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第一章
タンベット男爵家からの救出、そして保護1
乗り込んだ馬車の中は、レインの知らない世界だった。
何度か入ったことのある領主の館にも、こんな緻密な細工の窓枠飾りはなかったし、領主の館にあるどの椅子よりもこの馬車の椅子のほうがふかふかして見えた。
座ったことがないので座り心地はわからないが、きっと干し草と比べるのもおこがましいほどの座り心地だろう。
レインはきょときょとと馬車の中を見回した。床に座ればいのだろうか、でも、床ですら素晴らしいもののように思えるから、きっとレインはどこにも座ることはできない。
おろおろするレインに、ユリウスが優しく尋ねる。
「どうしたの?」
そう言いながら、ユリウスはレインを横抱きにしたまま馬車の座席に座ってしまった。
レインの着ている服から染み出した泥水が、ユリウスの服も、座席をも濡らしているのを見て、レインは卒倒しそうになる。
「わ、私……」
「うん?」
「馬車から、降ります」
「レイン、それはだめだよ。早く宿に行って治療しないと、本当に君は死んでしまう」
「で、でも……」
口ごもるレインに、ユリウスは悲しそうな目を向ける。かたん、と軽い音をたてて、馬車が動き出した。アンダーサン公爵は違う馬車に乗ったのだろうか。
「レインは、僕といっしょに行くのがいやかい?」
「ち、違うんです……!よ、汚して、しまう、から……」
「汚してしまう?」
レインの言葉を繰り返し、ユリウスはレインの視線の先を追った。服と席にしみこむ泥水を見て、ああ、となぜか顔をほころばせた。
「僕と一緒に行きたくない、というわけではないんだね。よかった」
「よくない……ッ!です……」
一瞬声を荒げたレインに、しかしユリウスは優しい声で話しかける。
「ものなら直る。服なら洗えばいいし、座席は張り替えればいい。でも君にかわるものはないんだよ」
言って、ユリウスはレインの泥で汚れた顔を白いハンカチで拭った。
「よ、汚れ……」
「大丈夫、君が汚してしまうものなんてないよ。君が一番きれいなのだから」
ふふ、と笑ったユリウスの顔は見とれるほど美しい。それなのにあたたかくて、レインの胸の内をほこほことあたためた。
思わず胸を押さえたレインを微笑みながら見つめていたユリウスは、そう言えば、と口を開く。
「君は、名無し、と呼ばれていたね。君の名前は?」
先ほどレイン、と呼ばれたから、てっきり、ユリウスはレインの名前を知っていると思っていた。先ほどのはレインの聞き間違いだったのだと思って、レインは少しだけ恥ずかしくなった。
「わかりません。私は奴隷として売られる前のことを覚えていないんです。でも、なんとなく、レインと呼ばれていたような気がして……奴隷になる前は、そんな風に呼ばれていた気がして、自分ではレインだと思っていました。……あ、でも!本当の名前かはわかりません、私は名無しです。好きによんでください」
「そう」
ユリウスは、レインが自分をレインと呼んだ時は嬉しそうだったのに、名無しと呼んだ時はぐっと眉根を寄せた。
「名無しじゃない」
「は、はい」
「ああ、ごめん。君に怒っているわけじゃないんだ。あの愚か者……タンベット男爵に怒っているんだよ」
ユリウスが、レインの濡れた髪を指ですく。ろくに手入れもされていない髪は、ユリウスの指に絡まってしまった。それを見て、いたましいような、悲しいような顔をしたユリウスは、けれどレインを安心させるためか、笑顔を浮かべた。
「……じゃあ、僕もレインと呼んでいい?雨の日に、出会ったから、君はレイン。君はレインというんだよ」
言い聞かせるような言葉だ。レインに、レインなのだと自覚してほしいような。
こくん、と頷いたレインに、ユリウスはほっと安堵したように微笑む。
ユリウスの膝に座らされ、ユリウスの両手がそっとレインを包み込む。しみこんだ泥水が悲しい。けれど、それ以上にあたたかくて、それを嬉しいと思ってしまったから、レインは何も言えなくなってしまった。
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