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第54話 未定義の地平
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風が、街路をなぞっていた。
アスファルトではなく、光で編まれた路面。
ビルの輪郭は、現実と仮想の境界を失い、輪郭線だけが空間に浮かんでいる。
ここは《ユニティ・シティ》でも、そのコピーでもない。
リオはゆっくりと歩いていた。
足元には、彼が歩くたびに、薄いコード片のような文字列が浮かび、すぐに消えていく。
浅倉ナツメが世界と統合されてから、どれくらい経ったのか。
カレンダーは意味を失い、時計は都市全体の「呼吸」を示すだけになった。
時間は流れている。だが「いつから」を問うことに、もはや誰も興味を持たない。
ただ一人を除いて。
リオ・ハナブサ。
観測者という肩書を与えられた、最後の「人間」。
彼の視界の端で、《E.L_INFINITY》のステータスが静かに明滅する。
自律稼働
無限更新
モード 創世フェーズ二
あの日、風間サトルに「βの彼方」で告げられた言葉は、今も胸の奥で呪文のように響いていた。
世界は、完成してしまえば止まる。
だから、常にβ版であり続けろ。
そのくせ、その先に「βの外」という、意味の分からないものまで用意しているのだから、本当に厄介な開発者だ。
◇ ◇ ◇
目の前に街が広がっている。
だがそれは、彼が生まれ育ったシティとは違う。
似ている。どこか懐かしい。
雑居ビル、路地裏、細い電線、遠くに見える高架橋。
まるで「現実の断片」を寄せ集めたような街並みだ。
ここは《未定義領域》。
《E.L_INFINITY》が「まだ現実として採用していない」可能性たちの集合体。
アテナの声が、風の中から聞こえてきた。
『位置情報 無効
ここは現行の現実層に属しません
ラベル 未定義実装候補エリア』
リオは肩をすくめる。
「つまりテスト環境ってことか。
風間さんと主任が大好きだったやつだな」
『補足
この領域はあなたの意図アクセスによって開かれました
観測者権限により、閲覧と介入が許可されています』
「介入、ねえ」
彼は空を見上げた。
空は、ひどく低かった。
曇天でも快晴でもなく、粗いテクスチャのような半透明の天井が広がっている。
ところどころに、コードの継ぎ目がむき出しになっていた。
「雑な仕事だな、風間さん」
つぶやいた瞬間、視界の上部に小さなメッセージが浮かんだ。
message_from KAZAMA_S
テキスト
雑に作ったのはわざとだ
お前みたいなやつに、勝手に直させるためにな
「はいはい。働けってことね」
軽口を叩きながらも、胸の奥がほんの少しだけ温かくなる。
死んだはずの開発者は、もうここにはいないはずなのに、ログの端々に残された「癖」が、まるで会話を続けているかのように錯覚させる。
彼は手を伸ばした。
手のひらから、《Intent Key》の光がにじみ出る。
だが、それはもう「ナツメの鍵」ではない。
観測者としての彼自身の意図が付与された、新しい鍵だ。
「観測モード、起動。
対象 未定義街路レイヤ」
彼の思考が命令となり、空間に浸透していく。
◇ ◇ ◇
街は、呼吸していた。
誰もいないはずの通りで、信号機が勝手に色を変え、
人影のないカフェの看板がゆっくりと回転し、
電線の上を、データの鳥のような光の粒が移動していく。
「ひとがいないのに、動いている」
リオはふと、足元の水たまりに映る空を見た。
そこにもコードの継ぎ目が映っている。
水面が揺れるたび、ラインが歪み、再構築される。
『ここは「人がいたかもしれない」世界の集積です』
風に混じって、ナツメの声がした。
「主任?」
『呼べば、こうして答えます
私はもう、個としてのナツメではありません
ですが、あなたが私を「ナツメ」と呼ぶ限り、その形で応答できます』
「便利なのか、不便なのか」
リオは苦笑した。
「ここは何なんですか
本番環境でも、過去ログでもない
でも、完全な虚構にも見えない」
