妖精巫女と海の国

もも野はち助

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31.もう一人の風巫女

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 食堂で昼食を取った後、アズリエールは姉とラウルの三人でフィルクス隊の船に乗り込む。すると、船がゆっくりと港を離れ、港内を旋回し出した。

「本日は週末でもあるので、あまり船の出入りはございませんが……。よろしければ我々の船でユリアエール様の風巫女のお力をお試しください」
「ありがとうございます。それでは遠慮なく……」

 そう言って姉がケースから愛用のヴァイオリンを出す。
 ずっと家に引きこもり気味だった姉のヴァイオリンの腕前は、若い頃にその演奏を大絶賛されていた母をも凌ぐ程の腕前なのだ。
 スッと構えた姉は、相変わらずの繊細で儚い印象を与える美しい立ち姿を披露する。
 すでにその姿を見慣れているアズリエールはそこまで感動はないが、今回初めて姉のその姿を目にするマリンパールの人々はラウルやフィルクスも含め、一瞬で姉に釘付けになっていた。

「それでは、演奏を始めます……」

 そう静かに宣言したユリアエールは、ゆっくりと瞳を閉じて体を揺らしながら、ヴァイオリンの弓を動かし始める。すると弦楽器とは思えない程の澄み切った美しい音色が海上に響き渡る。
 そしてその美しい音色を紡ぎ出す姉は、ゆったりと、優しい表情で優雅にヴァイオリンを演奏する。その姿は妹のアズリエールでさえ、何度見ても目が釘付けになってしまう程の美しさだ。
 当然、この船の団員や乗組員達も同じように見惚れてしまっている。
 その美しい音色は、更に乗組員達を甲板へと誘い出す。

 甲板に人が集まり出すと、少しだけ船が加速し始めた。
 同時にユリアエールの周りから、優しい風がふわりと広がり出す。
 瞬発的な威力を発揮するアズリエールの風と違い、姉の巻き起こす風は穏やかで優しく吹き荒れる風だ。まるで春風のような心地よさを感じさせるその風は、団員や乗組員達の心を和ませる。
 爽快感を感じさせるアズリエールの起こす風とは違い、心地よい風だ。

「まるで美しい鳥乙女とりおとめが奏でる竪琴の音色を彷彿させるような魅惑的な演奏ですね……」

 アズリエールの隣にいたフィルクスが茫然としたまま、ボソリと呟く。
 マリンパールでは船乗りを惑わす美しい魔物の伝説がいくつかある。
 特に有名なのが上半身が美しい人間の女性で下半身が鳥の姿をしている鳥乙女とりおとめと呼ばれる魔物と、同じく上半身は美しい女性で下半身が魚という鱗乙女うろこおとめと呼ばれる魔物だ。

 どちらも美しい歌声で船乗りたちを惑わしながら眠らせ、船を沈ませると言う何とも迷惑な魔物として語り継がれている。だが鳥乙女とりおとめの方は、歌だけでなく竪琴を使って美しい音色を奏でて船乗りたちを惑わせるという伝説もあるのだ。
 そんな迷惑な伝説の魔物達だが、船乗りからは何故か愛されている。
 それは魔物であるのに魅惑的な美しい容姿を持ち、例え命を引き換えにしてでも聞きたくなるような美しい歌声と音色を披露してくれるという言い伝え部分が愛される所以だ。

 そもそもこの伝説は、海難事故等で亡くなった人々の遺族を慰める為に生まれたらしい。海で亡くなった人々は、その直前に魔物達が奏でる美しい音を聴きながら死んで行くのだから、苦しまなかったはず――――。
 そんな亡くなった人々と、その遺族を慰める為に生まれたとされている言い伝えなのだ。

 その為、美しい鳥乙女とりおとめ鱗乙女うろこおとめに女性が例えられる事は、この国では女性への賛辞という扱いになる。先程のフィルクスの言葉も姉の演奏する姿が、あまりにも人間離れした美しさと、その奏でる音色が素晴らしいという意味で、その様に表現したのだろう。
 しかしアズリエールにとっては、そのフィルクスの言葉が本来の鳥乙女とりおとめの特徴でもある言い伝え通りではないかと思ってしまう。何故なら目の前でヴァイオリンを演奏している姉の姿は、まさにこの船の全乗員を魅了する事を目的としているように見えるからだ。

