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お礼の品は
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それから1週間経った約束の日。お昼を食べ終え、碧乃は自分の部屋に戻った。壁に掛けてある時計の針は、まだ午後1時20分を指していた。待ち合わせの時間までまだある。
さっきまで読んでいた本を手に取るが、家にいるより、喫茶小路でコーヒーを飲みながら読む方が良いなと思った。すっかりあの場所が好きになってしまったようだ。小坂の見立て通りなのが、ちょっと癪だが。
本を一旦置いて、先に行くと彼にメールで伝えると、部屋着から外出用の服に着替え始めた。だいぶ冷たい風が吹くようになってきたので、今日はベージュのゆるめのセーターを着る事にした。下はいつも通りジーンズだ。流行のファッションなどはさっぱり分からないが、ちゃんと自分に似合う服を選ぶようにはしていた。地味な上にダサいなんて、さすがに酷すぎる。とはいえ動きやすさを重視しているので、いつも大体同じような格好になってしまい、おしゃれとは言えない。
ショルダーバッグに本と答案のファイルを入れて部屋を出ると、同じく部屋から出てくる陽乃と鉢合わせた。
「あれ、お姉ちゃん出かけるの?」
「うん、ちょっと」
「あ!もしかして例の彼とデート?」
陽乃は先週の事を思い出して、ニヤッと笑った。
「デートじゃない」
妹の方を見る事なく、碧乃は階段を降り始めた。
「良い報告期待してまーす」
「うるさい」
若干苛立ちながら家を出た。早く中野さんに癒やしてもらわなくては。
店に到着し、扉を開ける。最初は勇気を出さないと入れなかったのに、今はずいぶん慣れたものだ。
「いらっしゃい、碧乃ちゃん。今日も1人かい?」
中野さんはコーヒーを淹れている所だった。
「あ、いえ、後から来ます。試験の結果報告してくれるみたいです」
「そうかい。それは楽しみだ」
「部活があるから3時頃来るって言ってました」
「そう、分かったよ。いつものコーヒーで良いかい?」
「はい、ありがとうございます」
笑顔で会話を終えると、奥のテーブルへ向かった。今日も客数は多めだが、いつもの席は変わらず空いていた。
腰を落ち着け、かばんから本を取り出す。
下ろしている髪を耳にかけると、早速続きを読み始めた。
カランカランと音がして顔を上げると、ジャージ姿の小坂が入ってくる所だった。中野さんと少し会話をして、軽く手を振りながら真っ直ぐこちらへ向かってきた。何だかとても嬉しそうだった。そんなに良い報告なのだろうか。
「私服姿見るの2回目だな」
小坂は席に座りながら話しかけてきた。
「え?…ああ、そうだね」
本を閉じテーブルの端に置こうとすると、彼が手を伸ばしてきた。
「いつも何読んでんの?」
「あ…」
碧乃の手から取り上げると、パラパラと中をめくり出した。
「ん?…SF?」
「ああ、それはね。いつもはファンタジーとかが多いかな」
「ふーん、そうなんだ。興味はあるけど、部活が忙しくて読む暇ないんだよなぁ」
小坂は本を返しながら言った。
「そんなに読もうと思ってないでしょ」
「あ、ばれた?」
呆れる碧乃に、ニカッと笑ってみせた。
そこへ、カフェオレを持った中野さんがやってきた。
「楽しそうだねぇ、光毅君。良い報告はできたのかい?」
「ああ、そうだった。…はい、これ」
中野さんの言葉で思い出し、小坂はかばんから答案の入ったファイルを取り出した。
受け取った碧乃は、おずおずとテーブルにその中身を広げた。彼の表情を見る限りは大丈夫だと思うが、やはりちょっと不安になる。
「良い点数とまではいかなかったけど、目標は達成したよ」
