとした瞬間、
ミサの端末が、微かに震えた。
「……!」
画面に一つだけ、通知が出る。
文字が乱れている。
途切れている。
けれど、表示された発信者名は確かだった。
ALTO
シオンの心臓が跳ねた。
アルト――
第2作の主人公。
管理内の人間。
合理を信じた人間。
それでも余白を残した人間。
その“残す判断”が、まだ生きている。
ミサは震える手で受信を開いた。
音声は酷くノイズ混じりだった。
プツ、プツ、と切れる。
それでも、アルトの声だと分かる。
「……シオン……聞こえるか……」
「登録試験……本格化……想定以上に早い……」
「……レムを……絶対に……」
次が聞こえない。
ノイズが重なる。
そして――
一瞬だけ、別の音が混じった。
金属が擦れる音。
誰かが扉を閉める音。
そして、アルトの声が、さらに低くなる。
「……監査局が……動いた」
「……この回線も……すぐ……」
そこで、音声が途切れた。
画面が黒になる。
通信が死んだ。
シオンは息を止めていた。
アルトが動いている。
内部から助けようとしている。
でも回線が切れた。
情報遮断が完成していく。
つまり、アルトも孤立している。
内部の人間なのに、孤立する。
管理という巨大機構は、
内部の個人すら孤独にする。
だからこそ、怖い。
「……アルト」
シオンは小さく呟いた。
彼は敵ではない。
味方でもないかもしれない。
でも、同じ問いを抱えている。
“残す”とは何か。
セイルが即座に判断する。
「ここに留まると回収される」
「移動する」
ノクスが頷く。
「逃げ道は一つ」
「夜の通路」
ミナトが睨む。
「夜の通路が切られてるって言っただろ!」
ノクスは静かに言った。
「切られてるのは“連絡線”だ」
「道は、まだある」
ミサが言う。
「……でも、追跡ログがある」
「どこへ行っても捕まるんじゃ……」
セイルが答える。
「捕まらない場所がある」
シオンが見る。
セイルは、ほんの一瞬迷った顔をした。
そして言った。
「……“評価不能領域”の中だ」
全員が沈黙する。
そこは危険だ。
そこは未定義だ。
そこは、世界のルールが効かない。
でも――
だからこそ、追跡も効かない。
それは生存だ。
ユウが残した“誤差”の領域。
アルトが残した“余白”。
そして、レムが分類された“Δ”の場所。
皮肉だ。
救うには、世界の外へ出なければならない。
レムが小さく言った。
「……そこに行ったら、消える?」
シオンは即答した。
「消えない」
「消えさせない」
その言葉は誓いだった。
誓いは、世界に記録されない。
でも記録されない誓いが、
未来を拾う。
回収部隊の足音が近づく。
ドン、ドン。
空気が震える。
シオンの鼓動も震える。
ノイズの黒が、また喉元まで来る。
でもシオンは踏みとどまった。
今は、暴走じゃない。
一歩ずつでいい。
逃げる。
守る。
拾う。
この行動が、
BORDER REMAINSを“チーム”にする。
ノクスが短く言った。
「動け」
ミナトがレムを抱き直す。
「掴まってろ、落とさねぇ」
ミサが端末を握りしめる。
「……次の通信が来ても、もう受けられないかも」
セイルが先頭に立つ。
「音を出すな」
「足跡を残すな」
シオンは最後に振り返った。
登録所の方角。
あそこには、人々がいた。
救われたい人々がいた。
救済の列があった。
でも、
救済はもう救済じゃない。
救済は“制度の入口”になった。
その入口に、彼女たちは背を向ける。
そして、境界へ向かう。
評価不能領域へ。