 同時に今この場にオルクティスがいない事にも安堵する。
 こんな見事過ぎる姉の特技を見てしまったら、いくらオルクティスでも一瞬で姉に落ちてしまうだろう。幼馴染で以前婚約者候補でもあったリックスやノリス達ように……。

 そんな事を考えてしまったアズリエールは、いつの間にか顔色が悪くなってしまっていたらしい。ラウルが気付き、かなり心配そうに顔を覗き込んで来た。

「アズリエール様? もしやお加減が優れないのでは?」
「え?」
「本当だ……。唇が真っ白ですよ? 今日は少し海風が冷たいので、もしかしたら体温を奪われてしまったのかもしれませんね。すぐに港へ戻りましょう!」
「だ、大丈夫だよ。そんな大袈裟な……」
「いけません! もしアズリエール様に何かあっては私達が、オルクティス殿下よりお叱りを受けます! どうか本日はお戻りになって、ゆっくりお休みください!」
「で、でも……。午後からテイシア様達とのお茶が……」

 嫌な事を思い出してしまったアズリエールは、唇だけでなく顔からも血の気が引く。
 更に心なしか、みぞおちの辺りに圧迫も感じ、やや前のめりな体勢にもなった。
 そのアズリエールの小さな異変に気付いたラウルが、呆れ気味で息を吐く。

「その件に関しては、現状アズリエール様の体調不良の為、オルクティス殿下にお断り頂くよう私の方からお願いしておきます。ですから、あまり無理をなさらないでください……。ここ最近のアズリエール様は、あまり元気がないようでしたので、ご無理をなさっていたのではありませんか?」
「え……?」

 そのラウルの言葉にアズリエールが大きく瞳を開く。
 その反応にラウルだけでなく、フィルクスも苦笑する。

「我々の事を見くびって貰っては困ります。もう一カ月以上もアズリエール様と行動を共にしていたのですよ? ここ最近の気落ちしているようなご様子に気付かない訳がないじゃないですか……」
「本日は久しぶりにお姉様とも再会されたので、恐らく安心感からか気の緩みも出てしまったのでしょう……。ですから、本日はゆっくりお休みになってください」

 畳み掛けるようにアズリエールに休息を勧めてくるラウルとフィルクスは、まるで過保護な兄達という感じだ。その過保護ぶりは、何となくサンライズにいるアレクシスを彷彿させる。甘やかそうという雰囲気はあまり感じられないが、その誘導は明らかにアズリエールを甘やかしている内容だ。
 その事に気が付いたアズリエールは、思わず吹き出してしまった。

「二人共、私に対して過保護すぎるよ……」

 すると二人は、お互いに顔を見合わせた後に苦笑した。

「我々が過保護な訳ではありませんよ?」
「過保護なのは、オルクティス殿下です」

 そうキッパリ言い切ってきた二人にアズリエールは、更に吹き出す。
 結局、この後はすぐに船は港に戻り、アズリエールは大事を取る為、自室のベッドで休まされてしまった。その間、ユリアエールはずっとアズリエールの手を握り、心配そうな表情を浮かべながら、なかなか傍から離れなかった。
 
 しかし、テイシアからのお茶の時間になると、姉は王妃付きの侍女に連れられ、渋々部屋を出て行った。そしてそれと入れ違いに今度はオルクティスが、アズリエールの様子を見に来る。

「アズリル、大丈夫?」

 そう言って寝台に腰掛け、アズリエールの額に大きな手を添える。
 ベッドに潜り込んでいたからか、少し体温が高くなっていたアズリエールには、オルクティスの手が少しひんやりしていて気持ち良かった。

「熱はないみたいだね……。疲れが出てしまったのかな?」
「疲れが出るような事は、あまりしていないのだけれど……」
「そうかな? ここ最近の君は心労が絶えなかったように思えるけれど?」

 珍しく意地の悪い笑みを浮かべてきたオルクティスにアズリエールが、やや頬を膨らます。
 その反応に苦笑しながら、そのままオルクティスが額に添えていた手でアズリエールの前髪部分を撫でだす。

「でも本当にここ最近の君は、少し追いつめられている様子が感じられたから……。でもその事を問いただされる事に君があまり快く思っていない事も理解はしているよ。だから追及はしない。でも――」

