フロイント

ねこうさぎしゃ

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五つめの願い

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 再び眠りに就いたアデライデは夢を見ていた。美しい花園に一人立っている。どこか懐かしくも感じる花園は、ラングリンドの女王の城の庭園であるようにも見えた。
 美しく咲き乱れる花々の中に佇んで、心もとなく心細いような気持ちで何かを捜して辺りを見回すが、視界の及ぶ限り目を凝らしても、ただ物言わぬ花々がひっそりと風に揺れているのが映るだけだった。
 途方に暮れた迷子のような心持ちで当てもなく花園を歩き始めたアデライデは、不意に前方の花々の間によく見知った黒い影が揺れているのを見つけた。 
 途端にあふれるばかりの喜びと安堵が湧き上がる。嬉しさに思わず駆けだしたアデライデの目に、黒い翼の大きな影の姿が次第に大きく映し出されていく。黒い影は、やがてゆっくりとアデライデを振り返った。穏やかな微笑を宿す赤い目が、アデライデの胸をきゅっと切なく締めつけた。
「フロイント──」
 名を呼びながらフロイントに向かって指を伸ばすが、フロイントは黙ったまま微笑んでいるだけで、いつものように手を差し出して指を取ってはくれなかった。
「フロイント──?」
 小首を傾げて見上げていると、フロイントの体はかげろうのようにゆらゆらと揺らぎだした。驚いて目を見開くアデライデの前から、微笑みを浮かべたフロイントの姿が遠ざかり始めた。
「フロイント……!?」
 慌てて追いかけようと踏み出した足に、花の蔦が絡まった。蔦はアデライデの体に巻きついて、どんどん伸びて這い上がってくる。だがフロイントはやはり無言のまま微笑を浮かべ、遠ざかっていく速度を上げた。
「待って……! わたしを置いて行かないで……!」
 フロイントに向かって懸命に伸ばした腕にも蔦は伸びて絡みつき、アデライデの全身を覆って飲み込もうとするかのように成長の勢いを速めた。
 蔦に阻まれて、アデライデはフロイントを追いかけることができなかった。叫び声を上げたくても、声すら出なくなっていた。なんとか喉の奥から声を振り絞り、あらんかぎりに叫んだ。
「フロイント──……!」
 その瞬間、アデライデははっと目を覚ました。同時に、心配そうな顔で自分を覗き込んでいるフロイントの赤い瞳が目に飛び込んだ。
「大丈夫か? うなされていたようだが……」
 アデライデは青い目を見張ってフロイントを見つめたまま、しばらくは返事をすることもできなかった。
「アデライデ……?」
 低い声が不安げに自分の名を呼ぶのを聞き、アデライデは詰めていた息をようやく吐き出すと、先ほどの嫌な夢を追い払うように頭を振った。気遣わしい目を向けるフロイントをじっと見上げ、アデライデはかすれる声で言った。
「なんでもありません……」
 ベッドに身を起こそうとすると、フロイントの逞しい腕が素早くアデライデを支えて助けた。
「ありがとうございます……」
 言いながら、アデライデは我知らずフロイントの手を強く握っていた。
「ほんとうに、どうかしたのか?」
 アデライデの手をそっと握り返しながら、フロイントはアデライデの不安に揺れる青い瞳を見つめた。
「いいえ……」
 小さく首を振って答えたが、フロイントの手を離すことはできなかった。だがフロイントに余計な心配をかけることを避けようと、アデライデは無理に微笑を作ってフロイントを見た。
 そのときふとベッドの脇のテーブルが目の端に映り、あたたかい湯気の立つスープが置かれているのに気がついた。スープに目を留めたアデライデに、フロイントが言った。
「治癒の術でおそらくは体に必要なものは与えられていただろうから、それほど空腹は感じていないだろう。だが実際に物を口にするのは、人間にとっては肉体だけでなく心の回復をも図れる重要な行為であろう。食べられるだけでいいから、少し口にするといい」
「……あなたが作ってくださったの……?」
「ああ。だが魔術で準備したのではないぞ。おまえには俺の手で作ったものを食べさせたかったから……」
 アデライデは黙ってフロイントを見上げた。その青い瞳に涙が滲んでいることに気がついて、フロイントはアデライデの頬にそっと手を伸ばした。
「まだ体が辛いのか? ……熱などはもうないようだが……」
 フロイントのあたたかく大きな掌で頬を包み込まれる感じに、アデライデは思わず目を閉じた。

 ──大丈夫。フロイントはこうしてちゃんとわたしのそばにいらっしゃる……。さっきのあれは、ただの夢だわ……。

 アデライデは自分に言い聞かせるように心のうちで呟くと、微笑みを作って目を開けた。
 落ち着きを取り戻したようなアデライデに、フロイントも安心して張り詰めかけていた気を緩めると、枕を整えてアデライデの背中にあてがった。スープの皿を取り、匙にすくってアデライデの唇に近づけると、アデライデは薄く口を開いてスープを飲んだ。
「美味しい……」
 アデライデはにっこり微笑んでフロイントを見た。
「誰かにこんな風に食べ物を口に運んでもらうなんて、幼い頃以来です」
「そうか……」
 嬉しそうに言うアデライデに答えながら、フロイントの胸にもあたたかな喜びが静かに広がっていた。自分の差し出す匙を素直に受け入れて食べるアデライデはまるで生まれたばかりの雛鳥のようで、フロイントの心には愛おしさが募った。
 何匙かスープを口にしたアデライデは満足の笑みを浮かべて枕に凭れ掛かった。
「疲れたか? もう少し眠るか?」
 問われて、アデライデは思わず縋りつくようにフロイントの腕に触れた。何故だか目を閉じればまた嫌な夢を見てしまいそうな気がして怖かった。
「いいえ、眠くはありません。……フロイント、そばにいてくださいませんか?」
 アデライデの頼りなく囁くようなその言葉と、あどけないほどに無垢な青い瞳に見つめられたフロイントは、思わず息を呑んだ。鋭いナイフで胸をえぐられたような痛みが全身に広がる。
 沈黙したフロイントをアデライデは不安な想いで見上げた。
「ご迷惑でしたか……?」
 フロイントは我に返り、すぐにアデライデの手を取って首を振った。
「何を言うのだ、アデライデ。もちろん俺は、おまえのそばにいる……」
 体中に染み渡るようなフロイントのやさしい声と手に、アデライデはほっと胸を撫でおろした。

 ──こうやって一緒にいれば、何も怖くない。

 アデライデは喜びと信頼を深く宿した瞳でフロイントを見つめ、そのあたたかく大きな手にそっと自分の手を重ねた。
 手に持っていたスープの皿を置こうと体を動かしたフロイントの体から、ふと清らかな泉を思わす香りが漂い、アデライデは深く息を吸い込んだ。それは館に帰って来たのだという実感を更に強めるものだった。先ほどは眠くないと言ったが、フロイントの手のぬくもりと、その体から香る清冽なイメージに、アデライデは自分でも気づかない間に眠りに落ちていた。
 安らいだ寝息を立て始めたアデライデの美しい顔を見つめていたフロイントは、言い知れぬ哀しさが胸に来すのを感じずにはいられなかった。

 ──そばに……。アデライデのそばに、ずっといられるならば──……。

 フロイントは心を乱す懊悩に、そっと目を伏せた。

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