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フロイント
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主を失い静寂に包まれた城の大広間で、フロイントはふと我に返ったように大きく息を吸い込むと、すぐさまアデライデの元に駆け寄った。アデライデをそっと抱き起し、怪我がないか確認する。室内を暴れまわった猛火は、しかしアデライデの体に火傷ひとつ、灰の一塵すら落としてはいなかった。長い睫毛が影を落とす頬はやはり青白いままだったが、心なしかその手には温もりが戻っているようだった。
ほっと安堵の息を漏らしたフロイントのすぐ目の前の床から、黄金の輝きを失って錆びた鉄のようになったバルトロークの契約書が這い上がって来た。アデライデを抱いたまま片腕を伸ばしてそれを掴むと、くすんだ紙切れは砂のようにさらさらと零れて宙に消えた。
「安心しろアデライデ。おまえはもう自由だ──」
蒼白いアデライデの頬に触れると、長い睫毛がかすかに震えた。フロイントはアデライデの体をそっと胸に抱いて立ち上がった。
そのとき、アデライデがうっすらと青い瞳を開けた。
「フロイント……?」
「アデライデ、気がついたのか? よかった……!」
アデライデの瞳を見た途端、フロイントの目は安堵の涙に潤んだ。
「アデライデ、すまなかった。さぞ恐ろしい思いをしただろう……。おまえをむざむざとバルトロークに奪わせてしまった俺を許してくれ……」
アデライデはまだはっきりとはしない揺れる瞳でフロイントを見上げ、唇を薄く開けた。
「……あなたが…………」
息が切れるのか、アデライデは苦しげに眉を寄せた。
「アデライデ、無理に喋らなくてもいい──」
フロイントの胸はアデライデの伏せた睫毛が震える様子に強く痛んだ。
だがアデライデは再び瞼を開けると、美しい青い瞳を懸命にフロイントに注いで口を開いた。
「フロイント……、あなたが……」
乱れそうになる呼吸を整え、俄かに潤み出した揺れる瞳をフロイントから逸れぬようにして、アデライデは震える声で言った。
「……あなたが、死んだと聞かされたときが、いちばん怖かった……」
そう言うと、苦しい時間を思い出したかのように瞼を閉じた。瞼の向こうから、涙が一筋、アデライデの頬を伝って落ちた。
「アデライデ……」
フロイントの胸は切なさに強く鼓動した。アデライデは張り詰めた糸を緩めるようにそっと息を吐くと、瞳を閉じたまま強い鼓動を刻むフロイントの胸に頬を寄せた。
「……あなたは生きていた……。そしてわたしを助けに来てくださった……。これ以上の喜びはありません……」
フロイントの胸は抑えがたい想いに激しく鳴り続けていた。喜びと愛おしさが溢れ、フロイントの体は理性ごと崩れ落ちそうだった。
「ここはなんてあたたかいの……」
アデライデは微かな微笑を唇に浮かべた。
「……どうかもう、わたしをあなたから離さないで……」
そう呟くと、アデライデはフロイントの胸の中で再び意識を手放した。
フロイントは目を閉じてうつむき、腕に抱いたアデライデの体の上に頭を垂れた。名状しがたく、そして激しいほどに胸を震わせる想いが込み上げ、フロイントはかすれた熱い吐息を漏らした。アデライデを想う気持ちの強さはフロイントに畏れすら抱かせるようだった。
だがその一方で、フロイントの胸にはやるせない焦燥が徐々に距離を詰めて近づく遠雷のように、不穏な唸り声を上げて迫り始めていた。
フロイントは瞼を固く閉じたまま顔を上げると、その腕の中に身を委ねて眠るアデライデを至高の花束のように抱き直し、そのまましばらくの間、胸の奥に見え隠れする痛みの片鱗に耐えようとじっと息を殺して立ち尽くしていた。