――世界が“通信を奪う”ということは、
人間から「助けを呼ぶ権利」を奪うということだ。
夜の通路は、地上じゃない。
地下でもない。
境界だ。
崩れた道路の下。
腐食した地下鉄の連絡路。
旧時代の設備が折り重なり、
人の手で“道にされた残骸”。
ミナトが先頭のセイルに噛みつくように言う。
「この先、ほんとに安全なのかよ」
セイルは振り返らず、淡々と答えた。
「安全じゃない」
「だが、追跡は鈍る」
ミナトが舌打ちする。
「最悪だな……」
ノクスが小さく笑う。
「最悪は、まだ下にある」
冗談でも、笑えなかった。
ミサが端末の画面を何度も叩いていた。
意味がないと分かっているのに、止まらない。
「……圏外」
「圏外っていうか、圏外“にされた”」
シオンは歩きながら、呼吸を整えようとしていた。
しかし、胸の奥が妙に熱い。
さっきの“ワイヤーがズレた”瞬間から、
何かが体内で残っている。
血が熱い。
耳鳴りがする。
視界の端が、一瞬だけ暗くなる。
(落ち着け……)
(これは、まだ……)
発動じゃない。
でも、同調が始まっている。
Δは感情の爆発じゃない。
“臨界の一致”だ。
誰かを守る。
誰かを残す。
その意志が世界の処理能力を超えた瞬間に起きる。
レムがミナトの腕の中で、息を潜めている。
その小さな体が震えている。
それが怖かった。
子どもの震えは、体温のノイズだ。
セイルが立ち止まり、手を上げた。
「止まれ」
全員が息を止める。
遠くから、響く音があった。
カツ。
カツ。
カツ。
金属靴が地面を叩く音。
――追ってきている。
でも足音が、妙に一定だった。
「……歩調が揃いすぎてる」
シオンが呟く。
ノクスが低く答える。
「回収部隊だ」
「訓練じゃない、“仕様”」
仕様。
人間を、人間じゃなくす言葉。
ミサが言った。
「治安部隊とは違う……」
「音が少ない。無駄がない」
ミナトはレムを抱く腕に力を込める。
「……こいつら、最初から捕まえる気だ」
セイルが短く頷く。
「捕まえるだけではない」
「回収する」
それは“戻す”に近い。
元の場所へ。
管理が届く場所へ。
評価ができる場所へ。
ノクスが壁の隙間を指差した。
「ここを抜ける」
そこは人一人がやっと通れる裂け目だった。
コンクリが割れて、鉄骨が歪み、
薄暗い隙間が“道”になっている。
ミナトが顔を歪める。
「抱えたまま通れねえ」
シオンが即座に言った。
「レム、私が持つ」
レムはびくっとした。
でも、すぐにシオンを見た。
怖い。
でも、信じたい。
その顔だった。
ミナトがレムをそっとシオンに渡す。
シオンの腕に、軽さが乗る。
軽い。
軽すぎる。
その軽さが、怖かった。
世界はこの軽さを、簡単に消せる。
だから守る。
守らなければならない。
全員が裂け目に入る直前、
ミサの端末が、また震えた。
「……っ」
画面がノイズで乱れる。
何も表示されない。
それでも、確かに“信号”が来ている。
ミサは歯を食いしばる。
「来てる……!」
「でも解析できない……!」
セイルが即断した。
「捨てろ」
「追跡になる」
ミサが息を呑む。
「でも……アルトからの……」
ノクスが言った。
「持っている限り、追われる」
「繋がりは武器だ。敵の」
その言葉が、胸に刺さる。
繋がりは救いのはずだった。
でも、今は捕まえる鎖だ。
ミサは震えながら端末を見た。
そして、画面の片隅に出た一文字を見た。
Δ
ただ、それだけ。
通知欄に“Δ”が残り、
そのまま消えた。
ミサの声が掠れる。
