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第9章 新たな関係
1.突然の解放
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私とルクトは、トラントの首都から南のシュゼールという地方都市を目指して移動し始めた。
ベルチェから首都にかけては砂地の大地だったが、岩場やクリーム色の砂地は多いが、ポツポツと草が生える大地に少しずつ変化していた。
首都から歩いても数時間という場所に、アランドという小さな町があった。
この町の周辺はまだクリーム色の砂地が多い場所で、町を囲む壁はあるが平屋建ての家の高さくらいしかなく、所々崩れているのか壁には穴が空いていた。
町に入ってみると、首都には多くいた傭兵も、首都から目と鼻の先にあるこの町には全くいなかった。観光客もおらず、居るのはこの町に住んでいる住民と威圧感が凄い軍人だけだった。
風化しているからなのか、ボロボロで崩れ落ちそうな赤い煉瓦造りの家が建ち並び、一応石畳で整備されている大通りの地面は、歯が抜けたように石がなくなってクリーム色の砂地があちこち見えていた。
巨人に見られているような高い城壁に囲まれ、石畳で整備されていた首都では感じなかった砂埃をこの町ではしっかりと感じた。
首都とはまったく違う、見るからに貧しい町だった。
「ここは傭兵がいないんだね…。なんだか整備も行き届いてない」
「傭兵は首都に集まってるみたいだからな。軍人がいなけりゃ治安は悪いだろうな」
ルクトの視線の先には、青い軍服を着た軍人が鋭い目つきをして、住民の方をチラチラと見ながら歩いていた。
その目つきはルクトと変わらない鋭い目つきだが、彼と違うのは軍人が見下すような目をしていたことだった。
宿を取って町長さんの家に行ったが、町長さんの家もボロボロの赤い煉瓦造りの家だった。
応接間に通されたが、宿の部屋と変わらないほど質素で殺風景だった。
「はじめまして。『白い渡り鳥』のシェニカと申します。治療院を開きたいのですが…」
「この町で治療院を開いて下さるんですかっ!?」
白髪の長い髪をボサボサにしたヘアスタイルの町長さんは、私がまだ話している途中だったのに、すごく驚いた顔をしてソファから立ち上がり、ワナワナと身体を震わせた。
色褪せた茶色のシャツに黒いズボンを着ていて、シワが深く刻まれた顔やその身なりから、町長さんの苦労が手に取るように伝わってくる。
「ええ。もちろんです」
「こういうのを先に申し上げるのは心苦しいのですが、この町は見ての通り貧民街なんです。ですから、シェニカ様にせっかく治療して頂いても、謝礼を払うだけの余裕はないのです」
「別に構いませんよ。ついさっき、首都で治療した謝礼を貰ってきましたので」
「ほ、本当に良いんですか?!」
「構いませんけど…。あの。とりあえず座って下さい」
私がソファに座るように促すと、町長さんはハッとした表情になってストンと音を立ててソファに座った。
「あ、すみません。つい、興奮してしまいまして…。今まで首都に立ち寄る『白い渡り鳥』様がこの町に足を踏み入れても、町の様子からすぐに出て行ってしまうこともありまして。
我が家に挨拶にお越しになっても、謝礼を払えないと申しますと町を去って行く方が多かったので…」
「そうですか。私は気にしませんから、大丈夫ですよ」
「ありがとうございます。治療院には、兵士の詰め所の隣りにある空き家をご使用下さい」
「分かりました。では明日から治療をさせて頂きます」
巡回の兵士にジロジロ見られながら宿に戻ると、誰もいない食堂でルクトとご飯を食べ始めた。
窓の外からこちらを興味津々で見る住民が居ると、その後ろから兵士が睨みつけて、どこかへ追い払う仕草をしていた。
「こんな貧しい町に『白い渡り鳥』様がいらっしゃるなんて、どれくらいぶりかねぇ」
女将さんが嬉しそうな顔をして、お茶のおかわりを持ってきてくれた。この宿屋も外はボロボロだし部屋も質素だが、ご飯もお茶も美味しかった。
「そんなに訪問していなかったんですか?」
「この町に足を踏み入れなくても、すぐそこに立派な首都があるからね。
首都に行けば快適な宿も美味しいレストランもあるから、わざわざ身分の高い人がここに来る必要はないんだよ」
女将さんは悲しそうな顔をしながら、小さくため息を吐いた。
「どうして貧民街がこんな所にあるんだ?大抵は首都の一部にひっそりとあることが多い気がするが」
ルクトが私も疑問に思っていたことを女将さんに聞いた。
私も今まで旅をする中で、貧民街は見たことがある。それは首都の中の区切られた場所にあり、首都の中でゴミの収集や処理、埋葬の仕事や墓地の維持管理等の仕事などを担っていた。
民間人が嫌がる仕事をすることが多いので、持ちつ持たれつの関係であるように見えるが、実際には奴隷ほどとは言えないが、民間人からも見下された目で見られている。
だが、この町は首都から少し離れた場所に隔離されるようにあるので、そういう仕事はしていないように見える。
「この国の王は、臭いものには蓋をする性格を代々引き継いでいるみたいでね。王族の住む首都には、私達のような貧民が住む場所を置きたくないらしいんだ。