確かに半分もできていないものばかりだったが、ちゃんと赤点は脱していた。前回に比べたら大躍進だ。たった2週間でここまで頑張ってくれるとは。
「すごい…」
予想以上の出来に、思わず感嘆の声が漏れる。
「おお、頑張ったねぇ。これで安心してバスケに打ち込めるね」
「はい、2人のおかげです。ありがとうございました」
小坂は嬉しそうに頭を下げた。
「いやいや。お役に立てて嬉しいねぇ。碧乃ちゃんもお疲れ様、大変だったろう」
「あ、い、いえ…」
「じゃあ頑張ったご褒美は何が良いかな?光毅君はデザートにしようか」
「え!そんな、悪いですよ。いつももらってばっかりで」
中野さんの問いに、小坂は驚いて返した。
「良いんだよ。私が好きでしている事なんだから。年寄りの好意には素直に甘えないと、こっちは悲しくなっちゃうよ?」
「あ……じ、じゃあ、いただきます」
「碧乃ちゃんはデザートじゃない方が良いよね?」
中野さんはすでに、甘い物が苦手な事を知っていた。以前ココアを飲み切れずに謝ったら、次からは少なめに淹れてくれるようになったのだった。
「あ、わ、私はご褒美ってほどの事は何も…」
「良い先生として頑張ったじゃないか。ああ、そうだ。いつもと違うコーヒーでも飲んでみるかい?」
「え?…」
『コーヒー』と聞いて、申し訳なさよりも興味の方が勝ってしまった。
「あ、えっと…、じゃあ、お願いします…」
「はい、かしこまりました。じゃあ、ちょっと待っててね」
空になった碧乃のコーヒーカップを持って、中野さんは笑顔で戻っていった。
「…本当、あの人にはかなわないな」
「…そうだね」
2人はカウンターへ入っていく姿を見つめ、苦笑いを浮かべた。
「…んで?そっちはどうだったんだ?」
「え?」
急に話を振られて視線を向けると、小坂は頬杖をつきながら手を差し出してきた。
「見せて」
「う…。や、やっぱり見せないとだめ?」
持って来たものの、やはり人に見せるのは気が引ける。
「だめ」
「……」
即答され、仕方なくかばんから出したファイルを彼に手渡した。
「うわ、すげー。こんな点数初めて見た」
苦手な地理は79点だったが、それ以外は大体90点前後の点数を出していた。
「やばい。俺の頑張りがかすんで見える…」
「じゃあ、もう見なくていい」
小坂の手から取り上げ、かばんにしまった。
「なんで?俺だったらみんなに見せて回るのに」
「しないから、そんなこと」
「えー?んじゃ、せめてもっかい…」
「やだ」
かすかに意地悪さが出ている顔を睨みつけた。
二度と見せるか。
少しして、中野さんがトレーを持って近付いてきた。
「お待たせしました。はい、光毅君にはバニラアイス」
「ありがとうございます」
おしゃれなガラスの器に盛られたアイスクリームが、小坂の前に置かれた。
「碧乃ちゃんにはちょっと苦めのブレンドを淹れてみたけど、どうかな?」
「え、あ…いただきます」
中野さんから期待の眼差しを向けられ、碧乃は恐る恐る一口飲んでみた。
ふわーっと、コーヒーの強い香りが全身を包むようだった。苦味も、口に残ることなくすっきりと消えていった。
「…おいしいです」
思わず笑みがこぼれる。
「そう、良かった。それは、香りを楽しめるようにブレンドしたコーヒーだよ。名前は『香りブレンド』」
「そうなんだ…。私、この香り好きです」
「そうかい。喜んでくれて嬉しいねぇ。じゃあ、ゆっくり楽しんでおくれ」
碧乃の笑顔に満足し、中野さんは戻っていった。
顔がほころぶままに、また一口飲んだ。
…こんなにおいしかったら、また来たくなっちゃうなぁ。
すると、向かい側からクスッと笑う声が聞こえた。
「あ…」
しまった。
顔を上げると、目の前の彼はいつかに見せた微笑みを浮かべていた。
「本当好きなんだな」
「……」
またやってしまった…。
恥ずかしくなった顔を隠すように、目をそらしてもう一口飲んだ。
