天使な狼、悪魔な羊

駿馬

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第17章 変化の時

18.辿り着いた答え

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シェニカは膝の上にいたオオカミリスを胸に抱きしめるように抱え直し、ゆっくりと撫でながら真剣な目で俺をジッと見据えた。今までディズコーニばかり見て、俺の存在など忘れたような状態だったから、どんなことを言われるのか気が気じゃない。


「私がディズを好きなままでも良いって言ったの変わらない?それでもやり直したい?」

「変わらないし、もう一度やり直したい」

俺がそう言うと、シェニカは目を閉じて気持ちよさそうに撫でられているオオカミリスに視線を落とした。


「恋人っていうのは、信頼関係があって、お互いに好きって気持ちがあってこその関係だと思う。でも、あの晩まで感じていた私のルクトへの好きっていう気持ちは、今はもう見つからないんだ。だから恋人としてやり直せない」

信じたくない残酷な内容を聞くと、目の前が真っ暗になって心が押し潰される。
シェニカが傷付くなんて、俺を怖がるなんて、こんなことになるなんて思ってもみなかった。でもそれは俺の勝手な思い込みで、こうして許されないことだったのだと、自分の罪を突きつけられる。
シェニカに俺を好きじゃないと言われても、ディスコーニといちゃつこうとも、奴への嫉妬心は止めどなく湧き上がっても、それでもシェニカを好きな気持ちは変わらない。今度は乱暴に扱わないし、ちゃんと優しくするし、好きだってちゃんと言葉にする。振り向いてもらえるように努力するから、もう一度やり直したい。俺の願いは叶わないのだろうか。
黙ってしまったシェニカを見ながらそう思っていると、ゆっくりと俺に視線を戻して小さく息を吐いた。


「でも、ルクトの願いを1つ叶えるって約束したのは私だから、ちゃんと叶えてあげたい気持ちもある。だから、私からの提案なんだけど。
恋人としてはやり直せないけど、条件付きで、護衛としてならもう一度やり直しても良いと思う。それじゃダメ?」

「条件って?」

「2つあって、1つ目は主従の誓いを結ぶけど、抑え込まなくても大丈夫って思えた時に破棄すること」

俺としても、シェニカと離れられない主従の誓いを結ぶのは賛成だ。それが夫婦の誓いになって欲しいが、それには信頼関係がなければ無理だろう。
恋人としてやり直せないのは辛いが、一緒に居られればチャンスはあるのだから、この際肩書きなんてどうでもいい。


「もう1つは?」

「護衛を増やすこと」

「俺1人じゃダメか?」

もう一度俺を見てもらうには、邪魔が入らないように側にいるのは俺だけがいいのだが、シェニカがその条件を出すのなら俺は受け入れるしか無い。一時的ではあったが、レオンやエアロスを加えた3人で旅をしたこともあるから、短期間なら問題ない。問題なのは誰を護衛にするかだ。レオンやシューザ、エアロスなら、俺に遠慮してシェニカに粉をかけることはしないだろうが、シェニカは誰を想定しているのだろうか。


「護衛をルクトに任せきりなのは、ルクトに負担がかかるから良くないって思ったし、いくら主従の誓いで抑えられるとしても、ルクトから守ってくれる人も欲しい」

「お前の嫌がることはもう2度としないって誓うけど、それが条件なら受け入れる。誰に声をかけるつもりなんだ?」

「イルバ様に声をかけようかと思う」

シェニカに本気のイルバなんて護衛に迎えたら、あいつは俺とシェニカの関係悪化に即座に気付き、その理由を知ろうとするだろう。もし原因を知れば、あの男は俺を糾弾して遠ざけ、それをネタにしてシェニカに接近するのが目に見えている。
シェニカは旅人小屋でイルバと喋ってから態度が変わったし、今後は避けていた連中と関わると言っているから、イルバへの態度は更に軟化する可能性が高い。そしたら着々と信頼関係を築いて、シェニカを口説き落とすかもしれない。
イルバに近付くなと言ってやりたくても、今の俺には口を挟むことが出来ないし、小競り合いなんて起こしたら護衛をクビになるかもしれない。

他の男と急接近する様子を、指を咥えて見ているしか無い状況はどうしても避けたい。シェニカと一緒に旅が出来るイルバなんて、国に縛られているディスコーニよりも強敵だ。


「レオンに声をかけるから、イルバはやめてくれないか」

「どうしてイルバ様をそんなに嫌がるの?」

「お前はイルバが好きか?」

「そういうわけじゃないけど」

「お前に本気のイルバに声をかければ、奴は自分に気があるんじゃないかとか、恋人になれるかもしれないって絶対期待する。その点、レオンはお前を恋愛対象に見てないし、実際旅をしたことがあるからお前もやりやすいだろ?」