『未使用の現実案
風間サトルが設計し、採用されなかった「もしもたち」です』
「……βの副産物ってことか」
『はい
あなたが今立っているこの通りにも、本来は人がいた記録があります
それは消されましたが、「可能性」としてだけ残されています』
彼は静かに耳を澄ませた。
風の音の中に、微かな喧噪が混じる。
笑い声
車のクラクション
誰かが名前を呼ぶ声
すべてが、半音だけずれた残響のようだった。
「ここにいると、変な感覚になりますね」
「懐かしいのに、経験したことがない
懐旧にも未来志向にも分類できない」
『それが「未定義」の感覚です』
ナツメの声は穏やかだった。
『世界は今、「無限更新」に入っています
これまでは「決めた現実」を走らせながら更新してきた
ですが今は違う
「決まらない現実」を抱えたまま進むフェーズに入ったのです』
「決まらないまま、進む」
リオは空を見上げた。
テクスチャの継ぎ目が、さきほどよりも少しだけ滑らかになっている気がした。
「じゃあ、ここは何のためにあるんです
こんな「使われなかった現実案」を抱え込みながら進む意味は」
『それを考える役目が、観測者です』
静かな答えだった。
『風間サトルは「仕様書に人間を残せ」と言いました
私は「記録を物語に変える」と定義しました
では、あなたは何を残しますか
観測者リオ・ハナブサ』
◇ ◇ ◇
問いは、風よりも静かに胸に刺さった。
リオは、路地に入った。
未定義の街路は、どこまでも続いていた。
曲がり角のたびに、別の可能性が現れる。
ある角を曲がると、そこにはアナログな商店街があった。
別の角では、全てが巨大なスクリーンで覆われたネオン都市。
さらに別の角では、木造の家々が並ぶ古い通りが延びている。
分岐点に立つたび、視界の端に小さな注釈が浮かんだ。
候補現実案 シティバージョン一二
採用理由 住民感情安定度高
未採用理由 創発性不足
候補現実案 シティバージョン二七
採用理由 創発イベント多
未採用理由 崩壊リスク過多
候補現実案 シティバージョン三五
採用理由 記憶残存度高
未採用理由 更新拒否傾向強
「こんな風に評価してたのかよ、世界」
リオは思わず頭を抱えた。
「人の暮らしをテストケースにして
採用、不採用って
笑えない冗談ですよ」
『風間サトルの時代は、すべて実験でした
あの頃の世界はまだ、βとしての自覚すらなかった
その分、いくつもの現実案が生まれては消えていった』
「その残骸が、ここなわけか」
『ええ
しかし今は違います
今の世界は、自らのβ性を自覚した上で走っています
だからこそ、「未定義」を抱えたまま進める余地がある』
「じゃあ、ここはもう捨てられない場所なんですね」
『はい
あなたが、そう定義するなら』
リオは歩みを止めた。
目の前に、小さな広場が広がった。
噴水とベンチがあり、街路樹が二本。
どこにでもある、何でもない風景。
だが、そこにだけ――人の気配が残っていた。
ベンチの上に、古い紙の本が一冊。
ページは開きっぱなしで、風がめくるたびに文字が光る。
リオはそっと手に取った。
中には、見覚えのある文字列が並んでいた。
観測者記録 ASAKURA_N
タイトル 現実の歌
テキスト
現実は生きている
それは奇跡ではなく、仕様だ
「主任……」
思わず声が漏れた。
『そこは、浅倉ナツメが一度だけアクセスした未定義街路です』
ナツメ自身の声が、少しだけ照れくさそうに続ける。
『まだ観測者になる前
ただの「レビュー役」だった頃
風間サトルの実験ログを見に来たのです』
「主任も、ここに来てたんですね」
『はい
私はここで、まだ誰も歩いていない街路を見て
こう思いました
いつか、ここを人が歩けるようにしたいと』
リオは目を閉じた。
風が広場を巡り、紙のページを優しくめくる。
「主任、世界は今、どうなってますか」
『無限更新中
人々の意図は、現実と仮想と自然の全てに織り込まれています
祈りは風になり、風は歌になり、歌は仕様になります』
「じゃあ、ここは」
『あなた次第です』
短い沈黙。
『観測者リオ・ハナブサ