「ここを教えたのが斉川で良かった」
そう言うと、幸せそうにアイスクリームを食べだした。
「……」
さらっと本気で言われると、何だか調子が狂う。いっそからかってくれれば良いのに。
碧乃の顔が少しだけ赤くなった。
「そういえば、この後の予定は?」
食べ終えた小坂が訊いてきた。
「え?」
コーヒーカップを見つめていた碧乃は、目線を前に移した。
「何かある?」
「…特に、ないけど」
「んじゃ、ちゃんとお礼したいから、斉川の欲しい物一緒に買いに行こ?」
「え!い、いいよ別に。コーヒーおごってもらってたし」
碧乃は戸惑いながら首を横に振った。
「あれじゃちゃんとって言わないから」
「でも…、今月お金使い過ぎじゃない?」
1週間以上もここに通ったのだから、出費は相当なはずだ。
「ああ、それは大丈夫。コーヒー代もそうだけど、親に言ったら『ちゃんとお返ししなさい』って多めにくれたから」
「そ、そうなんだ…。でも…べ、別に一緒に行かなくても…」
休日に2人で歩いているなんて、絶対不審に思われる。
「俺1人じゃ、何が良いか分かんないだろ?」
「何でもいいよ」
「それじゃ俺の気が収まらないからだめ。誰かに見られたら、偶然会ったって言えば大丈夫だって。…もう普通に会話できる仲なんだし?」
小坂はニヤッと笑って、首を傾けた。
「う…」
こちらが言おうとした事を先読みされてしまった。早速会話の事を利用され、断る理由が思いつかなくなった。さすがわがまま王子、自分の意見を押し通す時は頭が切れる。
碧乃はため息をついた。もう、幸せが逃げ放題だ。
「…分かった。行くよ」
「やった!じゃあそれ飲み終わるまで待ってる」
「……」
目の前で頬杖をつく彼は、ものすごく嬉しそうだった。
碧乃は渋々電車に乗り、小坂と共に中央駅で降りた。
駅を出ると、彼は慣れたように碧乃をファッションビルへ連れて行った。ここは若者向けのお店が多く入る商業施設だった。きっと、友達とよく来る所なのだろう。
「何が良い?」
ブラブラとお店を見て回りながら、小坂が話しかけてきた。
「うーん…、何って言われても」
物欲がほとんどないので、全く思いつかない。誕生日の時などは、親といつもこんなやり取りをしていた。そして最終的には本か図書カードにされていたが、今日はそれではだめだ。
「まぁ、見てて良いのがあったら言って」
「…分かった」
歩いている途中、本屋があった。
前を通過する時に、ふと店先の新刊コーナーが目に入った。
あ…新しいの出てる…。
この間読んだ本の続きが出ているのを見つけ、つい立ち止まってしまった。
とても面白かったので、先が気になっていたのだ。
「こら」
突然の声にビクッと反応して振り返ると、小坂がしかめ面で立っていた。
「勝手に離れるな」
「あ…ごめん」
彼は呆れてため息をついた。
「ったく…。本が欲しいのか?」
「え、ううん。今はいい」
首を振る碧乃に、小坂は苦笑いを浮かべた。
「じゃあ、次あっち見てみる?」
「あ、う、うん…」
小坂の指差す方向に、2人で歩き出した。
§
全く、危うく見失う所だった。彼女は意外に目が離せない人らしい。割と小柄な体格なので、人混みに紛れるとすぐに見えなくなってしまう。いっそ手でも繋いでおこうかと思ったが、それを誰かに見られるのはさすがにまずい気がするのでやめておく。
…にしても。彼女が欲しい物って何なのだろうか。本人が分かっていないのに、こちらが見つけるなんて無理だ。悩めば悩むほど長く一緒に歩いていられるので、自分的には嬉しいが。
2人は何軒目かの雑貨屋に立ち寄った。狭い通路で後ろを歩く彼女にいくつか手に取って見せるが、どれもいまいちな反応だった。
うーん……ダメだ。全然決まんない。
可愛さよりも実用性を重視する傾向にある事は分かったが、それだけだった。
…本当、何が良いんだ?