「まぁ、そうだけど。そしたらルクトにも期待させちゃうから、期間を区切らせて」

「俺はいつまででも構わない」

この状態で別れてしまったら、新しい護衛に邪魔されて近寄れないかもしれないし、シェニカ自身に避けられてしまうかもしれない。治療院に行っても、患者としてしか扱ってくれなくて、会話することもままならないかもしれない。そんな未来は絶対に嫌だ。
恋人じゃなくなっても、護衛として側にいることを許されるのなら、時間なんてどうでもいいのに。そんな俺の気持ちなんて届かないのか、シェニカは苦しそうな顔をしてリスを撫でる手を止めた。


「あの晩まで、私はルクトとこの先も恋人として付き合っていくと思ってた。こんな風になるなんて、思ってもみなかった。未来って何が起こるか分からないって本当だね。
だから、ルクトの望む未来が来るか分からないから、ルクトのためにもちゃんと期間を区切っておきたい」

「いつまでにするんだ?」

「もともとポルペアに行ってジルヘイド様に会う予定だったから、そこまでにしようか」

「その後、護衛はどうするんだ?」

シェニカは困ったような表情を浮かべながら少し考えた後、小さく溜息を吐いた。


「その時に考えるよ。トラントはウィニストラ領になるから、ポルペアに行く頃には今ある傭兵街はもっと発展してると思う。そこで良さそうな人を見つけたり、ディズの意見も聞きながら次の護衛を探してもいいかな」

「分かった、その条件を受け入れる」

「じゃあ私からレオンにフィラを送るね」

「レオンには俺が手紙を書く。じゃあ、ここで主従の誓いを結んでくれるか?」

「うん…」

俺はシェニカの椅子の横で跪き、上着の内ポケットから取り出した小さなナイフで右手のひらを一直線に切った。そしてそのナイフをシェニカに渡すと、オオカミリスを机の上に置いて左手を開いた。


「痛みはあるんだから、切るのはちょっとだけにしとけよ」

「じゃあ、ちょっとだけ」

俺がそう言うとシェニカは自分の左手にナイフの切っ先を軽く差して、小さな傷をつけた。呪を紡いだシェニカはそこから出た一滴の血を、差し出した俺の手の平の傷口にポトリと落とした。その瞬間、傷口から黒いシミが根を張る様に広がり、パックリと開いていた傷口が門を閉ざすように塞がり始め、傷が消えると羊の刻印だけが残った。そして、目の前のシェニカからは懐かしい甘い匂いが強く香ってきた。

惹きつける匂いが見えないベールのように俺を包み込むと、シェニカを抱き締めてキスをして、部屋に連れ込んで貪るように抱きたいという強い衝動が呼び覚まされる。
シェニカは俺と同じ様な感覚に襲われているのだろうか、と思って表情を窺ってみても、左手を複雑な顔で眺めているだけ。俺だけが惹きつけられている、ってことはシェニカの気持ちはもう俺にないのだと、残酷な現実が突きつけられた。


「お前に八つ当たりして、傷つけて申し訳なかった。自分のやったことを思えば、フラれたのは仕方がないと思う。恋人としての関係が終わっても、護衛としてやり直すチャンスをくれたことを感謝してる。ありがとう」

「うん…」

「俺から頼みなんだが。この誓いを破棄する時、前みたいに突然するんじゃなくて、一言でいいから俺に声をかけてくれないか?」

「分かった」

形はどうであれ、俺にもう一度チャンスをくれたことは嬉しい。側に居ることさえ出来れば未来はある。首の皮一枚で繋がった俺の喜びと頼みを伝えると、シェニカはぽかんとした顔で俺を見て、困った表情で頷いた。


「そろそろ戻るか。食器は俺が持つからリスを返してきたらどうだ」

「ありがとう。ユーリくん、ディズのところに帰ろう」

シェニカが机の上にいるオオカミリスに左手を差し出すと、リスは慌てたようにシェニカの刻印を掘るような仕草を始めた。爪を立てていないようだが、シェニカは不安そうな顔をして右手でリスを包み込んで抱き上げた。シェニカが左手をリスから遠ざけたが、リスはシェニカの右手から抜け出し、腕を駆け上がって首の後を通り、左腕に行くと手の平をまた必死に掻いている。