「……Δって……」
シオンの胸がまた熱くなる。
レムが小さく言った。
「……また出た」
レムの札も、微かに熱を帯びている。
紙なのに。
そこに文字が焼き付いているみたいに。
裂け目を抜ける。
鉄骨の間をくぐる。
腐食した配管を跨ぐ。
足元の水たまりは黒く、
踏むたびに“ぬるい音”がした。
まるで世界が腐っている。
その腐敗の中を、
生き残りだけが進んでいく。
セイルが小声で言った。
「もうすぐ入口だ」
ミナトが息を吐く。
「評価不能領域って、どんな場所なんだよ……」
ノクスは淡々と言った。
「管理が届かない場所」
「だから、“何でも起こる”」
ミナトが顔を歪める。
「最悪じゃねぇか」
ノクスは一瞬だけ目を細めた。
「最悪でも、自由だ」
その言葉が、怖いほど真っ直ぐだった。
一行はさらに進む。
そして、通路の端に辿り着いた。
そこには――
扉がない。
ゲートもない。
ただ、空間が“歪んでいる”。
まるで空気が薄い。
音が小さくなる。
視界の端が微かに黒ずむ。
境界線。
評価不能領域の入口。
シオンの喉が鳴った。
怖い。
でも、怖さよりも――
“何か”が、ここに応える気がした。
レムがシオンの服をぎゅっと掴む。
「……ここ、やだ」
シオンは優しく言った。
「怖いよね」
「でも、ここなら捕まらない」
レムは泣きながら首を振る。
「……捕まらないの、怖い」
その言葉が、真理だった。
管理されることは怖い。
でも、管理されないことも怖い。
人間は矛盾の生き物だ。
その矛盾を、GENESISは“処理すべき誤差”として切り捨てる。
でもそれこそが、人間だ。
その時。
背後の通路に、光が走った。
赤いライト。
暗視照準。
無音の隊列。
回収部隊だ。
彼らは速い。
静かだ。
正確だ。
“捕まえ方”が完璧すぎる。
セイルが言った。
「来た」
「迷う時間はない」
ミサが震える声で言う。
「入ったら……戻れないかも……」
ノクスが答える。
「戻れる場所なんて、最初から無い」
ミナトが叫びたいのを堪え、低く吐き捨てる。
「……くそっ」
シオンはレムを抱え直し、入口を見た。
歪む空間。
そこに踏み込むだけで、
世界のルールが変わる。
でも今は、踏み込まないと消える。
シオンは決めた。
「行く」
その瞬間、
空間の歪みが一瞬だけ“濃くなる”。
まるで、入口が反応したみたいに。
レムの札が熱くなり、
シオンの胸の奥が、また同調する。
(……世界が、呼んでる)
Δはまだ発動していない。
でも世界が、“Δを必要としている”みたいだった。
回収部隊の指揮官が声を出した。
低い、無機質な声。
「対象を確保する」
「抵抗は無効化する」
その声には憎しみがない。
怒りもない。
ただの処理。
人間は処理される。
そういう世界。
だからこそ、
シオンは足を踏み出した。
入口へ。
評価不能領域へ。
そして――
背後で、金属が鳴った。
拘束弾が放たれる音。
間に合わない。
その瞬間、シオンは――
“守りたい”が、臨界まで跳ね上がった。
世界が黒くなる。
視界の端が、ノイズで塗り潰される。
でも、発動じゃない。
まだだ。
まだ、耐えろ――
シオンは歯を食いしばり、レムを抱き締めて飛び込んだ。
――追跡が止まった瞬間、安心するべきだった。
けれど本当は、その瞬間こそが「異常」の始まりだった。
シオンが踏み込んだ瞬間。
世界が――沈黙した。
音が、消える。
回収部隊の足音も、
ライトの機械音も、
金属が擦れる気配も。
まるで、空気の層が一枚剥がされて、