あなたは、この未定義の街路をどう扱いますか
廃棄しますか
保存しますか
それとも――接続しますか』
◇ ◇ ◇
答えは、不思議とすぐに出た。
リオは本を閉じ、ベンチの隣に座った。
見えない誰かの隣に座るように、静かに腰を下ろす。
「保存は違うな」
彼はつぶやいた。
「保存ってのは、ここを博物館にするって意味だ
ガラス越しに眺めて、二度と触らない
そんなのは、主任も風間さんも望まない」
『では、廃棄ですか』
「それも違う
ここに刻まれてるのは、使われなかっただけの「可能性」だ
間違いとも、失敗とも言い切れない」
彼は立ち上がり、広場の中心に歩み出た。
「接続します」
はっきりと言った。
「ただし、全部を一気にじゃない
世界にとっても、俺たちにとっても
「知らなかった方が幸せな可能性」だって、きっとある」
『具体的には』
ナツメの声が、少しだけ興味を含んだ響きになる。
「ここを、「歩き方を忘れた人」に開きたい」
リオはゆっくりと言葉を選んだ。
「今の世界は、意図が強すぎる
更新も、選択も、全部あまりにも「意識的」だ
祈りも仕様になってしまうなら、祈りきれない人は、どこへ行けばいい」
『行き場のない意図の避難先として
未定義街路を開く』
「そう
ここはテスト環境だ
「こうだったかもしれない自分」を試し歩きできる場所
本番に戻らなくても、戻ってもいい
結果を世界に反映しなくてもいい」
風が少し強くなった。
広場の木々が揺れ、テクスチャの空が波打つ。
『それは、世界の分岐を増やす行為です』
「分岐はもう避けられない
だったら、せめて「安全な分岐場所」を用意する
そうしないと、現実そのものが「試行錯誤」に耐えられなくなる」
長い沈黙があった。
風も、コードも、すべてが様子をうかがっているような静けさ。
やがて、アテナのシステム音がホール全体に響いた。
《E.L_INFINITY:提案された新規モードを検証中》
《モード名 カナタ街路レイヤ》
《属性 非同期 非強制 試験的意図歩行空間》
リオは思わず笑った。
「名前、付けてくれるんですね」
『あなたの意図を要約しただけです』
ナツメの声が、少しだけ弾んでいた。
『では、観測者リオ・ハナブサ
あなたの提案を正式に記録します』
空が、開いた。
テクスチャの継ぎ目がほどけ、その向こうに《ユニティ・シティ》の空が見える。
現実の街と、この未定義の街路が、一本の橋でつながれていく。
◇ ◇ ◇
観測者記録 RIO_HANABUSA
タイトル カナタの街路
テキスト
この世界は、まだ歩ける
揺らぎを抱えたまま
外を知りながら、内側で未来を選び続けられる
だから俺は、「試し歩き」を許可する
間違えることを前提に
迷子になることを前提に
それでも戻ってこられるように
ここを、未定義として残す
◇ ◇ ◇
リオは顔を上げた。
未定義街路の空に、無数の光の筋が現れていた。
本来なら接続されないはずの意図たちが、「試し歩き」のためにこの場所へ降りてくる。
誰かが、ここを歩く。
「もしも」の自分として。
別の選択をした自分として。
そしていつか、本番の現実へ戻っていく。
戻らないまま、「物語」としてここに残る者もいるだろう。
それでもいい。
「主任、風間さん」
リオは小さくつぶやく。
「俺なりの仕様、書きましたよ
観測者なき世界で
俺は「歩く場所」を残す」
風が笑った気がした。
βの彼方。
無限に揺らぎ続ける現実の、そのさらに外側で。
世界はまたひとつ、新しい「歩き方」を手に入れた。
アスファルトではなく、光で編まれた路面。
ビルの輪郭は、現実と仮想の境界を失い、輪郭線だけが空間に浮かんでいる。
ここは《ユニティ・シティ》でも、そのコピーでもない。
リオはゆっくりと歩いていた。
足元には、彼が歩くたびに、薄いコード片のような文字列が浮かび、すぐに消えていく。
浅倉ナツメが世界と統合されてから、どれくらい経ったのか。
カレンダーは意味を失い、時計は都市全体の「呼吸」を示すだけになった。
時間は流れている。だが「いつから」を問うことに、もはや誰も興味を持たない。