「ユーリくん?どうしたの?これは土じゃなくて私の手だよ?寝ぼけてるのかな」

「ジジジ!」

警戒するような鳴き声を上げたが、毛を逆立ててはいないから威嚇や攻撃をしているわけではないらしい。


「この刻印に反応しているのかな。ユーリくん、これはね、主従の誓いを結んだ時に出来る狼の刻印で、ルクトには羊の刻印があるんだ。奴隷契約みたいに思われてるけど、私はそんなことしないから大丈夫だよ」

シェニカがリスを相手にそんな説明をすると、リスは掘る仕草を止めてシェニカに向かって2本足で立ち上がり、シェニカと俺を交互に見ている。


「じゃあ、ディズのところに送るね」

シェニカがリスを両手で大事そうに包むと、ガラス扉を開けて隣のディスコーニの部屋の扉をノックした。するとディスコーニがすぐに扉を開き、いつもと同じ微笑を浮かべたような顔をしてシェニカを迎えた。ディスコーニの少し離れた後方には、ファズが無表情で壁側で控えている。


「部屋に戻るから、ユーリくんを返すね。ユーリくんがね、この刻印に反応したのか、爪は立ててないけど慌てた様子で掘る仕草をしたんだ」

「刻印を掘る?ユーリが掘る動きをするのは、土を掘る時くらいしか見たことがありませんが……。どうかしたんですか?」

「ジジ……」

ディスコーニの手に移ったリスは、奴の手の平の上で2本足で立ち上がって奴をジッと見ている。何を訴えているのかディスコーニにも分からないのか、奴は困ったような顔をして首を傾げた。


「シェニカは怪我をしませんでしたか?」

「うん、全然大丈夫だよ」

「どうしてそういう行動を取ったのかは分かりませんが、初めて見る刻印に驚いてしまったのかもしれません。ファズ、ルクトさんから食事のトレイを受け取って下さい」

「じゃあ、部屋に戻るね」

「シェニカはもう眠りますか?」

「ううん、まだ起きてるよ」

「ユーリの行動が気になるので話が聞きたいのです。もう少ししたら、シェニカの部屋にお邪魔してもいいですか?」

「うん、いいよ」

「では後ほど伺いますね」

シェニカがディスコーニの部屋の扉をゆっくりと閉めると、すぐに隣の自分の部屋の扉を開け、何とも言えない表情で俺を見上げてきた。


「おやすみ」

「あぁ。おやすみ」

シェニカはそういうと、申し訳無さそうな空気を出しながら扉を閉めた。自分の部屋に入ると、風呂をさっさと済ませてベッドに横になった。シェニカの部屋の気配を感じ取りながら、目を閉じてテラスでのやり取りを思い起こした。

恋人としては無理でも、護衛としてなら条件付きで一緒にいてもいい。それがシェニカの答えなら受け入れる。時間に限りはあるが、もう一度やり直すのが恋人になった時じゃなくて出会った頃に戻るだけだ。
ディズコーニの存在はこれから嫌でも感じるだろうが、時間がかかってもシェニカを振り向かせればいい。ディスコーニと離れてしまえば、毎日一緒にいる俺の方が有利なんだ。とにかく今は、ディスコーニのことは我慢しながら、シェニカにもう一度信頼してもらえるように努力するだけだ。



目を開いて、自分の右手にある羊の刻印を見ると、以前主従の誓いを結んだ時には考えられなかった、喜びの感情が湧き上がってくる。

この刻印がある間、俺はシェニカから離れられない。
シェニカが鍾乳洞に落ちた時のように離れ離れになっても、刻印があれば生死が分かるし、シェニカの元に辿り着ける。

俺をシェニカに繋いでくれるこの刻印を、この先ずっと残していけるようにもう一度やり直そう。


心の中でそう誓いながら、新しい服を着たシェニカの嬉しそうな顔を思い出しながら羊の刻印に口付けた。





「残りの書類を早く処理してしまいましょう」

部屋の中に置いた丸い会議テーブルの上には、まだ処理が終わっていない書類が僅かばかり残っている。急ぎの書類は先に処理したから、残りはまだ猶予のあるものばかりだが、早く終わらせなければどんどん増えるだけだ。
集中すればすぐに終わると思っていても、テラスに面した小窓から聞こえてきたシェニカ達の会話を思い出してしまい、彼女と話がしたくてしょうがない。
2人がテラスに入ってから出ていくまでの全ての会話が聞こえていたが、2人が他愛のない話をしている時は、その会話を聞きながら仕事をしていた。しかし真剣な話が始まると、自分もファズも仕事の手が止まり、聞こえてくる声に聞き耳を立てた。