とりあえず目に入ったシャープペンを手に取って、後ろを振り返った。
「斉川、これは…」
誰もいなかった。
またか!離れるなって言ったのに!
焦りを抑えつつ、来た道を戻る。
……いた。
棚の角を曲がって少し離れた所に、小柄な後ろ姿を見つけた。
斉川は、じっと手元を見ているようだった。何か見つけたのだろうか。
近付いて、後ろからその手元を覗き込み声をかけた。
「なんか良いのあった?」
「え!あ…」
斉川は驚いたようにこちらを振り返った。
自分から近付いておきながら、彼女と目が合うと思わずドキッとしてしまった。
身長差があるせいで、この位置関係だと上目使いになっていた。
しかしそれは一瞬で、目線をすぐに手元に落とされてしまった。
斉川は金色の四角いプレートのようなものを持っていた。
彼女の手からそれを受け取って見ると、コーヒーカップから湯気が立ちのぼる絵が切り抜かれた金属製の栞だった。
光毅はクスッと笑った。
なんだか、斉川らしいな…。
「これにする?」
「う…うん」
斉川はぎこちなく頷いた。
やっと欲しい物が見つかった。
§
会計を終えて店を出ると、小さくて可愛い紙袋に入れられたそれが手渡された。
「はい」
「あ、ありがとう…」
家族以外の誰かに何かを買ってもらったのは初めてなので、どういう顔で受け取って良いのかよく分からなかった。
「だいぶ暗くなっちゃったな。今何時?」
碧乃は腕時計を小坂に見せた。
午後6時半を過ぎていた。2時間ほど探し回っていたらしい。
「帰るか。さすがに疲れた」
「…そうだね」
ビルを出ると、駅へ向かう人達で通りが混んでいた。
人をよけて歩いているうちに、小坂との距離が離れていった。人混みに慣れている小坂と慣れていない碧乃では、進むスピードが違うのだ。
すると、それに気付いた小坂が歩みを緩め、碧乃の腕を軽く引っ張った。
「あ、わっ」
「もっとくっついて歩かないと、はぐれるって」
「す、すいません…」
そのまま手首の辺りを掴まれ、彼のぴったり横を歩かされた。もう3度も離れたせいで、これ以上は困ると判断されたようだ。
不本意だが悪いのは自分なので、大人しく連れられていった。
駅について辺りが開けると、小坂は手を離した。
2人は同じ改札を通り、階段の側で立ち止まった。
「んじゃ、気を付けて帰れよ」
「うん…分かった」
小坂と碧乃は乗る電車が反対方向だった。
「また明日な」
「ま、また明日…」
小坂は手を振りながら、自分の電車がある方への階段へ向かっていった。
無視するのは悪いと軽く手を振り返して、碧乃も階段を降りていった。
丁度電車が来た所で、向こう側のホームに降りた彼の姿は見えなかった。
夕食を終えて部屋に戻った碧乃は、本の続きを読もうとショルダーバッグを開けた。
本と共に、あの小さな紙袋も取り出した。
机の上に本を開いて、袋から出した栞を置いた。
今まで使っていた栞は、本を買ったときに付いてくる紙製の味気ないものだった。
わざわざ取っておくものでもないので、それは捨てる事にした。
椅子に座り、ぼんやりとコーヒーカップの絵を眺める。
あの雑貨屋で小坂とのやり取りに少し疲れてきた時、ブックカバーや栞が置いてあるコーナーが目に入った。
気になってふらっと近付いたら、この栞を見つけた。
デザインに一目惚れし、つい手に取って見ていたら彼が来たのだった。
…買ってもらって良かった。1人じゃ、あの場所に行く事すらなかった。
嬉しそうに手に取って机に置くと、碧乃は本を読み始めた。
さっきまで読んでいた本を手に取るが、家にいるより、喫茶小路でコーヒーを飲みながら読む方が良いなと思った。すっかりあの場所が好きになってしまったようだ。小坂の見立て通りなのが、ちょっと癪だが。