おかげで私達の仕事と言えば、この町でひたすら煉瓦を焼くだけなんだよ」
「煉瓦?」
「この辺の砂はベルチェの様に染め物にも出来るが、煉瓦造りにも適していてね。砂の色はクリーム色でも、窯で煉瓦を作ると赤い煉瓦になるんだ。
この町ではただひたすら周囲の砂を集めて、煉瓦を焼くだけしか仕事がないんだ」
「そうなんですか」
この周辺のクリーム色の砂は、染め物や煉瓦といった重要な産物を生み出す大事なものだったようだ。
翌日、治療院を開くと沢山の人達が次々に押し寄せてきた。
最初は「本当に治療してもらえるのだろうか」と思っているのか、恐る恐る治療部屋に入って来るが、私が「おいでおいで」と手招きしてあげると、少しホッとした表情で椅子に座ってくれる。
首都で治療院を開く時には物置にベッドなどが置いてあったし、護衛の兵士も手慣れた様子だったから同業者の訪問を実感できた。
でも、この町は首都からすぐ近くにあるにも関わらず、『白い渡り鳥』が来ていないのだとヒシヒシと肌で感じられた。
「すみません。指を潰していまして…。切断しないと戻りませんか?」
「大丈夫ですよ。治療魔法で戻ります」
私がゴツゴツしたおじさんの手を取って、歪な形になってしまった指に治療魔法をかけると、指は元通りになった。目の前で元通りになる様子を、おじさんは固唾を呑みながら見ていたのが微笑ましかった。
「ありがとうございます!これでまた問題なく仕事が出来ます」
おじさんは満足そうな顔をするので、私もつられて「よかったよかった」と自然と微笑んでいた。
「ずっと前、煉瓦の山が崩れた時に足を巻き込んでしまったんです。それから全然足に力が入らなくて…」
「砂を大量に吸ったことがあるんです。その影響か時折咳が止まらなくなるんです」
治療院にくる住民は、やっぱり煉瓦造りの時の怪我や病気が多かった。
いつも通り淡々と治療を施していったが、この町にはそれなりの数の住民が住んでいるようで、治療を終えるまでに数日かかった。
治療を終える頃には満遍なく治療の手は行き届いたようで、初めて町に足を踏み入れた時よりも、心なしか町が明るくなった気がした。
「シェニカ様。本当にありがとうございました。住民が元気になって、煉瓦造りしか仕事はありませんが、もっといっぱい煉瓦を作って町を補修したい、と言ってくれる前向きな人が多く出てきました」
「そうですか。それは良かったです。そう言えば、首都の街にも赤い建物がありましたが、ここの煉瓦が使われているんですか?」
「ええ。この町で作った煉瓦はほとんど全て首都で使われています。首都の建物は昔は全て石造りだったんです。この町で煉瓦造りを始めてから、石は石畳の補修だけに使用され、建物はここの煉瓦が使われるようになったんです。
近い将来、城下町の建物の立て直しが進めば、全て赤い煉瓦の建物になると思いますよ」
「そうだったんですか。だから砂丘から見たら、城下町の街並みが灰色と赤色の2色になってたんですね」
「ここの町で作る煉瓦は、軽くて丈夫なんです。これしか特産がないもので。すみません、本当に謝礼がありませんで」
「いいえ。まったく問題ありませんよ。これから頑張ってください」
「はい。ありがとうございました」
町長さんと色んな話をしていたからか、挨拶を終えた頃にはすっかり日が暮れていて、宿に戻る人影のない小道を歩いた。
「今度来る時は、きれいな町になってると良いね」
「そうだな」
ルクトはいつも通り私の隣で無表情で歩いている。レオンがいなくなって、私も寂しいからきっとルクトも寂しさを感じているだろう。
「ちょっと待って!」
急に呼び止める声が周囲に響いて、声の主の方を振り返ると、脇道から慌てたように出てきたピンク色の髪の女性がいた。
「ねぇ!貴方、『赤い悪魔』でしょ!?私を覚えていない?」
赤い旅装束を着崩すように着ているが、腰には短剣を差しているから傭兵のようだ。同性の私でもドキッとするような色っぽさがあって、大人の魅力に溢れた女性だった。
「あ?」
女性がルクトに近寄り、彼の腕を掴んで色っぽく首をかしげながら話しかけたのに、ルクトはめんどくさそうな顔をして女性を鋭い目つきで見下ろした。
この目つきで見られた女性や子どもは「ひっ!」と言って逃げていくが、この女性はそのルクトの視線をうっとりとした表情で受けていた。
この女性…。すごく肝が座っているんだなぁ。すごい。
女性はルクトをうっとり見上げたまま、彼の腕をメロンのような胸にムギュッと押し付けた。
ーーいいなぁ。まさにボン!キュッ!ボーン!!色気たっぷりで羨ましい。何を食べたら、あんな風になるんだろう。教えてくれたりしないだろうか。
「髪の色が赤くなくても、そのゾクゾクするような鋭い視線は間違いようがないわ。
やっと会えたわ。ねぇ。ずっと前に、アルベルト領のキールって町の娼館で私と会ったの覚えてない?」
なるほど。娼館で働くお姉さんだったのか。納得納得。こんな美人さんなら、きっと人気ナンバーワンだろう。
「悪いが夜の相手なんて、いちいち顔も名前も覚えていないんでね」
「え~?酷いわ。でも貴方らしくてそれも許せちゃうかな。有名な『赤い悪魔』と一時を過ごせたのは、すごく嬉しかったのよ?