そこだけ“無音の空洞”になったみたいだった。
息を吸う音すら、遠い。
そして――
自分の心臓の音だけが、異様に大きい。
ドクン。
ドクン。
ドクン。
それだけが、世界の中心になった。
次の瞬間、背後の空気が引き裂かれるような感覚がした。
拘束弾が、
“撃たれた”はずだった。
でも――
当たらない。
正確な回収部隊の弾が、
まるで目標を見失ったように、空を切った。
いや、違う。
彼らが見失ったんじゃない。
世界が、シオンたちを“見えなくした”。
評価不能領域とは、
ただログに残らないだけじゃない。
世界の観測そのものが届かない場所だ。
シオンは息を呑み、後ろを振り返った。
入口の向こうに、回収部隊がいる。
ライトは点いている。
銃も構えている。
でも――
そこにいるはずの人間が、まるで薄いガラス越しに見えている。
音も、熱も、距離感も違う。
一枚、隔たっている。
世界が二層になった。
それを、肌で理解した。
「……入った」
ミナトが息を吐いた。
「追ってこねぇ……!」
言いながらも、声が震えている。
安心していいはずなのに、
安心が怖い。
ミサが端末を見て叫ぶ。
「追跡ログが……消えた!」
「信号が切れてる……!」
セイルが周囲を見回しながら言った。
「追跡は止まった」
「だが、ここは――」
ノクスが静かに続ける。
「“安全”じゃない」
「自由な場所は、危険も自由だ」
その言葉が落ちた瞬間。
空気が、揺れた。
揺れたというより、
“歪んだ”。
視界の端が一瞬だけ引き伸ばされ、
世界の輪郭が、ほんの一拍遅れて戻る。
まるで現実が、再描画されている。
レムが、シオンの腕の中で小さく呻いた。
「……あつい」
シオンがレムの額に触れる。
熱はない。
体温は普通だ。
でもレムは確かに“熱い”と言った。
それは体温じゃない。
何かが――
札の中で、燃えている。
シオンがレムの胸元を見る。
そこにある札が、微かに黒ずんでいた。
紙が焦げたみたいに、
縁が焼けている。
そして――
裏面に、薄い文字が浮いてくる。
シオンは息を止めた。
そこにははっきりと、こう刻まれていた。
Δ-17
ミサが青ざめる。
「……やっぱり……」
ノクスが目を細める。
「番号じゃない」
「“現象識別子”だ」
セイルが言う。
「GENESISは“偶然”を嫌う」
「偶然に番号を振ることはない」
ミナトの拳が震える。
「……つまり最初から狙われてたってことかよ」
シオンは唇を噛んだ。
狙われていた。
回収される予定だった。
救済じゃない。
対象化だ。
シオンはレムを抱き締めた。
「レム、聞いて」
「君は番号じゃない」
レムは涙目で見上げる。
「……でも、Δってなに」
シオンは答えられなかった。
まだ名前にしたくない。
名前にした瞬間、
それは“制度に取り込まれる”。
でも、もう遅いのかもしれない。
GENESISが先に名付けた。
Δ。
未知を識別するための符号。
世界の誤差に付けられた印。
それが怖い。
その時。
ミサの端末が、勝手に起動した。
電源を切ったはずなのに。
画面が点き、
ノイズが走り、
勝手に記録を始める。
ミサが叫ぶ。
「ちょ……なにこれ!?」
端末のログ画面には、ただ一行だけ表示された。
UNOBSERVED FRAME DETECTED
観測不能フレーム検知。
“観測不能”という矛盾した言葉。
観測できないのに検知する。
だからこそ、異常だ。
そしてその下に、
数値が流れた。
心拍。
体温。
位置。
“同期率”。
同期率?