本を一旦置いて、先に行くと彼にメールで伝えると、部屋着から外出用の服に着替え始めた。だいぶ冷たい風が吹くようになってきたので、今日はベージュのゆるめのセーターを着る事にした。下はいつも通りジーンズだ。流行のファッションなどはさっぱり分からないが、ちゃんと自分に似合う服を選ぶようにはしていた。地味な上にダサいなんて、さすがに酷すぎる。とはいえ動きやすさを重視しているので、いつも大体同じような格好になってしまい、おしゃれとは言えない。
ショルダーバッグに本と答案のファイルを入れて部屋を出ると、同じく部屋から出てくる陽乃と鉢合わせた。
「あれ、お姉ちゃん出かけるの?」
「うん、ちょっと」
「あ!もしかして例の彼とデート?」
陽乃は先週の事を思い出して、ニヤッと笑った。
「デートじゃない」
妹の方を見る事なく、碧乃は階段を降り始めた。
「良い報告期待してまーす」
「うるさい」
若干苛立ちながら家を出た。早く中野さんに癒やしてもらわなくては。
店に到着し、扉を開ける。最初は勇気を出さないと入れなかったのに、今はずいぶん慣れたものだ。
「いらっしゃい、碧乃ちゃん。今日も1人かい?」
中野さんはコーヒーを淹れている所だった。
「あ、いえ、後から来ます。試験の結果報告してくれるみたいです」
「そうかい。それは楽しみだ」
「部活があるから3時頃来るって言ってました」
「そう、分かったよ。いつものコーヒーで良いかい?」
「はい、ありがとうございます」
笑顔で会話を終えると、奥のテーブルへ向かった。今日も客数は多めだが、いつもの席は変わらず空いていた。
腰を落ち着け、かばんから本を取り出す。
下ろしている髪を耳にかけると、早速続きを読み始めた。
カランカランと音がして顔を上げると、ジャージ姿の小坂が入ってくる所だった。中野さんと少し会話をして、軽く手を振りながら真っ直ぐこちらへ向かってきた。何だかとても嬉しそうだった。そんなに良い報告なのだろうか。
「私服姿見るの2回目だな」
小坂は席に座りながら話しかけてきた。
「え?…ああ、そうだね」
本を閉じテーブルの端に置こうとすると、彼が手を伸ばしてきた。
「いつも何読んでんの?」
「あ…」
碧乃の手から取り上げると、パラパラと中をめくり出した。
「ん?…SF?」
「ああ、それはね。いつもはファンタジーとかが多いかな」
「ふーん、そうなんだ。興味はあるけど、部活が忙しくて読む暇ないんだよなぁ」
小坂は本を返しながら言った。
「そんなに読もうと思ってないでしょ」
「あ、ばれた?」
呆れる碧乃に、ニカッと笑ってみせた。
そこへ、カフェオレを持った中野さんがやってきた。
「楽しそうだねぇ、光毅君。良い報告はできたのかい?」
「ああ、そうだった。…はい、これ」
中野さんの言葉で思い出し、小坂はかばんから答案の入ったファイルを取り出した。
受け取った碧乃は、おずおずとテーブルにその中身を広げた。彼の表情を見る限りは大丈夫だと思うが、やはりちょっと不安になる。
「良い点数とまではいかなかったけど、目標は達成したよ」
確かに半分もできていないものばかりだったが、ちゃんと赤点は脱していた。前回に比べたら大躍進だ。たった2週間でここまで頑張ってくれるとは。
「すごい…」
予想以上の出来に、思わず感嘆の声が漏れる。
「おお、頑張ったねぇ。これで安心してバスケに打ち込めるね」
「はい、2人のおかげです。ありがとうございました」
小坂は嬉しそうに頭を下げた。
「いやいや。お役に立てて嬉しいねぇ。碧乃ちゃんもお疲れ様、大変だったろう」