あれからどんなに待っても貴方が来ることはなかったじゃない?
でも私は貴方にもう一度会いたくて、とうとう貴方を追っかけて傭兵になったの。だから会えて嬉しいわ」
何だか聞くのを憚られる会話が始まりそうで、私はいたたまれなくなった。宿は目と鼻の先だし、1人だけでも宿に帰ろうかと思っていたら、女性は私の方をチラリと見た。
その目には明らかに『貴女邪魔なの、どっかに行ってちょうだい』とあった。
そんな目をされなくても、会話の内容から『私は早くその場を離れたいんだよ~』と心の中で嘆いていた。
「邪魔だ。行くぞ」
「ねぇ待ってよ!まだ話は終わってないのよ!」
ルクトは女性の腕を振り払うように外したが、女性は彼の右手を握り締めてその場に踏みとどまった。
「俺は見ず知らずのアンタに話なんてない」
「ねぇ、そんなこと言わないでとりあえず話を聞いて。もう一度だけで良いから一晩過ごしてよ。貴方のことが忘れられないの。それがダメなら一緒に飲みに行きましょ?」
「女に困ってねぇよ」
彼女はルクトの右手に自分の指を絡めようとしていたが、ルクトの言葉を聞いた途端、色気のある顔から怒りの顔に変わった。
「貴方がそんなしょうもない白魔道士なんかで満足できるわけないじゃない!
それにこの刻印!羊じゃない!その女に縛られてるんでしょ?可哀想だわ!」
女性はルクトの手の平を見て、叫ぶような声を上げた。
ーーちょっと待って欲しい。確かに主従の誓いを結んでいるけど、私とルクトはあくまでも護衛の契約をしてるだけであって、それ以上でもそれ以下でもないんだけど…。
「ちょっとアンタ!アンタが奴隷にしてるんでしょっ!?今すぐ主従の誓いを破棄して彼を解放しなさいよ!
彼はね世界中の傭兵が一度は名前を耳にしている『赤い悪魔』なの!どんな苦境も乗り越えられる凄い人なのよ!
どうしてそんな凄い人が、あんたみたいなしょうもない白魔道士に奴隷扱いされてるのよ!護衛ならどっかの傭兵に頼めばいいでしょ?『赤い悪魔』が輝くのは戦場なのよ!」
私は呆気にとられながら女性の力説を聞いていたが、どうやらこの女性は本当にルクトが好きで娼館で働くのを辞めて、傭兵になって追っかけたようだ。
でも、肝心のルクトは私の護衛になって戦場を離れてしまったから、彼が活躍できる場がなくなってしまって、本人に代わって悔しくて怒っている、ということらしい。
確かによく考えればルクトは戦場に戻りたがっているし、この女性の言うように強い人と戦っている時は凄く怖いけど輝いているもんな。
ーーあぁ…。そっか。振り返ってみれば、私はなんて酷いことをしていたんだろう。
私が主従の誓いを結んだのは、どこにも行かない護衛がほしかったのと、ルクトがどんな人か分からなかったから、ということだった。
どこにも行かない護衛っていうのは、例え奴隷扱いしなくても、その人の自由を奪ってしまうことだったんだと、私は自分の過ちにようやく気付けた気がした。
私が主従の誓いを結んでいるせいで、ルクトには自由がない。もう随分付き合ってくれたんだから、いい加減に自由にしてあげた方がいいだろう。
首都に戻ってレオンに相談してみてもいいし、他にも傭兵が沢山いるから、護衛もすぐに見つかるかもしれない。
「うるさい、黙れ」
私がそんなことを考えていると、ルクトの殺気の篭った声が女性に降り掛かった。
「お前に何が分かる?勝手な自分の思い込みを押し付けんじゃねぇよ。押し付けがましいのは迷惑だ。帰るぞ」
ルクトは女性に冷たくそう言い放つと、女性は目を見開いてガクガクと身体を震わせながらへたり込んだ。
そんな女性に構うことなく、ルクトは強い力で私の腕を掴んで、宿へと連れ帰られた。
「ねぇ。ちょっと話があるんだけど。部屋にお邪魔してもいい?」
何となく気まずい空気の中で食事を終え、それぞれの部屋に戻ろうとした時、私はルクトの部屋の前でそう声をかけた。
「何だよ」
部屋には入れてくれたものの、何だかそっぽを向くような仕草をするルクトは、食堂で買った酒瓶を手に持って、キュポンと音を立てて栓を開けた。
「あのさ。良かったの?」
「何が?」
ルクトは酒瓶に直接口をつけてお酒を飲むと、面倒くさそうにベッドの縁に座ったが、その顔はまだそっぽを向いたような状態だ。
「何って。あの女の人のこと」
「別に構わない。知り合いでもねぇし」
いつもは目を合わせて話すことが多いのに、何だかルクトはずっと部屋の奥の窓を見ている。
ここは2階だが何か外にいるのかと視線を追ったが、カーテンが閉まっていて何も見えない。彼はなんでそんな方向を向いているのだろうか。
「あのさ。私、あの人に言われてやっと気付いたんだよね」
「何に?」