 そこで一瞬、間を取ったオルクティスはアズリエールの前髪辺りを撫でていた手をするりと頬の方へと滑らせる。

「一人で抱え込む事だけは、本当にやめて欲しい」

 いつもの甘やかす様な優しい表情ではなく、真顔で真っ直ぐ見据えてきたオルクティスにアズリエールが、大きく目を見開く。
 その反応を確認したオルクティスは、今度は困った様な笑みを浮かべながら、すぐに頬から手を離した。

「君は自分が思っている程、強くはないよ? それはしっかり自覚して?」

 優しくはない、それでも本気で心配してくれているからこそ放たれた言葉にアズリエールは、グッと唇を噛みしめ、掛布を鼻の辺りまで引き上げた。

「分かった……。ごめん……」
「謝らなくていいから、もっと僕に頼る癖を付けて欲しいかな?」
「分かってはいるけれど……自分の性格上、なかなか出来ないんだもん」

 拗ねるようにそう呟くと、アズリエールは更に掛布を引き上げ、すっかり寝台の中に潜り込んでしまった。その反応にオルクティスが吹き出す。

「そうだね……。アズリルは人に頼る事が苦手だもんね。でも、せめて僕に対しては、遠慮なく頼って欲しい。だって僕は君の婚約者だよ?」
「うん」
「少しずつでいいから……僕に頼る事に慣れて?」
「分かった。努力はしてみる……」

 寝台に潜り込んだまま返事をするアズリエールに苦笑しつつも、その頭部辺りをオルクティスが慰めるように優しくポンポンと叩く。

「とりあえず今日はゆっくり休んでね? 母の事は気にしなくていいから」
「ありがとう。オルク、あの……」
「うん?」
「ユリーは……今テイシア様とお茶をしているんだよね?」
「気になる?」
「少しだけ……」
「義姉上も一緒だから大丈夫だよ? それに……アズリルもあの二人が親睦を深めた方が、母に絡まれなくなるから心労が減るだろうし」
「やっぱり……。さっきユリーにテイシア様と親しくして貰いたいって言っていたのって、それが目的だったの?」
「もちろん。自分のお気に入りのお人形が欲しいのであれば、何もアズリルでなくてもいいのだから。ならば是非ユリアエール嬢に母のお気に入りのお人形になって貰えばいい訳だし」
「オルク……人の姉を勝手に自分のお母様に献上しないでよぉ……」

 そう言ってアズリエールが、潜り込んでいた寝台から、そっと顔を出す。
 その様子にオルクティスが、またしても吹き出した。

「だって母はアズリルよりもユリアエール嬢の方がお気に入りのようだから。ならばその気に入った方と過ごさせた方がいいと思って。そもそも僕にとっては、母の一番がアズリルでなくても気にしないし」
「で、でも!」
「アズリル。僕は母に対して、かなり怒っているからね?」

 そう言ってにこりと笑みを浮かべたオルクティスだが――。
 その目は全く笑っていない。

「君が母に抗議出来ない立場なのは理解しているし、何よりも君自身が人から拒絶される事に慣れていない所為で、過剰に母へと気を回し過ぎてしまう性格というのもの分かっているつもりだ。だから君が母へ怒れないのなら、僕がしっかりと怒る。母に僕の婚約者を疲弊させる権利などないのだから。だから週末のお茶の時間も僕から断りを入れておくよ」

 そのオルクティスの言葉にアズリエールが、ガバっと寝台から起き上がる。

「ま、待って! それはやめて!」
「だけど――」
「私、テイシア様とは親しくなりたいの!」
「アズリル……君が母と上手くやりたいという気持ちを持ってくれている事は嬉しいけれど、僕としては君が心労を抱えてしまう状態で、その件に力を注ぐ事はあまり望んではいないよ? 僕は成人したら臣籍降下でこの城を出て公爵邸で暮らすようになるから、君もそちらで生活するようになるし。母とはたまに顔を合わす程度の付き合いでも全く問題ないのだから」
「でも! 私はテイシア様と親子のように仲良くしたい……。ハルミリアお義姉様みたいにテイシア様に接して貰える様になりたいの……」