「これで終わりですね。書類をバルジアラ様に持っていって下さい」

「分かりました」

ファズが部屋から出ていくと、机の上で毛繕いしているユーリに向き合った。自分の元に帰ってきてから特に変わった様子はないが、「刻印を掘る」という今までにない行動を取ったことには何か理由があると思うのだが。


「ユーリ、シェニカの刻印を掘ったということですが、どうしたのですか?刻印が良くないものだと思ったのですか?」

「チ!」

問いかけるとユーリは毛繕いをやめて、ちょこんとおすわりした状態で力強く短く鳴いた。この様子だと、肯定の返事のようだ。


「シェニカとルクトさんが結んだのは、『主従の誓い』と言われるもので、一般的には奴隷契約として認識されています。シェニカの手にあった狼の刻印は主人の立場を表し、ルクトさんには従者である羊の刻印がされているはずです。
シェニカとルクトさんは以前も同じ誓いを結んでいたそうですが、シェニカは彼を奴隷扱いせずにいたそうです。ですから、これからも彼を奴隷扱いすることはないでしょう。
ただ、シェニカの話によれば、誓いを結んだ2人が憎しみ合う関係ならば奴隷の状態に。想い合う関係になったら夫婦の状態になるそうです」

主従の誓いの説明をしてあげたが、ユーリは耳と目を少し下げて不安な様子になってしまった。ユーリは人間の言葉を話すことは出来なくても、言っている内容はきちんと理解している。だからこそ、自分が頼んだ難しいお願いもこなしてくれる。そんなユーリが説明をしても不安そうにしたままということは。
この誓いを人間以外の動物にするなんて聞いたことがないが、もしかして、心無い密猟者が主従の誓いを結ぼうと虐待したり、主従の誓いをした者に追いかけ回されたりしたのだろうか。
でも、ユーリと初めて出会った時に虐待された様子はなかったし、バルジアラ様やエニアス達にもすぐ懐いて、人間を怖がっていなかった。


「私にはこれ以上の知識はないので、シェニカから聞いた研究者のところに行って話を聞いてみましょうか」

「チチッ!」

元気の良い返事をしてくれたユーリを自分の軍服の隙間に入れると、部屋を後にした。
ユーリは自分にとって相談役で心強い味方だ。彼は人間の言葉を喋ることは出来なくても、問いかければきちんと反応を返してくれる。なぜ刻印に反応したのか分からないが、彼を安心させるためにも、自分のためにも、研究者のところに行って正しい情報を得ることにしよう。



「シェニカ、ディスコーニです」

扉の前で声をかけると、すぐに扉が開かれてシェニカが部屋の奥に案内してくれた。
シェニカの向かい側に座ると、彼女は座ったまま自分の服の隙間にいるユーリに心配そうな顔を向けた。


「ユーリくん、その後どう?」

「特に変わった様子はありません。もう一度刻印を見せてもらってもいいですか?」

「うん、いいよ」

彼女の手の平をよく見るために、椅子から立ち上がって彼女の隣に跪いた。
差し出された左手を両手でそっと触れると、小さな手の平には呪いのような黒い狼の刻印が陣取っていて、対の刻印を持つ『赤い悪魔』が自分を嘲笑っているように感じた。


「ジジ…」

服の隙間からシェニカの手の平を見つめるユーリは、警戒した様子で短く鳴いた。どうやら、この刻印を警戒しているようだ。


「ユーリはこの刻印が嫌いですか?」

「チ!」

ユーリの目の前に自分の手を出すと、すぐに彼女の左手の平の上に跳び移って、刻印の上をクンクンと嗅ぎ回ったり、前足でゆっくりと掘る動作をし始めた。


「羊はルクトさんですよね。結論は出たのですか?」

「うん…。自分の気持ちを整理したら、私はルクトへの気持ちが薄れてて信頼関係も崩れてるから、恋人としてはやり直せないと思ったんだ。あの晩のことをルクトはちゃんと謝ってくれたけど、正直言って私は許せるのか分からない。
でも、ルクトは戦場に戻ることをやめて私の護衛を続けてくれたし、ずっと私を守ってくれたんだ。だから、護衛としての彼の働きには、とても感謝してるって思えた。ルクトも自分のやったことを反省してるみたいだし、変わろうとする姿を見たら、もう一度チャンスをあげてもいいかと思ったの。
そう思っても私は恋人としてやり直せないから、条件付きで護衛としてならやり直してもいいって伝えたんだ」

「条件というのは?」

「信頼関係が崩れているから主従の誓いを結ぶけど、抑え込まなくても大丈夫と思ったら破棄すること。護衛を増やすこと。元々2人で行く予定だったポルペアまで、という3つだよ」