ルクトは立ったままの私にようやく視線を動かして、何だか不機嫌そうに見上げた。
「私、護衛が欲しかったから、ルクトを脅迫して主従の誓いを結んだんだけど…。それは結局、私の勝手でルクトの自由を束縛してたんだって。
ルクトは戦場に戻りたがってたし、髪も赤く染めたかったでしょ?もう十分なくらい私のワガママに付き合ってくれたんだから、主従の誓いを破棄するね」
「は?」
ポカンとしたルクトの右手から酒瓶を抜き取ってサイドテーブルに置くと、彼の右手を持ち上げて私の左手を合わせ、私は誓いの破棄の呪を紡いだ。
すると重なった手から赤黒い煙が一筋立ち上って、すぐに霧散した。
主従の誓いの破棄は、別に従者が目の前にいなくても出来るし、刻印を合わせる必要もない。
でも、なんとなく。私は手を合わせて破棄したかった。
「はい、これで主従の関係はなくなって平等!随分長い間縛ってしまってごめんね。もう自由だよ」
「は?」
ルクトは気の抜けた返事をしながら、不思議そうに自分の右手を見ているが、そこには黒い羊の刻印はなくなっている。
もちろん私の左手にあった狼の刻印も消えている。
「ルクトと旅をするのはすごく楽しかったけど、すぐに戦場に戻る?できれば首都まで一緒に戻って欲しいけど、すぐ戦場に戻るなら私1人で首都に戻って次の護衛を探すよ。この距離だし1人でも何とか行けると思うし」
「……」
ルクトは俯いて黙ってしまった。表情は見えないが、ようやく主従の誓いが破棄されて、嬉しさのあまり声が出ないのだろうか。
「ルクト?」
「俺は別に縛られてない。前に、俺がこいつならって思える次の護衛を見つけたら、主従の誓いを破棄しても良いってお前は言ったろ?だが俺は任せられる奴を見つけてない」
「でも、ルクトは髪も染めたいし、戦場にも行きたいでしょ?」
「確かにそうだが。でも、別にそれは今じゃなくて良い。だから護衛は続ける」
ルクトはずっと俯いて喋っていて、自分の右手を握っては開くという動作を何度も繰り返している。
誓いの破棄は傷をつける必要もないから、なんの違和感もないはずだが…。彼は何か違和感を感じているのだろうか。
「え?無理してない?本当に護衛続けてくれるの?」
「してない。もう疲れただろ。部屋に戻って寝ろ。ほら部屋に行くぞ」
「え?う、うん」
ルクトはキレイになった右手を見たまま、ぶっきらぼうな言い方で私に退室を促した。
部屋の前で結界を張るのを見届けたルクトは、眉を顰めて何だか複雑な顔をしていた。私はお風呂に入ってベッドに横になったものの、なかなか眠れない夜になった。
ルクトは髪は染めたいって言ってたし、戦場に戻りたいとも言っていたから、誓いを破棄したらすぐに戦場に戻るものだと思っていた。
誓いを破棄しても護衛を続けてくれるのは嬉しいが、ルクトは私の予想とは裏腹に喜びの表情は浮かべていなかった。
出会って間もない時、私が誓いを破棄しても良いって言った時、すごく嬉しそうな顔をしていたのに。
どうして複雑な表情を浮かべるのかは分からなかったが、私が彼を縛る理由はないのだから、きっとこれで良かったのだと自分を信じることにした。
ーーーーーーーーーー
シェニカが部屋に結界を張ったのを確認して、部屋に戻ると自分の右手を改めて見た。
黒い羊の刻印がされていた手の平には、今はもう何も刻まれていない。
脅迫されて主従の誓いを結んだのが半年近く前。レオンにあれだけ笑われたのはついこの前。
そして今日、突然誓いは破棄された。
事実上俺を縛るものは何もなくなり、髪を赤に染めることも出来るし、護衛を辞めて戦場にも自由に行ける。
でも、以前は欲しかった自由が手に入っても、髪を染める気にもならないし、護衛を辞めて戦場に行く気にもならない。
今まではあいつのそばにいて護衛を続けたい気持ちと、戦場に戻ってバルジアラに復讐したいという気持ちがせめぎ合っていた。
自由になった今、俺には今まで選べなかった選択肢が選べるはずなのに、どの選択も出来ない。
主従の誓いから解放されても、ちっとも嬉しくもない。
そして何より……。何だかすごく物足りない。
最初こそ、理不尽な条件をつけて治療をする最悪の『白い渡り鳥』だと思った。
でも、今ではそんな思いなんて一欠片も残っていなくて、責任感が強くて、優しくて、意志は強いが非力なシェニカは俺の手で守りたい存在になった。
あいつと一緒に旅をしている間に、俺はいつの間に惹かれ、離れたくないほどに好きになっていた。
だから主従の誓いがなくなっても、すぐに護衛を辞めて戦場に行こうなんて考えていないのに。
どうして離れるわけでもないのに、主従の誓いがなくなっただけでこんなにショックを受けているんだろうか。
気の迷いなのだろうか?