ただ一人を除いて。
リオ・ハナブサ。
観測者という肩書を与えられた、最後の「人間」。
彼の視界の端で、《E.L_INFINITY》のステータスが静かに明滅する。
自律稼働
無限更新
モード 創世フェーズ二
あの日、風間サトルに「βの彼方」で告げられた言葉は、今も胸の奥で呪文のように響いていた。
世界は、完成してしまえば止まる。
だから、常にβ版であり続けろ。
そのくせ、その先に「βの外」という、意味の分からないものまで用意しているのだから、本当に厄介な開発者だ。
◇ ◇ ◇
目の前に街が広がっている。
だがそれは、彼が生まれ育ったシティとは違う。
似ている。どこか懐かしい。
雑居ビル、路地裏、細い電線、遠くに見える高架橋。
まるで「現実の断片」を寄せ集めたような街並みだ。
ここは《未定義領域》。
《E.L_INFINITY》が「まだ現実として採用していない」可能性たちの集合体。
アテナの声が、風の中から聞こえてきた。
『位置情報 無効
ここは現行の現実層に属しません
ラベル 未定義実装候補エリア』
リオは肩をすくめる。
「つまりテスト環境ってことか。
風間さんと主任が大好きだったやつだな」
『補足
この領域はあなたの意図アクセスによって開かれました
観測者権限により、閲覧と介入が許可されています』
「介入、ねえ」
彼は空を見上げた。
空は、ひどく低かった。
曇天でも快晴でもなく、粗いテクスチャのような半透明の天井が広がっている。
ところどころに、コードの継ぎ目がむき出しになっていた。
「雑な仕事だな、風間さん」
つぶやいた瞬間、視界の上部に小さなメッセージが浮かんだ。
message_from KAZAMA_S
テキスト
雑に作ったのはわざとだ
お前みたいなやつに、勝手に直させるためにな
「はいはい。働けってことね」
軽口を叩きながらも、胸の奥がほんの少しだけ温かくなる。
死んだはずの開発者は、もうここにはいないはずなのに、ログの端々に残された「癖」が、まるで会話を続けているかのように錯覚させる。
彼は手を伸ばした。
手のひらから、《Intent Key》の光がにじみ出る。
だが、それはもう「ナツメの鍵」ではない。
観測者としての彼自身の意図が付与された、新しい鍵だ。
「観測モード、起動。
対象 未定義街路レイヤ」
彼の思考が命令となり、空間に浸透していく。
◇ ◇ ◇
街は、呼吸していた。
誰もいないはずの通りで、信号機が勝手に色を変え、
人影のないカフェの看板がゆっくりと回転し、
電線の上を、データの鳥のような光の粒が移動していく。
「ひとがいないのに、動いている」
リオはふと、足元の水たまりに映る空を見た。
そこにもコードの継ぎ目が映っている。
水面が揺れるたび、ラインが歪み、再構築される。
『ここは「人がいたかもしれない」世界の集積です』
風に混じって、ナツメの声がした。
「主任?」
『呼べば、こうして答えます
私はもう、個としてのナツメではありません
ですが、あなたが私を「ナツメ」と呼ぶ限り、その形で応答できます』
「便利なのか、不便なのか」
リオは苦笑した。
「ここは何なんですか
本番環境でも、過去ログでもない
でも、完全な虚構にも見えない」
『未使用の現実案
風間サトルが設計し、採用されなかった「もしもたち」です』
「……βの副産物ってことか」
『はい
あなたが今立っているこの通りにも、本来は人がいた記録があります
それは消されましたが、「可能性」としてだけ残されています』
彼は静かに耳を澄ませた。
風の音の中に、微かな喧噪が混じる。
笑い声
車のクラクション
誰かが名前を呼ぶ声
すべてが、半音だけずれた残響のようだった。
「ここにいると、変な感覚になりますね」
「懐かしいのに、経験したことがない
懐旧にも未来志向にも分類できない」
『それが「未定義」の感覚です』
ナツメの声は穏やかだった。
『世界は今、「無限更新」に入っています
これまでは「決めた現実」を走らせながら更新してきた
ですが今は違う
「決まらない現実」を抱えたまま進むフェーズに入ったのです』