「あ、い、いえ…」
「じゃあ頑張ったご褒美は何が良いかな?光毅君はデザートにしようか」
「え!そんな、悪いですよ。いつももらってばっかりで」
中野さんの問いに、小坂は驚いて返した。
「良いんだよ。私が好きでしている事なんだから。年寄りの好意には素直に甘えないと、こっちは悲しくなっちゃうよ?」
「あ……じ、じゃあ、いただきます」
「碧乃ちゃんはデザートじゃない方が良いよね?」
中野さんはすでに、甘い物が苦手な事を知っていた。以前ココアを飲み切れずに謝ったら、次からは少なめに淹れてくれるようになったのだった。
「あ、わ、私はご褒美ってほどの事は何も…」
「良い先生として頑張ったじゃないか。ああ、そうだ。いつもと違うコーヒーでも飲んでみるかい?」
「え?…」
『コーヒー』と聞いて、申し訳なさよりも興味の方が勝ってしまった。
「あ、えっと…、じゃあ、お願いします…」
「はい、かしこまりました。じゃあ、ちょっと待っててね」
空になった碧乃のコーヒーカップを持って、中野さんは笑顔で戻っていった。
「…本当、あの人にはかなわないな」
「…そうだね」
2人はカウンターへ入っていく姿を見つめ、苦笑いを浮かべた。
「…んで?そっちはどうだったんだ?」
「え?」
急に話を振られて視線を向けると、小坂は頬杖をつきながら手を差し出してきた。
「見せて」
「う…。や、やっぱり見せないとだめ?」
持って来たものの、やはり人に見せるのは気が引ける。
「だめ」
「……」
即答され、仕方なくかばんから出したファイルを彼に手渡した。
「うわ、すげー。こんな点数初めて見た」
苦手な地理は79点だったが、それ以外は大体90点前後の点数を出していた。
「やばい。俺の頑張りがかすんで見える…」
「じゃあ、もう見なくていい」
小坂の手から取り上げ、かばんにしまった。
「なんで?俺だったらみんなに見せて回るのに」
「しないから、そんなこと」
「えー?んじゃ、せめてもっかい…」
「やだ」
かすかに意地悪さが出ている顔を睨みつけた。
二度と見せるか。
少しして、中野さんがトレーを持って近付いてきた。
「お待たせしました。はい、光毅君にはバニラアイス」
「ありがとうございます」
おしゃれなガラスの器に盛られたアイスクリームが、小坂の前に置かれた。
「碧乃ちゃんにはちょっと苦めのブレンドを淹れてみたけど、どうかな?」
「え、あ…いただきます」
中野さんから期待の眼差しを向けられ、碧乃は恐る恐る一口飲んでみた。
ふわーっと、コーヒーの強い香りが全身を包むようだった。苦味も、口に残ることなくすっきりと消えていった。
「…おいしいです」
思わず笑みがこぼれる。
「そう、良かった。それは、香りを楽しめるようにブレンドしたコーヒーだよ。名前は『香りブレンド』」
「そうなんだ…。私、この香り好きです」
「そうかい。喜んでくれて嬉しいねぇ。じゃあ、ゆっくり楽しんでおくれ」
碧乃の笑顔に満足し、中野さんは戻っていった。
顔がほころぶままに、また一口飲んだ。
…こんなにおいしかったら、また来たくなっちゃうなぁ。
すると、向かい側からクスッと笑う声が聞こえた。
「あ…」
しまった。
顔を上げると、目の前の彼はいつかに見せた微笑みを浮かべていた。
「本当好きなんだな」
「……」
またやってしまった…。
恥ずかしくなった顔を隠すように、目をそらしてもう一口飲んだ。
「ここを教えたのが斉川で良かった」
そう言うと、幸せそうにアイスクリームを食べだした。
「……」
さらっと本気で言われると、何だか調子が狂う。いっそからかってくれれば良いのに。
