フロイント

ねこうさぎしゃ

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六つめの願い

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 翌日、心地良い目覚めを迎えたアデライデは、起きたばかりの自分の目がいちばんにフロイントの顔を映し出す喜びに全身を浸らせた。と同時にフロイントのあたたかい手が一晩中自分の手を握っていてくれたことを覚り、申し訳なさを感じて身を起こそうとした。だがベッドに起き上るのを助けるフロイントの腕のやさしさにやはり我知らず胸はときめき、ささやかな罪の意識はまるで甘美な秘め事のようにアデライデの心を沸き立たせた。アデライデは隠しきれない喜びに生き生きと弾む声で言った。
「フロイント、ごめんなさい。あなたを一晩中引き留めてしまったのですね……。さぞお疲れでしょう?」
「いや、疲れてなどいない」
 そう答えたフロイントの静かな声の響きに、アデライデは一瞬奇妙な胸のざわめきを感じた。いつものように耳に心地よいフロイントの低い声のはずだったが、なぜだか今朝は暗い水底に沈む古代の遺跡に一人置きざれにされたような心持ちになった。甘い喜びは掻き消され、アデライデは思わずシーツを乱してフロイントに近づき、その顔を見上げた。
「フロイント? どうなさったのですか?」
「……」
 答えずただじっとアデライデを見つめるフロイントに、不安が高まった。あの夢の記憶がよみがえり、アデライデは無意識にフロイントの腕に縋ってその赤い目を見上げた。暗い憂いが揺れるフロイントの瞳に、アデライデの胸の暗澹あんたんは増した。
「フロイント……」
 言い掛けたアデライデの体を、不意にフロイントの両腕が包んだ。アデライデは驚きに息を呑み、言葉の続きはフロイントの胸に吸い込まれた。いつもどこか遠慮がちに触れていたフロイントが、けれど今はそのやさしさはそのままに、ためらいも見せず、それでいて何か目には見えない影の重みを感じさせる腕で、アデライデをその厚い胸に引き寄せていた。いつにないその行動にも言い知れぬ不安が掻き立てられて、アデライデはただフロイントの胸のぬくもりを感じる喜びだけに心を満たすということができなかった。
「……アデライデ、体の具合はどうだ?」
 静かなフロイントの声が降り注ぐが、アデライデの胸は説明のつかない怖れに震えた。
「……はい、もうなんとも……」
 不安で胸がふさがれ、しっかりと言葉を続けることができない。
「そうか、よかった。ずっとベッドに横になっていたのだから、体が起きていることに慣れるまでは、あまり無理をして動かないようにするのだぞ」
 アデライデの不安は頂点に達し、フロイントの胸の中で思わず叫ぶように言った。
「フロイント、なんだかいつもと様子が違うわ。どうなさったの? やっぱりひどくお疲れなのですか? それとも──」
 フロイントは不意に体を離してアデライデを見ると、微笑んで首を振って見せた。その瞳には変わらないやさしさと深い思いやりが満ちていた。だがやはりどこか悄然とした寂しい気配をまとい、何かに耐えているようにも見えた。
「フロイント──」
「……ここで待っていろ。食事の支度をしてこよう」
 フロイントは追いすがろうとしたアデライデの頬にそっと触れ、それ以上問いかけることを制した。
「……」
 青ざめて口をつぐんだアデライデにもう一度微笑みかけて、フロイントは一人静かに部屋を出て行った。


 その日から数日が経っても、フロイントの元に魔王の使者は訪れなかった。この状況は咎めを受けずに済む印であるかもしれないと喜ぶべきなのか、それともバルトロークが死に際に吐いた呪いの恐るべき罠であるのか、いずれとも取れぬ苛立ちに、フロイントの心には時と共にますます暗い影が押し広げられ、その重みを増していった。
 自分の命の時間がいたずらに引き延ばされているという焦燥は、耐え難い悲しみと怖れを嵐のように吹き荒れさせた。命は惜しくない。だがアデライデとの時間が長くなればなるほど離れがたい気持ちは強固なものとり、苦しみは弥増いやまして激しくフロイントの胸を痛めつけた。
 アデライデは完全に回復し、以前と変わらない生活を送れるようになっていたが、その目は隠しきれない不安で覆われていた。そんなアデライデの様子を見るにつけてもフロイントは焦燥と、自分への苛立ちに駆られた。アデライデを恐れさせ、その輝きを曇らせるすべてのものを取り払いたいと望んだはずの自分が、今このときこの瞬間、最もアデライデを不安にさせているのだという事実は、フロイントに自己へのたまらない羞悪しゅうおを抱かせた。残り少ない時間を惜しみ、悔いの残らないようにアデライデと過ごしたいと願う想いも、虚しくフロイントを通り過ぎていくだけだった。
 アデライデの不安も日増しに募っていった。悲しい色をその目に湛え、憔悴していくフロイントを見ると、アデライデはたまらない思いになった。あの夢がつきまとい、アデライデを絶えず悩ませた。胸騒ぎは収まる気配を見せず、話し合ってこの不安や心配を解決したいとも思ったが、フロイントはやはり何も語ろうとはしなかった。沈黙を続けるには何か理由があるのかもしれない。そう思うと無理に問いただすようなこともできず、アデライデはただ耐えるしかなかった。


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