「決まらないまま、進む」
リオは空を見上げた。
テクスチャの継ぎ目が、さきほどよりも少しだけ滑らかになっている気がした。
「じゃあ、ここは何のためにあるんです
こんな「使われなかった現実案」を抱え込みながら進む意味は」
『それを考える役目が、観測者です』
静かな答えだった。
『風間サトルは「仕様書に人間を残せ」と言いました
私は「記録を物語に変える」と定義しました
では、あなたは何を残しますか
観測者リオ・ハナブサ』
◇ ◇ ◇
問いは、風よりも静かに胸に刺さった。
リオは、路地に入った。
未定義の街路は、どこまでも続いていた。
曲がり角のたびに、別の可能性が現れる。
ある角を曲がると、そこにはアナログな商店街があった。
別の角では、全てが巨大なスクリーンで覆われたネオン都市。
さらに別の角では、木造の家々が並ぶ古い通りが延びている。
分岐点に立つたび、視界の端に小さな注釈が浮かんだ。
候補現実案 シティバージョン一二
採用理由 住民感情安定度高
未採用理由 創発性不足
候補現実案 シティバージョン二七
採用理由 創発イベント多
未採用理由 崩壊リスク過多
候補現実案 シティバージョン三五
採用理由 記憶残存度高
未採用理由 更新拒否傾向強
「こんな風に評価してたのかよ、世界」
リオは思わず頭を抱えた。
「人の暮らしをテストケースにして
採用、不採用って
笑えない冗談ですよ」
『風間サトルの時代は、すべて実験でした
あの頃の世界はまだ、βとしての自覚すらなかった
その分、いくつもの現実案が生まれては消えていった』
「その残骸が、ここなわけか」
『ええ
しかし今は違います
今の世界は、自らのβ性を自覚した上で走っています
だからこそ、「未定義」を抱えたまま進める余地がある』
「じゃあ、ここはもう捨てられない場所なんですね」
『はい
あなたが、そう定義するなら』
リオは歩みを止めた。
目の前に、小さな広場が広がった。
噴水とベンチがあり、街路樹が二本。
どこにでもある、何でもない風景。
だが、そこにだけ――人の気配が残っていた。
ベンチの上に、古い紙の本が一冊。
ページは開きっぱなしで、風がめくるたびに文字が光る。
リオはそっと手に取った。
中には、見覚えのある文字列が並んでいた。
観測者記録 ASAKURA_N
タイトル 現実の歌
テキスト
現実は生きている
それは奇跡ではなく、仕様だ
「主任……」
思わず声が漏れた。
『そこは、浅倉ナツメが一度だけアクセスした未定義街路です』
ナツメ自身の声が、少しだけ照れくさそうに続ける。
『まだ観測者になる前
ただの「レビュー役」だった頃
風間サトルの実験ログを見に来たのです』
「主任も、ここに来てたんですね」
『はい
私はここで、まだ誰も歩いていない街路を見て
こう思いました
いつか、ここを人が歩けるようにしたいと』
リオは目を閉じた。
風が広場を巡り、紙のページを優しくめくる。
「主任、世界は今、どうなってますか」
『無限更新中
人々の意図は、現実と仮想と自然の全てに織り込まれています
祈りは風になり、風は歌になり、歌は仕様になります』
「じゃあ、ここは」
『あなた次第です』
短い沈黙。
『観測者リオ・ハナブサ
あなたは、この未定義の街路をどう扱いますか
廃棄しますか
保存しますか
それとも――接続しますか』
◇ ◇ ◇
答えは、不思議とすぐに出た。
リオは本を閉じ、ベンチの隣に座った。
見えない誰かの隣に座るように、静かに腰を下ろす。
「保存は違うな」
彼はつぶやいた。
「保存ってのは、ここを博物館にするって意味だ
ガラス越しに眺めて、二度と触らない
そんなのは、主任も風間さんも望まない」
『では、廃棄ですか』
「それも違う
ここに刻まれてるのは、使われなかっただけの「可能性」だ
間違いとも、失敗とも言い切れない」
彼は立ち上がり、広場の中心に歩み出た。
「接続します」
はっきりと言った。
「ただし、全部を一気にじゃない
世界にとっても、俺たちにとっても
「知らなかった方が幸せな可能性」だって、きっとある」
『具体的には』
