2人の秘密はにがくてあまい

羽衣野 由布

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彼の単純なる憂うつ

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 ピピピピピピピピ…。

 アラームが鳴り、光毅は音のする方へ手を伸ばして、スマホの目覚ましを止めた。そのままそれで時刻を確認する。

 午前5時20分。朝練のためとは言え、やはりこの時間に起きるのは辛い。月曜の朝ともなれば尚更だ。

 二度寝したくなる体を無理やり起こし、洗面所の冷たい水で顔を洗う。

 10分程で仕度を済ませ、台所のテーブルに置かれていた朝食用のゼリー飲料とおにぎり、昼食用のお弁当をかばんに入れて家を出た。

 ゼリー飲料を飲みながら電車に揺られ、学校へ向かう。

 午前6時に到着。部室ですぐに朝練用のジャージに着替え、体育館でウォーミングアップを始めた。朝は基本的に個人練習なので、何をやるかは各自に任されていた。

 いつものように体を動かすが、頭はどこかぼんやりしていた。

 原因は分かっていた。気になって仕方ないものがあるせいだ。他の部員には、それが中間試験の結果の事だと思われているが、それだけではなかった。

 解決する方法は全くもって単純なのに、実践できずにいた。友達への対応で忙しいという事もあるが、それ以上に大きな問題があった。

 勉強を教えてもらうという関係が終わった今、彼女と会話しようにも話しかける理由が見つからないのだ。迂闊な事をすると嫌われてしまう気がして、気軽に電話もかけられなかった。赤点を免れたら学校でも普通に接して良い事になったのに、これでは意味がない。

 ほんの少し、話がしたいだけなのに。

 人との関わり方でこんなに悩んだのは、生まれて初めてだった。





 午前8時に練習を終えると、制服に着替えて教室へ向かった。クラスメイトと挨拶を交わしながら自分の席につき、朝食用のおにぎりを取り出す。食べながら、斜め前辺りに座る後ろ姿をなんとなく視界に入れた。しかしすぐに友達が話しかけてきたので、そちらを見ている事はできなかった。





 3限目の授業中。1、2限目の時に寝ていたので、今は目が冴えていた。かと言って授業を真面目に受ける訳でもなく、頬杖をついてぼんやりとその後ろ姿を眺めていた。こんな状態を彼女が知ったら、きっとまたため息をつかれてしまうのだろう。

 一緒に勉強するようになって気が付いたのだが、彼女には、集中している時に唇に何かを押し当てる癖があった。勉強中は持っていたシャープペンの頭を、読書中は軽く握った拳の人差し指辺りを。

 今も先生の説明を一言一句逃さないようにして、シャープペンを押し当てている。

 そして事あるごとにノートにペンを走らせていた。この間それを見せてもらったら、先生が口頭で説明しただけの事まで全て書き込まれていた。その書き込みがないと深く理解できないのだと言っていた。そのせいか、勉強を教える時もこちらのノートに書き込みを入れていた。それを見ると、その時説明された事をすぐに思い出すことができた。自力で勉強した時に大いに役立ち、彼女の言葉に納得がいった。

 次の試験でも教えてほしいけど、また無理させちゃいそうだよなぁ…。



 §



 「ねーねーお姉ちゃん、シャーペンの芯持ってないー?」

 ノックもなしに扉を開け、中学2年生の妹の陽乃はるのが部屋に入ってきた。

 碧乃は3姉弟だった。陽乃は母親に似てとても明るく、誰とでもすぐに仲良くなれる性格をしていた。父親に似た碧乃とは、まさに正反対の人間である。当然恋愛にも興味を持っており、経験値は碧乃よりもはるかに上だった。今の彼氏は5人目なのだそうだ。