やがて涙の滲む目を開け、アデライデの美しい顔を一心に見つめていたフロイントは、ゆっくりと黒い翼を開き、ひとつ大きく羽ばたかせた。翼の生んだ風はバルトロークの邪気の残滓までなぎ払おうとするかの如く、大広間の隅々にまで吹き渡った。フロイントはその風に乗って宙に浮きあがると、眠り続けるアデライデと共に、冷たいバルトロークの城を後にした。
ほっと安堵の息を漏らしたフロイントのすぐ目の前の床から、黄金の輝きを失って錆びた鉄のようになったバルトロークの契約書が這い上がって来た。アデライデを抱いたまま片腕を伸ばしてそれを掴むと、くすんだ紙切れは砂のようにさらさらと零れて宙に消えた。
「安心しろアデライデ。おまえはもう自由だ──」
蒼白いアデライデの頬に触れると、長い睫毛がかすかに震えた。フロイントはアデライデの体をそっと胸に抱いて立ち上がった。
そのとき、アデライデがうっすらと青い瞳を開けた。
「フロイント……?」
「アデライデ、気がついたのか? よかった……!」
アデライデの瞳を見た途端、フロイントの目は安堵の涙に潤んだ。
「アデライデ、すまなかった。さぞ恐ろしい思いをしただろう……。おまえをむざむざとバルトロークに奪わせてしまった俺を許してくれ……」
アデライデはまだはっきりとはしない揺れる瞳でフロイントを見上げ、唇を薄く開けた。
「……あなたが…………」
息が切れるのか、アデライデは苦しげに眉を寄せた。
「アデライデ、無理に喋らなくてもいい──」
フロイントの胸はアデライデの伏せた睫毛が震える様子に強く痛んだ。
だがアデライデは再び瞼を開けると、美しい青い瞳を懸命にフロイントに注いで口を開いた。
「フロイント……、あなたが……」
乱れそうになる呼吸を整え、俄かに潤み出した揺れる瞳をフロイントから逸れぬようにして、アデライデは震える声で言った。
「……あなたが、死んだと聞かされたときが、いちばん怖かった……」
そう言うと、苦しい時間を思い出したかのように瞼を閉じた。瞼の向こうから、涙が一筋、アデライデの頬を伝って落ちた。
「アデライデ……」
フロイントの胸は切なさに強く鼓動した。アデライデは張り詰めた糸を緩めるようにそっと息を吐くと、瞳を閉じたまま強い鼓動を刻むフロイントの胸に頬を寄せた。
「……あなたは生きていた……。そしてわたしを助けに来てくださった……。これ以上の喜びはありません……」
フロイントの胸は抑えがたい想いに激しく鳴り続けていた。喜びと愛おしさが溢れ、フロイントの体は理性ごと崩れ落ちそうだった。
「ここはなんてあたたかいの……」
アデライデは微かな微笑を唇に浮かべた。
「……どうかもう、わたしをあなたから離さないで……」
そう呟くと、アデライデはフロイントの胸の中で再び意識を手放した。
フロイントは目を閉じてうつむき、腕に抱いたアデライデの体の上に頭を垂れた。名状しがたく、そして激しいほどに胸を震わせる想いが込み上げ、フロイントはかすれた熱い吐息を漏らした。アデライデを想う気持ちの強さはフロイントに畏れすら抱かせるようだった。
だがその一方で、フロイントの胸にはやるせない焦燥が徐々に距離を詰めて近づく遠雷のように、不穏な唸り声を上げて迫り始めていた。
フロイントは瞼を固く閉じたまま顔を上げると、その腕の中に身を委ねて眠るアデライデを至高の花束のように抱き直し、そのまましばらくの間、胸の奥に見え隠れする痛みの片鱗に耐えようとじっと息を殺して立ち尽くしていた。
やがて涙の滲む目を開け、アデライデの美しい顔を一心に見つめていたフロイントは、ゆっくりと黒い翼を開き、ひとつ大きく羽ばたかせた。翼の生んだ風はバルトロークの邪気の残滓までなぎ払おうとするかの如く、大広間の隅々にまで吹き渡った。フロイントはその風に乗って宙に浮きあがると、眠り続けるアデライデと共に、冷たいバルトロークの城を後にした。
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