碧乃の顔が少しだけ赤くなった。
「そういえば、この後の予定は?」
食べ終えた小坂が訊いてきた。
「え?」
コーヒーカップを見つめていた碧乃は、目線を前に移した。
「何かある?」
「…特に、ないけど」
「んじゃ、ちゃんとお礼したいから、斉川の欲しい物一緒に買いに行こ?」
「え!い、いいよ別に。コーヒーおごってもらってたし」
碧乃は戸惑いながら首を横に振った。
「あれじゃちゃんとって言わないから」
「でも…、今月お金使い過ぎじゃない?」
1週間以上もここに通ったのだから、出費は相当なはずだ。
「ああ、それは大丈夫。コーヒー代もそうだけど、親に言ったら『ちゃんとお返ししなさい』って多めにくれたから」
「そ、そうなんだ…。でも…べ、別に一緒に行かなくても…」
休日に2人で歩いているなんて、絶対不審に思われる。
「俺1人じゃ、何が良いか分かんないだろ?」
「何でもいいよ」
「それじゃ俺の気が収まらないからだめ。誰かに見られたら、偶然会ったって言えば大丈夫だって。…もう普通に会話できる仲なんだし?」
小坂はニヤッと笑って、首を傾けた。
「う…」
こちらが言おうとした事を先読みされてしまった。早速会話の事を利用され、断る理由が思いつかなくなった。さすがわがまま王子、自分の意見を押し通す時は頭が切れる。
碧乃はため息をついた。もう、幸せが逃げ放題だ。
「…分かった。行くよ」
「やった!じゃあそれ飲み終わるまで待ってる」
「……」
目の前で頬杖をつく彼は、ものすごく嬉しそうだった。
碧乃は渋々電車に乗り、小坂と共に中央駅で降りた。
駅を出ると、彼は慣れたように碧乃をファッションビルへ連れて行った。ここは若者向けのお店が多く入る商業施設だった。きっと、友達とよく来る所なのだろう。
「何が良い?」
ブラブラとお店を見て回りながら、小坂が話しかけてきた。
「うーん…、何って言われても」
物欲がほとんどないので、全く思いつかない。誕生日の時などは、親といつもこんなやり取りをしていた。そして最終的には本か図書カードにされていたが、今日はそれではだめだ。
「まぁ、見てて良いのがあったら言って」
「…分かった」
歩いている途中、本屋があった。
前を通過する時に、ふと店先の新刊コーナーが目に入った。
あ…新しいの出てる…。
この間読んだ本の続きが出ているのを見つけ、つい立ち止まってしまった。
とても面白かったので、先が気になっていたのだ。
「こら」
突然の声にビクッと反応して振り返ると、小坂がしかめ面で立っていた。
「勝手に離れるな」
「あ…ごめん」
彼は呆れてため息をついた。
「ったく…。本が欲しいのか?」
「え、ううん。今はいい」
首を振る碧乃に、小坂は苦笑いを浮かべた。
「じゃあ、次あっち見てみる?」
「あ、う、うん…」
小坂の指差す方向に、2人で歩き出した。
§
全く、危うく見失う所だった。彼女は意外に目が離せない人らしい。割と小柄な体格なので、人混みに紛れるとすぐに見えなくなってしまう。いっそ手でも繋いでおこうかと思ったが、それを誰かに見られるのはさすがにまずい気がするのでやめておく。
…にしても。彼女が欲しい物って何なのだろうか。本人が分かっていないのに、こちらが見つけるなんて無理だ。悩めば悩むほど長く一緒に歩いていられるので、自分的には嬉しいが。
2人は何軒目かの雑貨屋に立ち寄った。狭い通路で後ろを歩く彼女にいくつか手に取って見せるが、どれもいまいちな反応だった。
うーん……ダメだ。全然決まんない。
可愛さよりも実用性を重視する傾向にある事は分かったが、それだけだった。
…本当、何が良いんだ?