明日になれば、少しは気持ちも落ち着いているだろうか。
俺は何もなくなった右手を見ながら、眠れない夜を明かした。
ベルチェから首都にかけては砂地の大地だったが、岩場やクリーム色の砂地は多いが、ポツポツと草が生える大地に少しずつ変化していた。
首都から歩いても数時間という場所に、アランドという小さな町があった。
この町の周辺はまだクリーム色の砂地が多い場所で、町を囲む壁はあるが平屋建ての家の高さくらいしかなく、所々崩れているのか壁には穴が空いていた。
町に入ってみると、首都には多くいた傭兵も、首都から目と鼻の先にあるこの町には全くいなかった。観光客もおらず、居るのはこの町に住んでいる住民と威圧感が凄い軍人だけだった。
風化しているからなのか、ボロボロで崩れ落ちそうな赤い煉瓦造りの家が建ち並び、一応石畳で整備されている大通りの地面は、歯が抜けたように石がなくなってクリーム色の砂地があちこち見えていた。
巨人に見られているような高い城壁に囲まれ、石畳で整備されていた首都では感じなかった砂埃をこの町ではしっかりと感じた。
首都とはまったく違う、見るからに貧しい町だった。
「ここは傭兵がいないんだね…。なんだか整備も行き届いてない」
「傭兵は首都に集まってるみたいだからな。軍人がいなけりゃ治安は悪いだろうな」
ルクトの視線の先には、青い軍服を着た軍人が鋭い目つきをして、住民の方をチラチラと見ながら歩いていた。
その目つきはルクトと変わらない鋭い目つきだが、彼と違うのは軍人が見下すような目をしていたことだった。
宿を取って町長さんの家に行ったが、町長さんの家もボロボロの赤い煉瓦造りの家だった。
応接間に通されたが、宿の部屋と変わらないほど質素で殺風景だった。
「はじめまして。『白い渡り鳥』のシェニカと申します。治療院を開きたいのですが…」
「この町で治療院を開いて下さるんですかっ!?」
白髪の長い髪をボサボサにしたヘアスタイルの町長さんは、私がまだ話している途中だったのに、すごく驚いた顔をしてソファから立ち上がり、ワナワナと身体を震わせた。
色褪せた茶色のシャツに黒いズボンを着ていて、シワが深く刻まれた顔やその身なりから、町長さんの苦労が手に取るように伝わってくる。
「ええ。もちろんです」
「こういうのを先に申し上げるのは心苦しいのですが、この町は見ての通り貧民街なんです。ですから、シェニカ様にせっかく治療して頂いても、謝礼を払うだけの余裕はないのです」
「別に構いませんよ。ついさっき、首都で治療した謝礼を貰ってきましたので」
「ほ、本当に良いんですか?!」
「構いませんけど…。あの。とりあえず座って下さい」
私がソファに座るように促すと、町長さんはハッとした表情になってストンと音を立ててソファに座った。
「あ、すみません。つい、興奮してしまいまして…。今まで首都に立ち寄る『白い渡り鳥』様がこの町に足を踏み入れても、町の様子からすぐに出て行ってしまうこともありまして。
我が家に挨拶にお越しになっても、謝礼を払えないと申しますと町を去って行く方が多かったので…」
「そうですか。私は気にしませんから、大丈夫ですよ」
「ありがとうございます。治療院には、兵士の詰め所の隣りにある空き家をご使用下さい」
「分かりました。では明日から治療をさせて頂きます」
巡回の兵士にジロジロ見られながら宿に戻ると、誰もいない食堂でルクトとご飯を食べ始めた。
窓の外からこちらを興味津々で見る住民が居ると、その後ろから兵士が睨みつけて、どこかへ追い払う仕草をしていた。
「こんな貧しい町に『白い渡り鳥』様がいらっしゃるなんて、どれくらいぶりかねぇ」
女将さんが嬉しそうな顔をして、お茶のおかわりを持ってきてくれた。この宿屋も外はボロボロだし部屋も質素だが、ご飯もお茶も美味しかった。
「そんなに訪問していなかったんですか?」
「この町に足を踏み入れなくても、すぐそこに立派な首都があるからね。
首都に行けば快適な宿も美味しいレストランもあるから、わざわざ身分の高い人がここに来る必要はないんだよ」
女将さんは悲しそうな顔をしながら、小さくため息を吐いた。
「どうして貧民街がこんな所にあるんだ?大抵は首都の一部にひっそりとあることが多い気がするが」
ルクトが私も疑問に思っていたことを女将さんに聞いた。
私も今まで旅をする中で、貧民街は見たことがある。それは首都の中の区切られた場所にあり、首都の中でゴミの収集や処理、埋葬の仕事や墓地の維持管理等の仕事などを担っていた。
民間人が嫌がる仕事をすることが多いので、持ちつ持たれつの関係であるように見えるが、実際には奴隷ほどとは言えないが、民間人からも見下された目で見られている。
だが、この町は首都から少し離れた場所に隔離されるようにあるので、そういう仕事はしていないように見える。
「この国の王は、臭いものには蓋をする性格を代々引き継いでいるみたいでね。王族の住む首都には、私達のような貧民が住む場所を置きたくないらしいんだ。
おかげで私達の仕事と言えば、この町でひたすら煉瓦を焼くだけなんだよ」
「煉瓦?」
