サイコペインター・不知火 灯

AZ Creation

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第二十一話 描かないと決めた日

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 港町の朝は、音が低い。

 遠くで動くクレーンの金属音も、波止場に当たる波も、都会の騒音のように重ならない。空気の層が一枚多いように、すべてが少しだけ遠くで鳴っている。

 灯はその静けさが気に入って、この町を選んだ。

 事件が少ない。人の流動が少ない。顔を覚えられにくい。
 そして何より――視線が少ない。

 描かないで生きるには、都合がよかった。

 机の上には何も置いていない。ノートも、紙も、ペンもない。ただ木目の浮いた天板だけが広がっている。作業机ではなく、置物のない台のようだった。

 描く環境を作らない。
 それが、いまの彼女の唯一の予防策だった。

 スケッチブックは引き出しの奥にしまってある。鍵はかけていない。紐も巻いていない。ただ重ねているだけだ。封じるという行為に意味を与えたくなかった。意味は、未来を呼び込む。

 指先が、何もない机の上をなぞる。紙の抵抗を探す癖が抜けない。
 幻の摩擦をなぞって、灯は小さく息を吐いた。

 そのとき、携帯が震えた。

 着信音は切ってある。それでも、振動だけで誰からか分かることがある。出たくない相手の連絡は、表示を見る前に体が理解する。

 画面に出ていたのは、東堂恒一の名前だった。

 数秒ためらってから、通話ボタンを押す。

「……はい」

『久しぶりだな』

 声は以前と変わらない。低く、急がない調子だった。命令でも依頼でもなく、ただ事実を置く話し方。

「どうしました」

『未解決案件が出た』

 それだけで内容は足りていた。灯は窓の外を見た。港の光が鈍く反射している。

「私はもう関わりません」

『分かってる』

 即答だった。

『描かないんだろ』

「はい」

『それでも連絡した』

 そこで初めて、言葉が止まる。

『似た絵が出た』

 胸の奥がわずかに縮んだ。

「……誰のですか」

『君じゃない』

「なら関係ありません」

『ある』

 東堂は短く言った。

『描き方が似ている』

 それは、能力者の存在を意味していた。偶然の一致では済まない領域の話だ。

 灯は視線を落とした。自分の右手を見る。いまは何も持っていない。だが、持っていなくても描いてしまうことがある。

『顔を見るな』

「え?」

『対象を認識するな。それが引き金になる』

 核心だけを置いて、東堂は通話を切った。

 部屋に静けさが戻る。

「対象を認識するな、か……」

 それができれば、苦労はしない。

 昼過ぎ、仕事先のカフェは光が斜めに入っていた。港側の窓は広く、ガラス面の反射が床に伸びている。客はまばらで、話し声も低い。

 レジ裏の掲示板に、新しい紙が増えていた。

 白地に写真。
 行方不明者のチラシ。

 視界の端に入った瞬間、灯は視線を逸らそうとした。だが、ほんの半拍遅れた。

 輪郭を認識した。

 顎の線。目の間隔。髪の分け目。

 それだけで十分だった。

 胸の奥が熱を帯びる。呼吸が浅くなる。
 描画前兆。

「……っ」

 手をカウンターの下に引っ込める。紙に触れないように。ペンを持たないように。

 だが身体は別の動きをした。

 レシート用紙を引き寄せ、ボールペンを拾う。
 止めるより早く、ペン先が紙に触れた。

 音が遠のく。

 描画発動。

 最初に引かれたのは斜めの直線だった。道路標示のライン。次に、人物の肩の曲線。横顔の輪郭が、迷いなく浮かび上がる。記憶ではない。観察でもない。未来の情報だ。

 首は半分だけ回転している。振り向きかけの角度。
 背後に散る小さな三角形。大小混じった破片。

 ガラスだ。

 背景には四角い光面。ショーウィンドウ。反射線。
 人物の瞳は描かれない。だが口元がわずかに開いている。叫ぶ直前の形。

 ――衝突の三秒前。

 線が止まった瞬間、世界の音が戻る。カップの触れる音、空調の風、遠い話し声。

 灯は紙を見つめた。

「また……固定した」

 未来の一場面を。

 閉店後、裏口の空気は少し冷えていた。潮の匂いが濃い。

 壁にもたれていた東堂が顔を上げる。

「描いたな」

「顔に出ますか」

「空気に出る」

 彼は近づかない。紙も覗き込まない。その距離感が以前と違っていた。

「絵は見せません」

「いい。説明だけでいい」

 灯は構図を言葉に変えた。横顔、ガラス、三秒前。東堂はそれだけで無線を入れ、交差点の誘導を一方向だけ変えた。

 二十分後、事故は起きなかった。

 未来は外れた。

 固定されなかった。

 それでも灯の胸は軽くならない。

 帰宅すると、郵便受けに封筒が入っていた。

 中には一枚の紙。

 交差点の構造図。導線と停止位置だけが描かれている。人物は一人もいない。

 だが分かる。同じ瞬間だ。

 余白に一行だけ書かれていた。

【人物ではなく配置を描け】

 灯は静かに息を吐いた。

「……もう一人いる」

 未来を描く者が。
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