とりあえず目に入ったシャープペンを手に取って、後ろを振り返った。
「斉川、これは…」
誰もいなかった。
またか!離れるなって言ったのに!
焦りを抑えつつ、来た道を戻る。
……いた。
棚の角を曲がって少し離れた所に、小柄な後ろ姿を見つけた。
斉川は、じっと手元を見ているようだった。何か見つけたのだろうか。
近付いて、後ろからその手元を覗き込み声をかけた。
「なんか良いのあった?」
「え!あ…」
斉川は驚いたようにこちらを振り返った。
自分から近付いておきながら、彼女と目が合うと思わずドキッとしてしまった。
身長差があるせいで、この位置関係だと上目使いになっていた。
しかしそれは一瞬で、目線をすぐに手元に落とされてしまった。
斉川は金色の四角いプレートのようなものを持っていた。
彼女の手からそれを受け取って見ると、コーヒーカップから湯気が立ちのぼる絵が切り抜かれた金属製の栞だった。
光毅はクスッと笑った。
なんだか、斉川らしいな…。
「これにする?」
「う…うん」
斉川はぎこちなく頷いた。
やっと欲しい物が見つかった。
§
会計を終えて店を出ると、小さくて可愛い紙袋に入れられたそれが手渡された。
「はい」
「あ、ありがとう…」
家族以外の誰かに何かを買ってもらったのは初めてなので、どういう顔で受け取って良いのかよく分からなかった。
「だいぶ暗くなっちゃったな。今何時?」
碧乃は腕時計を小坂に見せた。
午後6時半を過ぎていた。2時間ほど探し回っていたらしい。
「帰るか。さすがに疲れた」
「…そうだね」
ビルを出ると、駅へ向かう人達で通りが混んでいた。
人をよけて歩いているうちに、小坂との距離が離れていった。人混みに慣れている小坂と慣れていない碧乃では、進むスピードが違うのだ。
すると、それに気付いた小坂が歩みを緩め、碧乃の腕を軽く引っ張った。
「あ、わっ」
「もっとくっついて歩かないと、はぐれるって」
「す、すいません…」
そのまま手首の辺りを掴まれ、彼のぴったり横を歩かされた。もう3度も離れたせいで、これ以上は困ると判断されたようだ。
不本意だが悪いのは自分なので、大人しく連れられていった。
駅について辺りが開けると、小坂は手を離した。
2人は同じ改札を通り、階段の側で立ち止まった。
「んじゃ、気を付けて帰れよ」
「うん…分かった」
小坂と碧乃は乗る電車が反対方向だった。
「また明日な」
「ま、また明日…」
小坂は手を振りながら、自分の電車がある方への階段へ向かっていった。
無視するのは悪いと軽く手を振り返して、碧乃も階段を降りていった。
丁度電車が来た所で、向こう側のホームに降りた彼の姿は見えなかった。
夕食を終えて部屋に戻った碧乃は、本の続きを読もうとショルダーバッグを開けた。
本と共に、あの小さな紙袋も取り出した。
机の上に本を開いて、袋から出した栞を置いた。
今まで使っていた栞は、本を買ったときに付いてくる紙製の味気ないものだった。
わざわざ取っておくものでもないので、それは捨てる事にした。
椅子に座り、ぼんやりとコーヒーカップの絵を眺める。
あの雑貨屋で小坂とのやり取りに少し疲れてきた時、ブックカバーや栞が置いてあるコーナーが目に入った。
気になってふらっと近付いたら、この栞を見つけた。
デザインに一目惚れし、つい手に取って見ていたら彼が来たのだった。
…買ってもらって良かった。1人じゃ、あの場所に行く事すらなかった。
嬉しそうに手に取って机に置くと、碧乃は本を読み始めた。
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