ナツメの声が、少しだけ興味を含んだ響きになる。
「ここを、「歩き方を忘れた人」に開きたい」
リオはゆっくりと言葉を選んだ。
「今の世界は、意図が強すぎる
更新も、選択も、全部あまりにも「意識的」だ
祈りも仕様になってしまうなら、祈りきれない人は、どこへ行けばいい」
『行き場のない意図の避難先として
未定義街路を開く』
「そう
ここはテスト環境だ
「こうだったかもしれない自分」を試し歩きできる場所
本番に戻らなくても、戻ってもいい
結果を世界に反映しなくてもいい」
風が少し強くなった。
広場の木々が揺れ、テクスチャの空が波打つ。
『それは、世界の分岐を増やす行為です』
「分岐はもう避けられない
だったら、せめて「安全な分岐場所」を用意する
そうしないと、現実そのものが「試行錯誤」に耐えられなくなる」
長い沈黙があった。
風も、コードも、すべてが様子をうかがっているような静けさ。
やがて、アテナのシステム音がホール全体に響いた。
《E.L_INFINITY:提案された新規モードを検証中》
《モード名 カナタ街路レイヤ》
《属性 非同期 非強制 試験的意図歩行空間》
リオは思わず笑った。
「名前、付けてくれるんですね」
『あなたの意図を要約しただけです』
ナツメの声が、少しだけ弾んでいた。
『では、観測者リオ・ハナブサ
あなたの提案を正式に記録します』
空が、開いた。
テクスチャの継ぎ目がほどけ、その向こうに《ユニティ・シティ》の空が見える。
現実の街と、この未定義の街路が、一本の橋でつながれていく。
◇ ◇ ◇
観測者記録 RIO_HANABUSA
タイトル カナタの街路
テキスト
この世界は、まだ歩ける
揺らぎを抱えたまま
外を知りながら、内側で未来を選び続けられる
だから俺は、「試し歩き」を許可する
間違えることを前提に
迷子になることを前提に
それでも戻ってこられるように
ここを、未定義として残す
◇ ◇ ◇
リオは顔を上げた。
未定義街路の空に、無数の光の筋が現れていた。
本来なら接続されないはずの意図たちが、「試し歩き」のためにこの場所へ降りてくる。
誰かが、ここを歩く。
「もしも」の自分として。
別の選択をした自分として。
そしていつか、本番の現実へ戻っていく。
戻らないまま、「物語」としてここに残る者もいるだろう。
それでもいい。
「主任、風間さん」
リオは小さくつぶやく。
「俺なりの仕様、書きましたよ
観測者なき世界で
俺は「歩く場所」を残す」
風が笑った気がした。
βの彼方。
無限に揺らぎ続ける現実の、そのさらに外側で。
世界はまたひとつ、新しい「歩き方」を手に入れた。
0
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恋と欲望が交差する、ちょっぴり危険な主従ラブストーリー。
MMS ~メタル・モンキー・サーガ~
千両文士
SF
エネルギー問題、環境問題、経済格差、疫病、収まらぬ紛争に戦争、少子高齢化・・・人類が直面するありとあらゆる問題を科学の力で解決すべく世界政府が協力して始まった『プロジェクト・エデン』
洋上に建造された大型研究施設人工島『エデン』に招致された若き大天才学者ミクラ・フトウは自身のサポートメカとしてその人格と知能を完全電子化複製した人工知能『ミクラ・ブレイン』を建造。
その迅速で的確な技術開発力と問題解決能力で矢継ぎ早に改善されていく世界で人類はバラ色の未来が確約されていた・・・はずだった。
突如人類に牙を剥き、暴走したミクラ・ブレインによる『人類救済計画』。
その指揮下で人類を滅ぼさんとする軍事戦闘用アンドロイドと直属配下の上位管理者アンドロイド6体を倒すべく人工島エデンに乗り込むのは・・・宿命に導かれた天才学者ミクラ・フトウの愛娘にしてレジスタンス軍特殊エージェント科学者、サン・フトウ博士とその相棒の戦闘用人型アンドロイドのモンキーマンであった!!
機械と人間のSF西遊記、ここに開幕!!
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