ミサが震える声で言う。
「同期……って……」
「誰と誰が……?」
その瞬間、シオンは理解した。
この場にいる全員の“何か”が、揃い始めている。
シオンの心拍が、少しずつ整う。
ミサの呼吸が、同じテンポになる。
セイルの瞬きが、同じ間隔になる。
ノクスの足音が、同じリズムになる。
ミナトでさえ、
怒りの呼吸が、一定になる。
そして――
レムの震えが止まる。
止まった瞬間、逆に怖い。
静かすぎる。
セイルが眉をひそめた。
「……空間の熱分布が偏っている」
ノクスが周囲を見回す。
「ここだけ、温度が違う」
「空気が薄い」
ミナトが吐き捨てる。
「幽霊屋敷かよ……」
ミサが必死に端末を操作する。
「待って……このログ、外に送られてない……」
「送信先がない……」
セイルが即答した。
「そうだ」
「ここは観測不能領域」
「GENESISですら完全には届かない」
シオンは胸を押さえた。
熱が、消えない。
胸の奥に、
黒いノイズが渦巻いている。
それは“怖さ”じゃない。
守りたい意志が、
まだ燃えている。
燃えすぎている。
(落ち着け……)
(まだ発動するな……)
Δは、今出たら終わる。
世界に「証明」される。
証明された瞬間、
回収される。
入口の向こう側。
回収部隊のライトが、微かに揺れた。
彼らは入ってこない。
入れない。
でも――
諦めてもいない。
指揮官らしき影が、通信しているのが見えた。
声は届かない。
だが、口の動きは読めた。
「対象、ロスト」
「境界域に侵入」
「追跡不能」
それは、敗北報告じゃない。
次の手の準備だ。
ミサの端末が、また勝手に文字を吐いた。
Δ SIGNAL: NOT CONFIRMED
Δ SIGNAL: TRACE ONLY
Δ信号:未確認
Δ信号:痕跡のみ
シオンは息を止めた。
確認されていない。
まだ確定じゃない。
でも痕跡は残った。
つまり、
世界は“Δ”を記録し始めた。
それだけで十分に怖い。
ノクスが言った。
「ここで止まるな」
「境界の内側へ進め」
セイルが頷く。
「入口付近は危険だ」
「観測が“薄く届く”」
ミナトがレムを見た。
「こいつ、歩けるか?」
レムは小さく頷いた。
涙を拭いて。
「……うん」
「がんばる」
その言葉が、胸に刺さった。
がんばる、なんて言わせたくない。
子どもに。
でもこの世界では、
がんばらないと消える。
だから、シオンは決めた。
この世界を変えるわけじゃない。
壊すわけでもない。
ただ、拾う。
拾える未来を、残す。
その行動が、
いつかΔを目覚めさせるとしても。
一行は、評価不能領域の奥へ進む。
足元の瓦礫が、微かに浮く。
金属片が、勝手に回転する。
空気が“ふわり”と軽い。
現実が、現実じゃなくなり始める。
それでも歩く。
歩くしかない。
そして、シオンは気づいた。
この場所は――
恐ろしく静かで、
恐ろしく美しい。
崩壊した世界の中で、
唯一“誰にも触られていない領域”。
管理にも、略奪にも、救済にも。
誰にも。
だから、
ここだけが純粋に“残っている”。
ユウが残した余白。
アルトが残した判断。
その先に生まれた空間。
シオンは、心の奥で呟いた。
(……ユウ)
(あなたが拾った未来が、ここにある)
ユウ本人はいない。
でも“拾い方”だけが残っている。
その沈黙が、答えだった。
最後に、ミサの端末が一度だけ震えた。
画面に、たった一行。
Δ : FIRST INTERNAL RECORD
Δ:内部初記録
それはまだ公表されない。
誰も知らない。
でも、確かに。
世界の中で初めて、
“Δ”が言葉として固定された。
シオンはそれを見て、静かに言った。
「……世界が、もう戻れない」
ノクスが頷く。
「最初から戻れない」
「ただ、それが“見えるようになった”だけだ」
セイルが言う。
「なら進むしかない」
「境界の先へ」
ミナトが歯を食いしばり、笑う。
「……最悪だな」
「でも、やるしかねぇ」
レムが小さく言った。
「……わたし、消えない?」
シオンはレムの手を握った。