「この辺の砂はベルチェの様に染め物にも出来るが、煉瓦造りにも適していてね。砂の色はクリーム色でも、窯で煉瓦を作ると赤い煉瓦になるんだ。
この町ではただひたすら周囲の砂を集めて、煉瓦を焼くだけしか仕事がないんだ」
「そうなんですか」
この周辺のクリーム色の砂は、染め物や煉瓦といった重要な産物を生み出す大事なものだったようだ。
翌日、治療院を開くと沢山の人達が次々に押し寄せてきた。
最初は「本当に治療してもらえるのだろうか」と思っているのか、恐る恐る治療部屋に入って来るが、私が「おいでおいで」と手招きしてあげると、少しホッとした表情で椅子に座ってくれる。
首都で治療院を開く時には物置にベッドなどが置いてあったし、護衛の兵士も手慣れた様子だったから同業者の訪問を実感できた。
でも、この町は首都からすぐ近くにあるにも関わらず、『白い渡り鳥』が来ていないのだとヒシヒシと肌で感じられた。
「すみません。指を潰していまして…。切断しないと戻りませんか?」
「大丈夫ですよ。治療魔法で戻ります」
私がゴツゴツしたおじさんの手を取って、歪な形になってしまった指に治療魔法をかけると、指は元通りになった。目の前で元通りになる様子を、おじさんは固唾を呑みながら見ていたのが微笑ましかった。
「ありがとうございます!これでまた問題なく仕事が出来ます」
おじさんは満足そうな顔をするので、私もつられて「よかったよかった」と自然と微笑んでいた。
「ずっと前、煉瓦の山が崩れた時に足を巻き込んでしまったんです。それから全然足に力が入らなくて…」
「砂を大量に吸ったことがあるんです。その影響か時折咳が止まらなくなるんです」
治療院にくる住民は、やっぱり煉瓦造りの時の怪我や病気が多かった。
いつも通り淡々と治療を施していったが、この町にはそれなりの数の住民が住んでいるようで、治療を終えるまでに数日かかった。
治療を終える頃には満遍なく治療の手は行き届いたようで、初めて町に足を踏み入れた時よりも、心なしか町が明るくなった気がした。
「シェニカ様。本当にありがとうございました。住民が元気になって、煉瓦造りしか仕事はありませんが、もっといっぱい煉瓦を作って町を補修したい、と言ってくれる前向きな人が多く出てきました」
「そうですか。それは良かったです。そう言えば、首都の街にも赤い建物がありましたが、ここの煉瓦が使われているんですか?」
「ええ。この町で作った煉瓦はほとんど全て首都で使われています。首都の建物は昔は全て石造りだったんです。この町で煉瓦造りを始めてから、石は石畳の補修だけに使用され、建物はここの煉瓦が使われるようになったんです。
近い将来、城下町の建物の立て直しが進めば、全て赤い煉瓦の建物になると思いますよ」
「そうだったんですか。だから砂丘から見たら、城下町の街並みが灰色と赤色の2色になってたんですね」
「ここの町で作る煉瓦は、軽くて丈夫なんです。これしか特産がないもので。すみません、本当に謝礼がありませんで」
「いいえ。まったく問題ありませんよ。これから頑張ってください」
「はい。ありがとうございました」
町長さんと色んな話をしていたからか、挨拶を終えた頃にはすっかり日が暮れていて、宿に戻る人影のない小道を歩いた。
「今度来る時は、きれいな町になってると良いね」
「そうだな」
ルクトはいつも通り私の隣で無表情で歩いている。レオンがいなくなって、私も寂しいからきっとルクトも寂しさを感じているだろう。
「ちょっと待って!」
急に呼び止める声が周囲に響いて、声の主の方を振り返ると、脇道から慌てたように出てきたピンク色の髪の女性がいた。
「ねぇ!貴方、『赤い悪魔』でしょ!?私を覚えていない?」
赤い旅装束を着崩すように着ているが、腰には短剣を差しているから傭兵のようだ。同性の私でもドキッとするような色っぽさがあって、大人の魅力に溢れた女性だった。
「あ?」
女性がルクトに近寄り、彼の腕を掴んで色っぽく首をかしげながら話しかけたのに、ルクトはめんどくさそうな顔をして女性を鋭い目つきで見下ろした。
この目つきで見られた女性や子どもは「ひっ!」と言って逃げていくが、この女性はそのルクトの視線をうっとりとした表情で受けていた。
この女性…。すごく肝が座っているんだなぁ。すごい。
女性はルクトをうっとり見上げたまま、彼の腕をメロンのような胸にムギュッと押し付けた。
ーーいいなぁ。まさにボン!キュッ!ボーン!!色気たっぷりで羨ましい。何を食べたら、あんな風になるんだろう。教えてくれたりしないだろうか。
「髪の色が赤くなくても、そのゾクゾクするような鋭い視線は間違いようがないわ。
やっと会えたわ。ねぇ。ずっと前に、アルベルト領のキールって町の娼館で私と会ったの覚えてない?」
なるほど。娼館で働くお姉さんだったのか。納得納得。こんな美人さんなら、きっと人気ナンバーワンだろう。
「悪いが夜の相手なんて、いちいち顔も名前も覚えていないんでね」
「え~?酷いわ。でも貴方らしくてそれも許せちゃうかな。有名な『赤い悪魔』と一時を過ごせたのは、すごく嬉しかったのよ?