「護衛は誰か思い当たる人はいるのですか?鍾乳洞で聞いたギルキアの人ですか?」

「ううん。短期間だけだったけど、ルクトも仲良く出来る傭兵の人と一緒に旅をしたことがあるの。その人にフィラを送ってお願いしてみるつもり」

「もう1人護衛がいるとしても、シェニカはルクトさんと上手くやっていけそうですか?」

「鍾乳洞にいた時まで彼のことが怖いと思っていたけど、彼に怒りをぶつけたら、前ほど怖いとは思わなくなったと思う。最初はぎこちないかもしれないけど、出会った頃に時間が戻ると思えば、護衛として割り切って接することが出来ると思う」


「そうですか。主従の誓いをして、シェニカは私のことを嫌いになってしまいましたか?」

「ううん、そんなことないよ」

シェニカが彼への気持ちが薄らいだと言っても、今は見えないだけで彼を好きな気持ちが本心であれば、誓った瞬間に夫婦の状態になるのではないかと思った。でも、彼女にその様子がないということは、彼女の気持ちは本当に彼から離れたようだ。シェニカが他の誰かを好きになろうと諦めるつもりはないが、彼女の気持ちが自分に向いているという事実はとても嬉しかった。



立ち上がって刻印を掘り続けるユーリを机に移動させると、自分を不思議そうに見上げる彼女に手を差し伸べ、立ち上がるように促した。どうしたのだろうと首をかしげながらも、自分の手を取って立ち上がった彼女を優しく包むように抱き締めた。


「私がシェニカを想う気持ちは変わりませんし、想う気持ちは誰にも負けません。私達はまだ出会ったばかりですから、恋人にして欲しいなんて言いませんし、シェニカに他に好きな相手や恋人が出来ても構いません。
でも、私がシェニカを好きだということも、シェニカが私を好きだと思う気持ちも、忘れないで下さいね」

「ディズはどうして私が別の人を好きになってもいいって思えるの?」

「シェニカが『白い渡り鳥』様ではなく、普通の人だったらそんな風には思いません。シェニカの恋愛観が普通の人と変わらないものだと知っていますが、シェニカは複数の相手を持てる『白い渡り鳥』様です。認められた特権を使うかどうかは私ではなくシェニカが決めることですから、自分の想いがシェニカの自由を制限してはいけないと思います。尊重すべきはシェニカ自身の判断です」

「そんな風に考えてくれてありがとう」

シェニカはそう言うと、自分の背中に腕を回してギュッと抱き締め、そっと離れてしまった。
椅子に座ったシェニカはユーリを膝の上に置くと、丁寧に身体を撫で始めた。気持ちよさそうに目を閉じているユーリと、穏やかな表情をしたシェニカを見ると幸せな気持ちになるのに、目に焼き付いた狼の刻印が心に黒い存在感を生み出している。

恋人関係になるには信頼関係が不可欠だ。彼女が彼から受けた傷を乗り越え、もう一度心から信用することが出来たのなら、2人が恋人関係に戻るのは構わない。でも、未来のことなんて、シェニカにも『赤い悪魔』にも自分にも誰にも分からない。
シェニカは「抑え込まなくても大丈夫と思ったら主従の誓いを破棄する」と言ったが、「ルクトと夫婦の状態になりたいから誓いを破棄しなかった」と言われたらどうしようか。夫婦の状態になったら具体的にどんな風になるのか、自分はどうすれば良いのかという点も研究者に聞かなければ。



「ディズ、座らないの?」

「シェニカの近くにいたいので、隣に椅子を持ってきます」

立ったままの自分を不思議そうに見上げる可愛いシェニカを見ると、不安な気持ちが一気に霧散した。シェニカの気持ちが自分に向いている、と嬉しく思う気持ちが暴走しないように、正直な気持ちを言葉にすると彼女は恥ずかしそうに笑った。


「ふふっ!ユーリくん、可愛いなぁ」

そう言ってシェニカがユーリを膝の上から胸の位置まで抱き上げた時、首の下を撫でられて気持ちよさそうなユーリが、ぶかぶかの産着にくるまれた赤児に見えた。



いつの日か。シェニカと夫婦となって、こんな風に彼女が愛おしそうに自分達の子供をあやす日が来て欲しい。

シェニカの穏やかな横顔、時折鼻をヒクヒクとさせるユーリの寛いだ顔を見ながら、不安をかき消すように幸せな未来を頭の中に思い描いた。


■■■後書き■■■

シェニカの出した答えに賛否両論あるかと思いますが、彼女の判断を尊重して頂けると嬉しいです。m(__)m

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