強く。
「消えない」
「私が、消させない」
その瞬間、
シオンの胸の奥の熱が、少しだけ落ち着いた。
そして黒いノイズは、
“発動”ではなく、
“残響”として残った。
0
あなたにおすすめの小説
AFTER ZERO:Crisis Ⅳ ~定義される歪み~
AZ Creation
SF
崩壊後の世界は管理機構《GENESIS》が支配し、生存は評価値と登録で決まる。境界で救助を続けるBORDER REMAINS(ユウ・アルト・シオン)は、ある作戦で“あり得ない現象”を連鎖させ、監視ログに黒ノイズや存在しないフレームを残してしまう。世界はそれをΔ(デルタ)と認識する。
Δは超能力ではなく、評価不能領域が臨界を超えたとき世界の法則に生じた“差分”が人間に定着した現象。本人は自発的に使えず、結果だけが先に起き、必ず代償が返る。ユウは拾う行為で戦場に生存ルートを生むが危険物まで拾い、アルトは正しさを崩壊させるが味方の指揮も壊し、シオンは救える未来へ収束させるほど救えない未来が確定していく。
GENESISはΔを異常ではなく兵器と資源として制度化し、評価値よりΔ適合値(Δレート)を優先し始める。逃げながら検証し、条件と範囲を掴もうとする彼らの前に、未来固定・例外削除・倫理拘束など敵Δが現れ、三人を分断して追い詰める。敗北の果てに突きつけられるのは「公表すれば狩り、隠せば独占」という地獄の選択。彼らは勝利ではなく、制度化できない“逃げ場”を世界に残す道を選ぶ。だがΔは止まらず、戦争は始まってしまう。
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
日本新世紀ー日本の変革から星間連合の中の地球へー
黄昏人
SF
現在の日本、ある地方大学の大学院生のPCが化けた!
あらゆる質問に出してくるとんでもなくスマートで完璧な答え。この化けたPC“マドンナ”を使って、彼、誠司は核融合発電、超バッテリーとモーターによるあらゆるエンジンの電動化への変換、重力エンジン・レールガンの開発・実用化などを通じて日本の経済・政治状況及び国際的な立場を変革していく。
さらに、こうしたさまざまな変革を通じて、日本が主導する地球防衛軍は、巨大な星間帝国の侵略を跳ね返すことに成功する。その結果、地球人類はその星間帝国の圧政にあえいでいた多数の歴史ある星間国家の指導的立場になっていくことになる。
この中で、自らの進化の必要性を悟った人類は、地球連邦を成立させ、知能の向上、他星系への植民を含む地球人類全体の経済の底上げと格差の是正を進める。
さらには、マドンナと誠司を擁する地球連邦は、銀河全体の生物に迫る危機の解明、撃退法の構築、撃退を主導し、銀河のなかに確固たる地位を築いていくことになる。
JKメイドはご主人様のオモチャ 命令ひとつで脱がされて、触られて、好きにされて――
のぞみ
恋愛
「今日から、お前は俺のメイドだ。ベッドの上でもな」
高校二年生の蒼井ひなたは、借金に追われた家族の代わりに、ある大富豪の家で住み込みメイドとして働くことに。
そこは、まるでおとぎ話に出てきそうな大きな洋館。
でも、そこで待っていたのは、同じ高校に通うちょっと有名な男の子――完璧だけど性格が超ドSな御曹司、天城 蓮だった。
昼間は生徒会長、夜は…ご主人様?
しかも、彼の命令はちょっと普通じゃない。
「掃除だけじゃダメだろ? ご主人様の癒しも、メイドの大事な仕事だろ?」
手を握られるたび、耳元で囁かれるたび、心臓がバクバクする。
なのに、ひなたの体はどんどん反応してしまって…。
怒ったり照れたりしながらも、次第に蓮に惹かれていくひなた。
だけど、彼にはまだ知られていない秘密があって――
「…ほんとは、ずっと前から、私…」
ただのメイドなんかじゃ終わりたくない。
恋と欲望が交差する、ちょっぴり危険な主従ラブストーリー。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる