フロイント

ねこうさぎしゃ

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五つめの願い

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 ゆっくりと覚醒していく意識の中で、アデライデは自分がベッドの上に身を横たえていることに気がついた。体になじんだ柔らかく心地良いその感触は、けれどラングリンドの森の家のベッドのそれではない。肌をやさしく包み込むシーツには、あの頃の自分には知り得なかった幸福の甘く切ない香りが満ちている──。
 アデライデはゆっくりと目を開けた。まだぼんやりと焦点の合わない瞳に、不安を湛えた赤い目が映った。
「フロイント……?」
 ほとんど無意識のうちに小さな声で名を呼ぶと、心配そうだった赤い瞳には安堵の色が溶けるように広がった。
「アデライデ……」
 自分の名を呼んで答えるやさしい声を聴いた途端、アデライデの意識ははっきりと現実に立ち返った。と同時に、込み上げる想いが涙をあふれさせた。
「どこか痛むのか?」
 俄かに慌てたような、心配の表れるフロイントの声に、アデライデは首を振った。ゆっくりと身を起こそうとしたアデライデを、フロイントのあたたかい手が咄嗟に伸びて支えた。その手に半ば凭れ掛かるようにしながら起き上がったアデライデを強いめまいが襲い、再びベッドに引き戻そうとした。
「大丈夫か? あの城から戻ってまだあまり時間は経っていないのだ。もう少し横になっていた方が──」
 言いながら、フロイントは片手で枕を取ってアデライデの背中にあてがった。
「フロイント……ありがとう……」
 弱々しい微笑で謝意を表すアデライデの顔を心配の色で覗き込むフロイントからは、深い思いやりや気遣いがあふれ出している。フロイントの細やかな心配りとやさしさの滲む言動に触れたアデライデの瞳には、また新たな涙が生まれた。バルトロークの城で凍え切っていたアデライデの心身にフロイントのあたたかさが染み渡り、嘆きと怖れに押し潰されていた心には光が甦るようだった。
 涙を拭おうとしてうつむいたとき、アデライデは自分がバルトロークの城で着せられた白いドレスではなく、肌に心地よいネグリジェを着ていることに気がついた。瞬間、さっと頬を朱に染めて、思わずシーツを胸元まで引き上げた。
 フロイントはアデライデの様子を見ると、慌てて手を振りながら言い訳をするように早口で言った。
「いや、そうではないぞアデライデ……! 決しておまえが思っているようなことをしたのではない……! つまりだな、あのドレスには微弱ではあったがバルトロークの邪気が残っていたのだ。それに、仮にそのような事実がなかったとしても、おまえにいつまでもあのようなものを着せておきたくはなかったのだ。それで魔術を使って着替えさせたのだ。だから俺は何も見ておらんし、もちろん触れてもおらん……!」
 バルトロークとの戦いを終えた今も、フロイントの体には生き生きと燃えるような魔力が息づいていた。その魔力をもってすれば、アデライデに触れることなく着替えさせることは簡単だった。アデライデを着替えさせたいと意図しただけで、分厚く濃い光のカーテンが現れて、アデライデを包むようにして独りでに着替えを進めたため、フロイントの目にアデライデの肌がほんの少し映るようなこともなかったのだ。
 フロイントの慌てふためく様子に、アデライデの心と体はふっと緩んで、思わず笑みをこぼした。
 フロイントは思いがけず目にすることのできたアデライデの愛らしい笑顔に大きく心臓を跳ねさせた。笑顔を咲かせるだけの力がアデライデに戻って来たのかと思ったことは、フロイントの全身に安心の羽を広げた。くすくすと笑うアデライデを見るうちに、フロイントの沈んでいた心には緩やかに明るい光が灯り始めた。
「わかっています……」
 アデライデの甘い視線に見つめられ、フロイントはどぎまぎする心を隠そうとするようにうつむいたが、上目遣いにアデライデの微笑を見ると、自分の身の潔白を重ねて証明しようとするように小さな声で言った。
「……ほんとうだぞ」
 念を押すように言うフロイントに、アデライデはとうとう声を上げて笑った。一斉に花を咲かせるようなアデライデの笑い声に、気まずい気恥ずかしさを抱えていたフロイントは思わずほっと息を吐き出して、目じりに涙を滲ませて笑うアデライデを目を細めて見つめた。
 笑い続ける自分をやさしい想いのこもった瞳で見守るフロイントの視線に包まれて、アデライデはいきなり迎えた春に驚いて野を駆けまわる子どものような気持ちがしていた。こんな風に笑う自分が不思議だった。人生を振り返ってみても、こんなにも屈託なく笑った瞬間は数えるほどしかなかったように思う。こうやって笑っていると、バルトロークの城に連れ去られた記憶も笑い声のうちにかき消えていき、まるで悪い夢でも見ていたような気分になった。
 いや、それとも今が夢なのかもしれない──アデライデは不意に笑いを引っ込め、じっと青い目を見開いてフロイントを見つめた。急に笑いの止んだアデライデに、フロイントは俄かに心配が兆して赤い目を向けた。
「どうした? やはりどこか辛いのか?」
 自分を心の底から気遣ってくれていることのわかる低い声に微笑みを返そうとしたが、不安の色に揺れる赤い目に見つめられたアデライデは、意に反して泣き顔のような顔しか作れなかった。
「アデライデ……?」
 フロイントの心配の色の深くなった声が自分の名前を呼ぶのを聞き、アデライデの胸は震えた。
 あの冷たく恐ろしい氷の城で、どんなにかこの声を聴きたいと、この瞳に逢いたいとこいねがっただろうか──。
 フロイントが死んだと聞かされたときの衝撃を思い出し、アデライデは今この瞬間のあまりに幸せすぎる時間が、自分の願望が作り上げた幻覚ではないだろうかと不安になった。幻などではなく現実だと確認したくて、アデライデは思わずフロイントの腕に触れた。
 アデライデのまだ少し冷たい指に触れられて、フロイントの心臓は大きく鳴った。だがアデライデが自分の腕に置いた手を無言のままじっと見つめている様子を見ると、フロイントは一瞬口をつぐんで静かな視線を注いで言った。
「……アデライデ、もう安心していいのだぞ」
 アデライデははっと目を見開いてフロイントを見上げた。思いがけず力強さの顕れたやさしい眼差しに包まれていたことを知ったアデライデは、何故だか突然子どものようにすべてをフロイントの前に投げ出したいような気になった。アデライデは潤み始めた瞳を伏せると、黙ったまま甘えるようにフロイントの胸に身を寄せた。フロイントの体に身を預けた途端、深い安心に全身から力が抜けていく。体を起こしていることが次第に辛くなっていたアデライデにとって、フロイントの胸の中ほど安心できる場所はなかった。
 しかし一方で、フロイントのあたたかさはアデライデに自分の体の奥に、まだ冷たい氷の欠片が残っていることを教えた。その氷の破片は、ともすれば全身に悪意と冷酷さに満ちた黒い邪気を押し広げようとするかのようだった。それはバルトロークの冷たい瞳を思い出させ、アデライデは俄かに重だるさを感じ始めた身を小さく震わせた。
 フロイントはいつにないしどけなさで自分の胸に体を凭せ掛けるアデライデに驚くと共に、全身の力を抜いて身を預ける姿には深い信頼が表されているように感じて喜んだ。だがすぐに、自分の胸に頬をつけるアデライデが泣いていることに気がつくと、小刻みに震える肩にそっと手を置いた。
 フロイントのいたわりに満ちたあたたかい手を肩に感じ、アデライデは深い息を吐き出した。
「……わたし、ほんとうにとても怖かった……あなたが死んでしまったと思って──」
 アデライデの言葉に、フロイントはそのほっそりとした花のような体を抱きしめたい衝動に駆られた。だが自分の武骨な太い腕ではアデライデを壊してしまいそうで、フロイントはわずかにアデライデの肩に置いた指を震わせるにとどめた。
「──俺もそう思っていた。あのとき、俺は確かに死にかけていた……」
 アデライデはゆっくりと顔を上げ、涙にぬれた瞳でフロイントを見上げた。
「いったいどうやって……?」
「それは──」
 フロイントはいったん言葉を切り、瞳を窓の外に向けた。




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