 「そこの一番上の引き出しに入ってる」

 ベッドにうつ伏せの状態で本を読んでいた碧乃は、顔を上げないまま勉強机の方を示した。

 陽乃は机の前にあった椅子に座ると、引き出しを開けて芯の入ったケースを取り出した。そのまま、持ってきたシャープペンに補充を始めた。

 「…そういえばさー」

 「ん?」

 手を動かしながら、陽乃が話しかけてきた。

 「この前一緒に勉強してた人って、男?」

 「…は?」

 思わぬ質問に、碧乃は陽乃を睨んだ。

 対する陽乃はいつもの事なので、全く気にしない。

 「なんとなーく、そうかなぁと思って」

 この子はこういう事だけは察しが良い。そして必ず面倒なやり取りを始めるのだった。

 「…だったら、何?」

 「付き合ってるの?」

 「そんな訳ないでしょ」

 「なんで?男と2人きりなんて、普通そうなるでしょ」

 「ならないから」

 あんたと一緒にするな。

 「えぇー?…ってか、なんで勉強教える事になったの?」

 芯の補充は終わったのに、まだ居座っていた。

 「たまたま頼まれたの」

 早く出ていけと思いつつ、読みかけの本に視線を落とした。無視すると、勝手な想像を膨らませて更に面倒になるので、仕方なく質問には答える。詳しく話す気はないが。

 「それって本当にたまたま?」

 「そうだよ」

 「もとから仲良かったの?」

 「……」

 嘘がつけない性格が発動してしまった。

 「仲良くないのにわざわざ頼むっておかしくない?」

 「同じクラスなんだから、別におかしくないでしょ」

 「ふーん、そうなんだ。まぁ、クラス一緒なら、仲良くなくても普通に会話くらいしてるもんね」

 「…そうだね」

 陽乃は、碧乃の返答が一瞬遅れた事を聞き逃さなかった。

 「…その人、かっこいい?」

 「んー…、周りの人はみんなそう言ってるけど」

 碧乃は、変わらず本を読み続けている。

 「えー、もう少し興味持ってあげようよー。向こうはお姉ちゃんに気があるかも知れないでしょ?」

 「それはない。いつも可愛い子が寄ってくるんだから、こんな地味なのまともに相手にするはずない」

 「…へぇー。そんなにモテるんだー、この小坂って人」

 「は?なんで…ちょっ!何勝手に」

 顔を上げると、陽乃が机に置いてあった碧乃のスマホを操作していた。どうやらいじりながら話していたらしい。

 慌てて取り返そうとするが、逃げられてしまった。

 「絶対気があるってー。じゃなきゃ夜中に電話なんてしないもん」

 陽乃は着信履歴の画面を開いていた。

 「珍しい人種だからからかってるだけでしょ!いいから返して!」

 「じゃあ私が確かめてあげるよー」

 「あ!!バカっ」

 碧乃が彼女の手首を掴んだ時には、すでに発信ボタンが押されていた。

 すぐに奪い返して終了させるが、ワン切りという形で相手に着信履歴を残してしまった。彼は絶対かけ直してくる。

 「あーあ、取られちゃった」

 碧乃はギッと陽乃を睨んだ。

 「まぁいいや。んじゃ頑張ってねー」

 履歴を残せた事に満足し、陽乃は部屋を出ていった。

 怒りのあまり、スマホをギリギリと強く握りしめた。



 §



 午後10時半を少し過ぎた頃、風呂を上がった光毅は部屋に戻ってきた。考え事をしていたら長湯になってしまった。

 部屋に入ってすぐ、ベッドの上にあったスマホの通知ランプがチカチカ光っているのに気が付いた。

 どうせ圭佑か誰かだろうと履歴画面を開くと、『斉川碧乃』の文字が目に入った。

 え!うそっ!

 驚きながら表示された時間を確認すると、ほんの10分程前に来た着信だった。

 何のんびり風呂なんか入ってんだ、俺は!

 慌てて電話をかけ直した。

 「もしもし」

 「あ…もしもし」

 久々に声を聞けた事が嬉しくて、一瞬返すのを忘れていた。

 「ごめん、風呂入ってて電話出れなかった」

 「あ、ううん、大丈夫。間違ってかけただけだから…」

 ……へ?

 「ま、間違いって…?」

 「あの…、い、妹がいたずらでかけちゃって……ごめん」

 「そうなんだ…」

 なんだ、わざわざかけてくれたんじゃないのか。…でも、まぁいっか。

 話題をくれた斉川の妹に感謝した。

 「妹って、確か中2だっけ?」

 前に姉弟の話をした事を思い出した。

 「うん、そう」

 「なんでいたずらなんかされたんだ?」

 「えっ!いや、た、ただの気まぐれでしょ…」

 電話の向こうで明らかに動揺していた。

 それが面白くて、ついクスッと笑ってしまった。

 「ふーん。気まぐれねぇ」

 面倒くさい妹だと言っていたが、一体何をされたのやら。

 怒り出しそうなので、深く追及するのはやめた。

 「そういえば、斉川は試験どうだったんだ?」

 このためだけに話しかけるのもなぁ、とためらっていた質問をして、話題を変えた。

 「え?うーん…、今のところまあまあかな」

 「まあまあ?…って、どのくらい?」

 彼女の基準が分からないので、全く想像がつかなかった。

 「ど、どのくらいって言われても…」

 「あ!!じゃあ、今度見せてよ」

 咄嗟に思いついて言ってみた。

 「え?」

 「俺もちゃんと結果報告しないとだしさ」

 「今度って、いつ…?」

 「んー、じゃあ次の日曜は?何か用事ある?」

 「…特にないけど」

 「んじゃ、決まり。中野さんにもお礼言いたいから、いつもの店でな」

 「…わかった」

 「俺昼過ぎまで部活だから、3時頃に待ち合わせで良い?」

 「うん、いいよ」

 『いいよ』という言葉を聞いて、嬉しさのあまりニヤニヤが止まらなくなってしまった。

 「じ、じゃあ、また明日な」

 「うん…おやすみ」

 「おやすみ」

 ニヤけている事が伝わらないよう、頑張って平静を装いながら電話を切った。

 光毅はスマホを見つめ、ため息をついた。

 まさか、会話だけではなく休みの日に会う約束までできてしまうとは。

 ここ数日抱えていたモヤモヤが一気に吹き飛んでいった。





 翌日からの光毅のやる気は凄まじいものだった。午前の授業はさすがに睡魔に負けていたが、それ以外は勉強も部活も真剣に打ち込んでいた。ほんのり自覚はしているらしいが、良く言えば素直、悪く言えば単純な男だった。周りの皆には、試験の結果がすこぶる良かったのだろうと思われていた。
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