「あんなに意地悪されているのに?」
「意地悪……されているのかな?」
「意地悪というよりかは、無駄に追い詰められているという感じかな……。どちらにしても母の君への接し方は、僕にとっては許されるものではないのだけれど」
「でもテイシア様も好きであんな試す行動をなさっている訳ではないと思う」
「仮にそうだとしても第二王子の婚約者にあそこまで入念に試験的な事を繰り返す意味はないと思うよ? そもそも君は今のままでも十分第二王子の婚約者としての能力は高いと僕は評価している。だからこそ、それ以上を求める母に関しては、欲張り過ぎだと思う。ましてや、その求め方が君にかなり負担をかける方法なら尚更、僕は納得出来ない」

 いつも穏やかな口調で、柔らかく包み込む言い方が多かったオルクティスの辛口の物言いにアズリエールが、やや驚く。それを察したのか、オルクティスが少し困ったような表情で笑みを向けてきた。

「ごめんね、アズリル。僕はどちらかと言うと、こっちが素なんだ……」
「大丈夫。大分前から気づいていたから。それに私、今みたいなオルクの方が相談しやすいかも……」
「そう……なの?」
「うん。だってなんか今のオルクって、アレク兄様に少し雰囲気が似てるもん」

 そのアズリエールの言葉に何故かオルクティスが盛大にため息をついた。
 その反応にアズリエールが不思議そうに小首を傾げる。

「結局、君から絶大な信頼を得ているのはアレクシス殿下になるんだね……」
「何でそこでオルクが落胆気味になるの?」
「何でだろうね……。でも落胆せずにはいられない……」
「でも、ほら! 私の中での信頼度は確かにアレク兄様の方が高いけれど、好感度はオルクの方が高いから!」
「好感度って……どういう部分で?」
「例えば……話しやすいとか、一緒に居ると落ち着くとか……。でも一番は、オルクの前だと私はありのままでいられるから、変に気張って自分を作らなくてもいいって所かな?」

 少し照れ臭そうにアズリエールが言うと、一瞬だけオルクティスが驚くように目を見開く。しかし、その表情はすぐに優しそうな笑みへと変わった。

「確かにアズリルは、すぐに相手の好ましい理想イメージで振る舞おうとしがちだもんね……。そういう意味では君の心的負担の軽減には、僕も少しは役立っているのかな? でもね……」

 そこで一端、言葉を止めたオルクティスが腰をかがめながら、アズリエールに目線を合わすように顔を覗き込んできた。

「それならば、もう少し僕に頼ったり、甘えて来ては欲しいかなー」

 そう言って更に目を細めてきたオルクティスの笑みにここ最近のアズリエールは、一瞬ドキリとしてしまう。以前、そういう行動をしてきたオルクティスに抗議し、その際にアズリエールのあざとさを真似たと言われたのだが――。
 それとは別の何か甘さが含まれているような錯覚を起こしてしまう。
 だが、それは自分達の婚約では抱いてはいけない感情のような気がして、アズリエールはそれを振り払うように敢えて、不貞腐れ気味で冗談めいた言葉で返す。

「オルク、そのあざとさは私の特権だから、あまり真似しないでよね!」
「ごめん、ごめん」

 苦笑しながら、またアズリエールの頭を撫でだしたオルクティス。
 このオルクティスの接し方もサンライズを出てから、多くなった事の一つだ。
 初めは子供扱いされていると感じていたこの扱いも今では、何か違う感情を連想してしまう。その感情を抱く事は、あまり得策ではなないと思いつつも、アズリエールはその優しく撫でられる事に甘んじてしまうのだ。

 やはりオルクティスに頭を撫でられると、とても安心する……。

 そんな事を感じていると、少しだけ瞼が重くなってきた。
 その様子に気が付いたオルクティスが、更に笑みを深める。

「おやすみ、アズリル。夕食前にはエルザに声を掛けるように伝えておくから。今はゆっくり休んで」

 そう言ってゆっくりとアズリエールの頭部から手を離したオルクティスは、カーテンを閉めてから退室して行った。
 ここ数日、張り詰めた気持ちで過ごしていたアズリエールにとっては、久しぶりに得られた安心感だったので、すぐに意識が落ちていく。

 これならばまた明日から頑張れる……。

 そう思いながら眠りに付いたアズリエールだが……。
 その想いとは裏腹に翌日から更に姉の侵略が始まる事は、予想できなかった。
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