あれからどんなに待っても貴方が来ることはなかったじゃない?
でも私は貴方にもう一度会いたくて、とうとう貴方を追っかけて傭兵になったの。だから会えて嬉しいわ」
何だか聞くのを憚られる会話が始まりそうで、私はいたたまれなくなった。宿は目と鼻の先だし、1人だけでも宿に帰ろうかと思っていたら、女性は私の方をチラリと見た。
その目には明らかに『貴女邪魔なの、どっかに行ってちょうだい』とあった。
そんな目をされなくても、会話の内容から『私は早くその場を離れたいんだよ~』と心の中で嘆いていた。
「邪魔だ。行くぞ」
「ねぇ待ってよ!まだ話は終わってないのよ!」
ルクトは女性の腕を振り払うように外したが、女性は彼の右手を握り締めてその場に踏みとどまった。
「俺は見ず知らずのアンタに話なんてない」
「ねぇ、そんなこと言わないでとりあえず話を聞いて。もう一度だけで良いから一晩過ごしてよ。貴方のことが忘れられないの。それがダメなら一緒に飲みに行きましょ?」
「女に困ってねぇよ」
彼女はルクトの右手に自分の指を絡めようとしていたが、ルクトの言葉を聞いた途端、色気のある顔から怒りの顔に変わった。
「貴方がそんなしょうもない白魔道士なんかで満足できるわけないじゃない!
それにこの刻印!羊じゃない!その女に縛られてるんでしょ?可哀想だわ!」
女性はルクトの手の平を見て、叫ぶような声を上げた。
ーーちょっと待って欲しい。確かに主従の誓いを結んでいるけど、私とルクトはあくまでも護衛の契約をしてるだけであって、それ以上でもそれ以下でもないんだけど…。
「ちょっとアンタ!アンタが奴隷にしてるんでしょっ!?今すぐ主従の誓いを破棄して彼を解放しなさいよ!
彼はね世界中の傭兵が一度は名前を耳にしている『赤い悪魔』なの!どんな苦境も乗り越えられる凄い人なのよ!
どうしてそんな凄い人が、あんたみたいなしょうもない白魔道士に奴隷扱いされてるのよ!護衛ならどっかの傭兵に頼めばいいでしょ?『赤い悪魔』が輝くのは戦場なのよ!」
私は呆気にとられながら女性の力説を聞いていたが、どうやらこの女性は本当にルクトが好きで娼館で働くのを辞めて、傭兵になって追っかけたようだ。
でも、肝心のルクトは私の護衛になって戦場を離れてしまったから、彼が活躍できる場がなくなってしまって、本人に代わって悔しくて怒っている、ということらしい。
確かによく考えればルクトは戦場に戻りたがっているし、この女性の言うように強い人と戦っている時は凄く怖いけど輝いているもんな。
ーーあぁ…。そっか。振り返ってみれば、私はなんて酷いことをしていたんだろう。
私が主従の誓いを結んだのは、どこにも行かない護衛がほしかったのと、ルクトがどんな人か分からなかったから、ということだった。
どこにも行かない護衛っていうのは、例え奴隷扱いしなくても、その人の自由を奪ってしまうことだったんだと、私は自分の過ちにようやく気付けた気がした。
私が主従の誓いを結んでいるせいで、ルクトには自由がない。もう随分付き合ってくれたんだから、いい加減に自由にしてあげた方がいいだろう。
首都に戻ってレオンに相談してみてもいいし、他にも傭兵が沢山いるから、護衛もすぐに見つかるかもしれない。
「うるさい、黙れ」
私がそんなことを考えていると、ルクトの殺気の篭った声が女性に降り掛かった。
「お前に何が分かる?勝手な自分の思い込みを押し付けんじゃねぇよ。押し付けがましいのは迷惑だ。帰るぞ」
ルクトは女性に冷たくそう言い放つと、女性は目を見開いてガクガクと身体を震わせながらへたり込んだ。
そんな女性に構うことなく、ルクトは強い力で私の腕を掴んで、宿へと連れ帰られた。
「ねぇ。ちょっと話があるんだけど。部屋にお邪魔してもいい?」
何となく気まずい空気の中で食事を終え、それぞれの部屋に戻ろうとした時、私はルクトの部屋の前でそう声をかけた。
「何だよ」
部屋には入れてくれたものの、何だかそっぽを向くような仕草をするルクトは、食堂で買った酒瓶を手に持って、キュポンと音を立てて栓を開けた。
「あのさ。良かったの?」
「何が?」
ルクトは酒瓶に直接口をつけてお酒を飲むと、面倒くさそうにベッドの縁に座ったが、その顔はまだそっぽを向いたような状態だ。
「何って。あの女の人のこと」
「別に構わない。知り合いでもねぇし」
いつもは目を合わせて話すことが多いのに、何だかルクトはずっと部屋の奥の窓を見ている。
ここは2階だが何か外にいるのかと視線を追ったが、カーテンが閉まっていて何も見えない。彼はなんでそんな方向を向いているのだろうか。
「あのさ。私、あの人に言われてやっと気付いたんだよね」
「何に?」
ルクトは立ったままの私にようやく視線を動かして、何だか不機嫌そうに見上げた。
「私、護衛が欲しかったから、ルクトを脅迫して主従の誓いを結んだんだけど…。それは結局、私の勝手でルクトの自由を束縛してたんだって。
ルクトは戦場に戻りたがってたし、髪も赤く染めたかったでしょ?もう十分なくらい私のワガママに付き合ってくれたんだから、主従の誓いを破棄するね」
「は?」
ポカンとしたルクトの右手から酒瓶を抜き取ってサイドテーブルに置くと、彼の右手を持ち上げて私の左手を合わせ、私は誓いの破棄の呪を紡いだ。
すると重なった手から赤黒い煙が一筋立ち上って、すぐに霧散した。
主従の誓いの破棄は、別に従者が目の前にいなくても出来るし、刻印を合わせる必要もない。
でも、なんとなく。私は手を合わせて破棄したかった。
「はい、これで主従の関係はなくなって平等!随分長い間縛ってしまってごめんね。もう自由だよ」
「は?」
ルクトは気の抜けた返事をしながら、不思議そうに自分の右手を見ているが、そこには黒い羊の刻印はなくなっている。
もちろん私の左手にあった狼の刻印も消えている。
「ルクトと旅をするのはすごく楽しかったけど、すぐに戦場に戻る?できれば首都まで一緒に戻って欲しいけど、すぐ戦場に戻るなら私1人で首都に戻って次の護衛を探すよ。この距離だし1人でも何とか行けると思うし」
「……」
ルクトは俯いて黙ってしまった。表情は見えないが、ようやく主従の誓いが破棄されて、嬉しさのあまり声が出ないのだろうか。
「ルクト?」
「俺は別に縛られてない。前に、俺がこいつならって思える次の護衛を見つけたら、主従の誓いを破棄しても良いってお前は言ったろ?だが俺は任せられる奴を見つけてない」
「でも、ルクトは髪も染めたいし、戦場にも行きたいでしょ?」
「確かにそうだが。でも、別にそれは今じゃなくて良い。だから護衛は続ける」
ルクトはずっと俯いて喋っていて、自分の右手を握っては開くという動作を何度も繰り返している。
誓いの破棄は傷をつける必要もないから、なんの違和感もないはずだが…。彼は何か違和感を感じているのだろうか。
「え?無理してない?本当に護衛続けてくれるの?」
「してない。もう疲れただろ。部屋に戻って寝ろ。ほら部屋に行くぞ」
「え?う、うん」
ルクトはキレイになった右手を見たまま、ぶっきらぼうな言い方で私に退室を促した。
部屋の前で結界を張るのを見届けたルクトは、眉を顰めて何だか複雑な顔をしていた。私はお風呂に入ってベッドに横になったものの、なかなか眠れない夜になった。
ルクトは髪は染めたいって言ってたし、戦場に戻りたいとも言っていたから、誓いを破棄したらすぐに戦場に戻るものだと思っていた。
誓いを破棄しても護衛を続けてくれるのは嬉しいが、ルクトは私の予想とは裏腹に喜びの表情は浮かべていなかった。
出会って間もない時、私が誓いを破棄しても良いって言った時、すごく嬉しそうな顔をしていたのに。
どうして複雑な表情を浮かべるのかは分からなかったが、私が彼を縛る理由はないのだから、きっとこれで良かったのだと自分を信じることにした。
ーーーーーーーーーー
シェニカが部屋に結界を張ったのを確認して、部屋に戻ると自分の右手を改めて見た。
黒い羊の刻印がされていた手の平には、今はもう何も刻まれていない。
脅迫されて主従の誓いを結んだのが半年近く前。レオンにあれだけ笑われたのはついこの前。
そして今日、突然誓いは破棄された。
事実上俺を縛るものは何もなくなり、髪を赤に染めることも出来るし、護衛を辞めて戦場にも自由に行ける。
でも、以前は欲しかった自由が手に入っても、髪を染める気にもならないし、護衛を辞めて戦場に行く気にもならない。
今まではあいつのそばにいて護衛を続けたい気持ちと、戦場に戻ってバルジアラに復讐したいという気持ちがせめぎ合っていた。
自由になった今、俺には今まで選べなかった選択肢が選べるはずなのに、どの選択も出来ない。
主従の誓いから解放されても、ちっとも嬉しくもない。
そして何より……。何だかすごく物足りない。
最初こそ、理不尽な条件をつけて治療をする最悪の『白い渡り鳥』だと思った。
でも、今ではそんな思いなんて一欠片も残っていなくて、責任感が強くて、優しくて、意志は強いが非力なシェニカは俺の手で守りたい存在になった。
あいつと一緒に旅をしている間に、俺はいつの間に惹かれ、離れたくないほどに好きになっていた。
だから主従の誓いがなくなっても、すぐに護衛を辞めて戦場に行こうなんて考えていないのに。
どうして離れるわけでもないのに、主従の誓いがなくなっただけでこんなにショックを受けているんだろうか。
気の迷いなのだろうか?
明日になれば、少しは気持ちも落ち着いているだろうか。
俺は何もなくなった右手を見ながら、眠れない夜を明かした。
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